8月28日7時11分:逃亡者②

シャワシャワシャワシャワ……目が覚めた川瀬の耳にまず飛び込んできたのは、蝉の声の大合唱だった。ここはどこで、私は誰?しばしの自失の後、ようやく自分が置かれた状況を思い出す。

時刻は7時を過ぎたあたり。ボロボロの小屋のガサガサの床板の上にそのまま横になったにもかかわらず、ここ4ヶ月で一番の快眠を得てしまった。普通なら怖くて眠れなくなりそうなこんな場所にありながら謎の安心感に包まれてスッと眠れたのも不思議なことだ。よっぽどあの組織の環境が精神衛生に悪かったらしい。廃屋の扉を開け放つと、眩しい朝日が一気に差し込んできた。その辺に脱ぎ散らかした靴下とスニーカーを履きなおして、川瀬は外へ出た。

敵は土佐大正駅にあり。なんとしても、あの組織によるテロ行為の決行を防がなければ。逃走から一夜明け、川瀬は気分を新たに対処すべき問題に立ち向かう。

川瀬にとって、テロによってどれだけの被害が出るかや、人が何人死ぬかは大した問題ではなかった。何としてもテロ計画を止めんと川瀬を駆り立てるのは、ひとえに復讐心であった。自分をコケにした組織への復讐。自分の労働に対価を払わなかった組織への復讐。

組織に入ってからというもの、組織は川瀬に何も与えていない。かろうじて川瀬を労働へと向かわせていた薄っぺらい誉め言葉も、その裏にある意図が透けてしまった今となっては無価値だ。川瀬に何も与えていない組織に対して、自分は愚かにも身をささげてしまった。数か月もの間、為せるすべてをささげた自分と、そんな自分に何も与えなかった組織。この不均衡を正すには、自分の献身を無駄にしてしまえばいい。自分が組織に捧げた労働の成果をゼロにしてしまえば、彼らが自分に与えてくれたものとの間に0=0の等式が成り立つ。自分からの搾取で成り立っている計画を、絶対に成功させるわけにはいかない。

それ以上に恐ろしいのは、もしこの大規模テロ計画が実行され、かつそれが組織の犯行によるものだとバレた場合である。そうなると当然、新薬の製作に大きくかかわった自分にも捜査の手が及ぶだろう。テロが成功すれば即座に米国本部の支援を受けられる組織の連中と違って、川瀬には何の後ろ盾もない。

もし捕まれば、かなりの重罪になることは間違いない。冗談じゃない!なぜ巻き込まれただけの自分が刑務所に入れられなきゃいけないんだ。組織から何も与えられなかっただけでなく、組織によって自由までもが奪われることにもなりうる。やはり絶対に計画は阻止しなければ。

逃走前に調合そのものを妨害することも考えたが、何せ組織の命運がかかった新薬であるだけに監視の目が厳しく、とてもちょっかいをかけられる状況ではなかった。やはり計画の実行段階を、新薬が使われるそのタイミングを潰すしかない。

とはいえ、それは別に難しいことではない。こうすりゃいいだけじゃ!森を出てから歩くこと15分、奇跡的に見つかった公衆電話に、さっき自販機の下で拾った100円玉を投げ込み、スマホで調べた番号に素早くダイヤルする。ぷるるるる…という音が二回繰り返されたのち、

「はい、JL四国お客様相談センターです」つながった。川瀬は小さく息を吸い、黄緑の塗装がところどころ剥げた受話器に話しかける。

「今日の9時以降、土佐大正駅を通るすべての路線を運休しろ」

「…はい?」

「土佐大正駅に爆弾を設置した。客を死なせたくなければ、運休しろ」

「えっ、は…はあ、失礼ですが、どなたからのお電話でしょうか?」この係員、なかなか肝が据わってやがる!

「言うわけないだろそんなの!とにかく、今日の9時以降の予土線を止めるんだ!じゃなきゃ大勢が死ぬぞ!わかったな!」

「そこ無人駅なんでそんな大勢はいな……」

「うるせい!電車止めろったら止めろ!」

そう吐き捨てると、さっさと電話を切る。さすがにこれだけ重大な要件の電話を無視して電車を運行することはあるまい。おそらくはこれで大丈夫だと思うが…。

案外あっさりと復讐は果たされそうだ。

スマートフォンをポケットにしまうと、電話ボックスを出た。腹が減ったが、万が一自分が犯罪者になった時のことを考えて、監視カメラのあるコンビニなどに行くのはやめておくべきだろう。うっかり組織からの追手に出くわす可能性もゼロではない。もしいるならばの話だが。

9時まで待って、列車の運休を確認できればそれですべてが終わる。復讐は果たされ、犯罪者になるリスクも消え、ついでに人びとの命も救える。そしたら、どこかでささやかな祝杯をあげよう。スマホの中の電子マネーにはまだ多少の残高が残っているはずだ。そんなことを考えながら、来た道を戻り、再び鬱蒼とした森の中に足を踏み入れる。廃屋に戻ると、川瀬は冷たい床板の上に大の字になって寝ころんだ。かすかな埃のにおいが川瀬の鼻に流れ込んできた。

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