8月28日9時52分:逃亡者⑥

いや確かに言った。なんだってやってやるとは言った。でも本当にやるのか?良識ある社会人としての川瀬健人が必死にブレーキを踏む。

「次は、土佐昭和~土佐昭和~」

土佐大正駅の一つ前の駅にもうすぐ着くらしい。

ええい!覚悟は決めたはずだろう!川瀬健人!これしかないんだ!あとはやるだけ!やるだけで復讐が果たされるかもしれない!組織の連中に泣きべそかかせて、希望にあふれた第二の人生を送りたいんだろう!やるだけだ!やるだけなのに…っ!

川瀬の足が勝手に貧乏ゆすりを始める。浅い息遣いで、両肩が激しく上下する。汗が頬を伝って流れ、顎から床めがけて落ちる、その時だった。

ぽん、と肩に生暖かい感触が伝わる。人の手が自分の肩にのったのだと理解するまでに、わずかに時間を要した。川瀬が驚いて振り向くと、そこにはとんでもなく不潔な見た目をした一人の中年男性の姿が目に飛び込んできた。中途半端な伸び方をした髪の毛は毛の一本一本が四方八方に飛び交い、肌はクレーターのような凹凸で埋め尽くされていて、黒いTシャツが窮屈そうにその肌に密着している。腰につけられた黒いポーチは、今にもずり落ちそうだ。

いや、この男がどんな容姿をしていようがそれは彼の自由なのだ。問題なのは、この男が川瀬の肩に親しげに手を置いていることであり、なぜか「大丈夫、あとはワシに任せなさい」とでもいいたげな穏やかな笑顔を見せていることであり、そしてどれだけ記憶の糸をたどってもこのクセ強め中年男と川瀬との接点が全く思い出せないことだった。

そもそもこの男、いつからここにいた?こんなにクセの強い男が隣にいながら、今の今まで全くその気配を感じなかったのだから驚きだ。

電車の座席で隣同士、全く面識のない男二人が互いに見つめ合って、永遠にも感じられるほどの時間が過ぎた。

ツンと鼻に流れ込んできたタバコの臭い、これは川瀬がいつも吸うのと同じ銘柄だ。あまり万人受けするタイプの銘柄ではないだけに珍しい。とはいえ、この不潔なおっさんと自分との共通点が見つかったところで、うっすら不愉快なだけである。

「な、」なんですか、と、ようやく川瀬が口を開かんとしたとき、ふっと川瀬の肩が軽くなる。男が手を離したのだ。あっけにとられる川瀬を気にも留めず、中年男は前へ向き直る。

そして、男はおもむろに大きく息を吸うと、

「ふざけるな!!!!!」

と、叫んだ。

川瀬が、乗客全員が、一斉に肩をびくりと持ち上げる。大きな声に驚いた乗客が一瞬硬直し、すぐに視線をこちらへ向ける。その中で、川瀬はだれよりも男の言葉に衝撃を受けていた。驚きのあまり全身の筋肉が言うことを聞かない。

「電車内で大声で騒ぎまくるヤバい奴になる」

それこそが、川瀬が思いついた、組織の計画を止めるための策だった。確実に電車を足止めできて、かつ大ごとにならないギリギリのライン。学生時代に都会の電車で時折目撃した、電車の中で何やら喚き散らかして周囲の乗客とダイヤに多大な迷惑をかける奴、アレになるのだ。今の季節なら、乗客たちも「まあ最近暑いしね、変な奴ぐらい湧くか」と納得してくれるはずだ。警察沙汰にもなるまい。要するに、威力業務妨害罪で捕まらない程度の、迷惑客の上限値を狙うのだ。

目の前の中年男の挙動は、まさしく川瀬が先刻までやろうとしていたことだった。

「なぜ」の二文字が川瀬の脳内を支配する。

「いい加減に…いい加減にしろよ!」

「チクショウ!」

驚きと、得体のしれない存在に対する恐怖心で硬直した川瀬の隣で、中年男はなおも大声を上げ続けていた。

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