8月28日9時25分:組織②

「調合第三段階の成功を確認しました!これより最終調整に入ります!調合完了までは残り15分です!」

金属製の薄いデスクの上に隙間なく並べられた計器類を凝視していた部下がこちらを振り返りながら叫んだ。やや後ろにのけぞった部下の背中に合わせて、パイプ椅子がギギギと苦しげな声を出す。

「グッド!計器から目を離すなよ。プロブレムがあればすぐに知らせろ」

この計画の責任者たる吉永としては、今日ばかりは支部長室に籠ってもいられない。昨日まで川瀬のデスクだった場所に腰掛け、夜通し「調合」の進捗と部下の様子に目を光らせていた。昨日から一睡もしていなくとも、疲れは全く感じない。吉永にとっては文字通り命がけの計画、全身の細胞が臨戦態勢をとっているようだ。

「調合」は第三段階を終え最終調整へ。ここまでくればもう大丈夫だろう。15分後に〈新薬〉が、全く新しい化学兵器が完成する。

吉永が日本支部のアジトをこの高知県に置いたのには、人気の少ない小さな村が身を隠すのに適していたというだけではない、ある重大な理由があった。

現在吉永ら日本支部のメンバーによって開発されている〈新薬〉、K2O-0141は、ポケットの中の糸くずほどの量で旅客機の乗客全員を虐殺できるほどの高い殺傷能力・拡散力や、毒性を発揮したのちに素早く人体に吸収・分解されることにより、毒物として検出されにくいといったメリットを持ち、次世代の暗殺・大量破壊兵器として、もともとは米国本部の化学部隊によって研究されていた。しかし、K2O-0141の生成過程における、相反する性質をもった二種の物質を共に生かしながら一つにまとめるという作業は難航を極め、やがて本部の開発チームは匙を投げた。

そんな中で吉永は、二つの物質の間にさらにある物質を加えることによって、この複雑な作業が実現しうることに気が付いた。その物質は、黒潮に乗って日本近海にやってくるサバ科の魚類、カツオに多分に含まれていた。不思議なことに、カツオから抽出したエキスを配合することによって、〈新薬〉はひとつの化学兵器として安定したのである。

化学チームの末端構成員だった5年前の吉永は、カツオエキスの可能性に気付くと、猜疑の目を向ける上司を何とか説得し、単独での研究継続許可を取り付けた。このまま組織の下っ端として活動して、危険な実験の被検体として一生を終えるよりは、一か八かこの〈新薬〉に賭けた方がいい──単身日本に渡った吉永は、新たな活動拠点として、迷うことなくこの高知県を選んだ。その理由は言うまでもなく、高知県がカツオの一大産地だったからである。

ここまでで、計画の進行を妨げるような重大な問題は発生していない。川瀬の逃走も、新薬自体に影響がないと分かればほんの些事だ。

よし。吉永はにわかに椅子から立ち上がる。

「エブリワン!ここでもう一度、計画を確認したい。」神妙な面持ちでそれぞれの仕事に取り組んでいたメンバーが、一斉に吉永に目をやる。

「調合は順調。15分後に最終調整に入れば、9時40分にすべてが完了すると見込まれている。知っての通り、新薬は鮮度が命!調合が終了してから一時間が経過するとその効果がロストする!」

カツオエキスの配合によって、K2O-0141が持つ全てのデメリットは解決されたかに見えたが、今度は新たな問題が浮上した。それが、鮮度の問題である。

カツオは足が速い。ゆえに、カツオから抽出したエキスも傷みやすい。そうはならねえだろ、生魚とそれから抽出したエキスは別物だろ、関係ないだろ、と言いたくなる気持ちはわかるが、実際そうなってしまったのだから仕方がない。

調合完了からきっかり1時間で、〈新薬〉K2O-0141はその毒性の一切を失い、ただの焦げ茶色の砂粒と化す。

この唯一にして最大の難点を克服するべく、何度も試行錯誤を重ねてきたが、日本支部のカツカツの予算ではどうしようもなかった。追加の資金援助さえあれば〈新薬〉は完全なものとなるのに!その資金援助をもらうためにはまず〈新薬〉の成果を示せと言われる!

……仕方なく、1時間のタイムリミットという巨大な欠陥を抱えながらも、新薬の実戦投入、つまりは近隣を走る列車内でのテロを計画するに至ったのである。

「調合完了は9時40分!したがって〈新薬〉の効果は10時40分まで持続する!おい八木!」

「はい!」

「いい返事だ!調合が完了次第すぐに〈新薬〉を持って土佐大正駅に移動しろ!」

「かしこまりました!」

八木はこの組織に唯一の女性メンバーだ。最も若いメンバーでもある。目つきの悪いおっさん達と違って外部から怪しまれにくいので重宝している。

「駅に着いてからのことは頭に入っているな?」

「はい。10時7分発の予土線窪川行きに乗車し、オズワルドと合流します。」凛とした八木の声は薄暗い地下室の中をよく通る。アジトが薄暗いのは、もちろん電気代節約のためだ。

「よし。頼んだぞ八木君。この計画の成否は君にかかっている。とても名誉ある役割だ。全力で勤めを全うしなさい。オズワルドとの連絡もついてるな?」

「はい。絶対に当該車両に乗るように釘を刺してあります。今朝の連絡にも返信が来たので問題はないかと」

「エクセレント!」

オズワルドは、今回のテロの実行犯となる予定の男だ。と言っても、彼は今回の計画のことを何も知らない。むしろ哀れな被害者である。

いかに〈新薬〉が毒物として検知されにくいとしても、電車の乗客乗員のすべてが一度に突然死したとなれば、警察は当然テロを疑う。その警察の疑いの目を、この組織とは縁もゆかりもないオズワルドに向けさせることで、捜査の目を逸らす。オズワルド自身を含めた乗客乗員の全員がもれなく〈新薬〉の毒牙にかかるために、真相は闇に葬られる。完璧な作戦だ!

「電車の運行状況は!」

「9時27分現在、当該路線は遅れなくダイヤ通りに運行しています」部下の一人がすかさず答える。

「さすがは日本の鉄道会社だな。念のため運行情報は10分おきに確認しておくように」

「はい!」

吉永らにとって、ここだけが懸案であった。テロの罪を擦り付けるオズワルド無しでは、この計画は実行できない。逆に言うと、この計画を止めたいと思えば、オズワルドに直接接触するか、電車の運行を妨げるかして彼の到着を阻止してしまえばいいということになる。

逃走した川瀬が直に計画を阻止せんとする可能性もなくはない。オズワルドにつけた監視役によれば、現時点で怪しい動きは見られないらしい。そりゃそうだ。オズワルドの情報は吉永や部長、係長、そして八木といった限られた人間しか知らない。川瀬がオズワルドに接触しようにも、オズワルドが誰であるかを知らなければどうしようもない。ただし、鉄道会社に対しては急遽根回しが必要になった。

ラストチャンスのために有り金はたいてカツオを購入したために予算はカツカツ、何とか絞り出した5000円しか拠出できなかったが、鉄道会社との交渉を担当した係長曰く、「重役との接触および買収に成功。確実にダイヤ通りに動かすとの確約を取り付けた」そうだ。ほんとか?

「最終調整開始まで、残り10分です!」部下の声が響く。

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