8月28日9時54分:乗客③

床を蹴り、バッグを床に叩きつけ、見るからにへなちょこなパンチを椅子に叩きこむ。その間にも少ない語彙での罵詈雑言は欠かさない。もはや乗客全員がおっさんの姿を無視できなくなっていた。モノの次はヒト、的なノリでいつ殴り掛かられるか分かったものではない。耐えかねた主婦らしき二人組がそそくさと車両後方に移動した。その逃げるような移動が男を刺激しうるものであった可能性を鑑みれば、彼女たちの行動はむしろ勇気にあふれているといえるだろう。

彼女らに追随する形で数名が立ち上がって退散した。もっとも、逃げようにもこの狭い車内ではたかが知れているわけだが。はあ、10両編成ぐらいあるらしい都会の電車がうらやましいぜ……。

塩野はあくまで静観を貫いていた。

おっさんとは多少距離があるし、あんなわけのわからん野郎に自分の行動を規定されるのが何となくシャクだった。何というか、敗北感がある。こうやって気をもんでいる時点で負けといえば負けなのかもしれないが。

あの人も同じようなこと考えてんのかな──塩野はおっさんと目が合わないように気を付けながら、その隣に腰掛けた眼鏡をかけた若い男性を見やった。客の大半が車内後方に固まっているので、前方はガラガラである。にもかかわらず、荒ぶるおっさんの隣で硬直したまま動かないメガネニキの姿は、いささか奇妙である。

まぁそんなことどうでもいいや!楽しいことを考えよう!そう、それこそ、これから行く彼女とのデート、八木さんとのデートのこととかね!

というかそろそろ名字で呼ぶのもやめたいな。バイト仲間から発展した関係だけに、下の名前で呼ぶタイミングをつかみ損ねちゃったけど、今回の初デートで中が深まったら「香織さん」って呼んでみようかな……。

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