8月28日9時48分:実行犯①
これから起こるであろう惨劇を知ってか知らずか、土佐大正駅上空の空は暢気なまでに晴れ渡っていた。
この駅は無人駅。改札はなく、駅舎から小さなトンネルを抜け、階段を上った先に、鬱蒼とした森や、伸び放題の下草に囲まれたホームが現れる。
八木香織は古びた時刻表の「窪川行 10時07分」の表示を確認したのち、手近なベンチに腰掛ける。少し緊張した面持ちで電車を待つその姿は、まさしくこれからデートに向かう女子の恰好であった。これから電車内でテロを起こし、自らも死ぬ予定の人間の姿だとは、はた目には想像もつくまい。
八木はスマホを取り出すと、親指を素早く動かし、『現着しました』とそっけないメッセージを支部長へ送信。
続けて「なつき」と表示された連絡先を開く。すでに家を出たとの報告は受けたが、念のため最終確認をば。
『駅についたよ 楽しみすぎて早く着いちゃった いまどの辺?』文字を打った指を、画面上の紙飛行機マークへ動かす。いや、やっぱりやめた。紙飛行機に触れる直前で八木の親指は停止した。そのまま×マークを連打してさっき打った文字を削除する。十分に釘はさしてある。何かあったら向こうから連絡があるだろう。
オズワルドに塩野夏樹が選ばれたのは、都合がよかったから。塩野は、ときに反社会的な活動も行う過激な宗教の信者である親の元に生まれた、いわゆる宗教2世だ。彼を実行犯に仕立て上げれば、今回の計画の黒幕の疑いをその宗教団体に向けさせることができる。
それでもなお、疑問は残るだろう。塩野の両親は彼に信仰を強制することはなかったらしい。それゆえに、いたって普通の高校生として楽しい毎日を過ごすことができていた。それなのになぜ凄惨なテロの実行犯に?という疑問。いち宗教団体が、どうやってこんな正体不明の毒薬を?という疑問。
しかしながらそれらの疑問は解決を見ることはない。〈新薬〉の効果は絶大。放出されるガスが微量でも人体に入ると確実な死をもたらす。塩野は死ぬ。そして死人は黙して語らない。オズワルドに選ばれた時点で彼の死はもう決まったも同然だ。計画が成功し次第速やかに塩野の両親にも死んでもらい、事件は多くの謎を残しながらも容疑者死亡で決着。〈新薬〉の「調合」が無事に終わった今、ここまではもはや決定事項であると言ってよかった。
八木の仕事は、オズワルド・塩野夏樹に接近し、決められた時間に決められた電車に乗るように誘導すること。そして、走行中の電車内で彼のカバンの中にこっそり〈新薬〉が入ったビンを入れたのち、テロの被害者を装って電車の中で死ぬこと。ただし、死後に二人の接触の痕跡が一切残らないように細心の注意を払う必要があった。事件の数か月前から塩野に急接近していた存在として警察の捜査線上に八木の名前が上がれば、わが組織の陰謀がすべて露呈してしまう可能性は高い。
塩野のアルバイト先である「おべんとうのささき」に潜入した八木は、首尾よく塩野に接近し、交際を申し込んだ。何度もデートに誘われたが、八木はそれを拒み続けた。二人でいるところを見られるわけにはいかない。塩野には二人の関係を絶対に隠すように何度も釘を刺し、そして彼はそれを忠実に守っていた。塩野が家族にも交際相手の存在を伏せていたことは、塩野の自宅に仕込んだ盗聴器からわかる。誠実な男だ。でも、それゆえに彼は死ぬ。
八木と塩野の交際を証する唯二つの物体が、二人のスマートフォンだ。二人のメッセージのやり取りを見られれば、一発で二人の交際関係が露呈する。そこは、吉永が何とかしてくれた。一度削除してしまえばやり取りの記録が一切残らないアメリカ裏社会御用達のメッセージアプリに、「恋人専用チャットアプリ」の皮を被せた。
八木の方から「連絡にはこのアプリを使おう」と塩野に伝えたところ、すぐに応じてくれた。吉永のボタン一つで、二人の端末の会話の記録は全て消し飛ぶ。
事件後に死体となった二人の関係性をはたから見れば、「たまたま同じ電車に乗り合わせただけの赤の他人」でしかない。
自分が死ぬのは怖くない。両親はすでにいない。私が死んでも誰にも迷惑はかからない。あと30分もしないうちに死ぬ予定であるというのに、八木の脳内のメインコンテンツは自分の人生に関することではなく、塩野夏樹のことだった。
つくづく、哀れな男だ。恋人に裏切られて殺された挙句、死後は大罪人として世間に憎まれる。あんなに誠実で優しい男が。だからこそ、人生最後の30分くらいは、私なんかに、裏切り者の恋人なんかに邪魔されない平和な時間を過ごしてほしい。緊急事態以外はこちらからの連絡は控えよう。
手元のスマートフォンから顔を上げると、夏の湿気をたっぷりと含んだ風が木々をざわざわと揺らしている。視線を近くに戻すと、蚊の十分の一ほどの微小な大きさの意味わからん虫たちが八木の周囲を意味わからん動きで飛び回っている。中には2匹の虫がくっついたまま、交尾しながら飛び回っているものもいる。俊敏な動きで動き回る他の個体と違って、二匹セットで動くこういう奴らは動きが鈍い。パチン、と手をたたき、手元をのぞき込むと、意味わからん虫が2匹、八木の手のひらの上でつぶれて死んでいた。
呆気なく死んだ虫たちを見ているうちに、正気に戻った。なんてくだらないことを考えてたんだ、私は!死ぬ前くらい自由な時間を過ごしてほしい?さんざん騙した挙句、これから殺す相手に向かって?そんなちっぽけな善意もどきで胸の内の罪悪感を誤魔化そうとしたつもりか?そんなのはただのエゴでしかない。
私が、殺すんだ、彼を。決意を新たにしたその表情が、これからデートに向かうにしては険しすぎるものになっていたことに、八木は気付かなかった。
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