8月27日20時46分:逃亡者①
田畑と林とがひたすらに続く人影のない田舎道を、やつれた顔に眼鏡が乗っかった、神経質そうな男がこそこそと歩いていた。長閑な田園の風景にはいささか似合わない風貌である。この男こそ、川瀬健人その人である。
組織のアジトから脱して3時間、川瀬は疲れ切って、表情を浮かべるのも面倒だとでもいうような無表情で、鬱蒼とした林の中にふらふらと入っていく。川瀬の汗のにおいをかぎ取ったのか、耳元で蚊が不快な音を立てる。下草をかき分けながらしばらく進むと、突然川瀬の目の前が開けた。何やら廃墟化した建物があるようだ。あやしがりて寄りて見るに、どうやら古い神社仏閣の類らしい。
暗いうえに大いに荒廃していて寺なのか神社なのかさえはっきりしないが、とりあえずそれっぽい小さな小屋と賽銭箱があったために、宗教施設であったらしいことはわかる。実に不気味であるが、ここなら万一にも追手には見つかるまい。もしここまで脱走した人間に追いつくだけの人手と資金力があの組織にあるなら、そもそも脱走なんかしてないやい、と川瀬は心のうちで吐き捨てる。
ポケットの中を乱暴にまさぐると、奇跡的にタバコが3本とライターが出てきた。
数秒の逡巡ののち、そのうちの一本を賽銭箱に投げ込んだ。信心深い方ではないが、流石にタダでここに足を踏み入れるのは気が引ける。ついでにお祈りもしておく。組織を脱走した今日から始まる第二の人生がうまくいきますように。
「……って、タバコ1本に背負わせるには重すぎるお願い事かな。」
一切の人気が感じられないこの森の中で独り言を発すると、かえって誰かに聞かれているような気になってくる。本当に、神でも仏でも誰かが聞いているんならこの哀れな男を助けてほしいもんだ。
賽銭箱に投げ込んだ1本を除いて、手元には2本のタバコが残った。この2本を吸い終えるまで、しばしの回想タイムといこう。かちっという音とともに、一瞬、小さな光が川瀬の手元に灯る。
長きにわたる受験戦争を勝ち抜き、京都大学の理学部に進学。ブラック研究室を引き当てながらも、3年前に何とか同大学の博士課程を修了した。その後研究職として就職したものの、上司とそりが合わず、精神を病み2年で退職。だが、次の職がなかなか見つからない。
「自分には才能がある」。前職の上司の罵倒から精神を守るため自分に言い聞かせてきた言葉は、いつしか川瀬のプライドを誇大化させ、次の職を探すうえで必要な雇用条件への妥協を妨げた。
そろそろ貯金も底をつく。だが京都大学理学部を出た自分がコンビニでカレーパンを温める?嫌だ!でもお金はない。そんな日々で、身の丈に合わない超高倍率の企業の採用にことごとく落ち、この高知の片田舎の実家でやさぐれていた川瀬に声をかけてきた相手こそ、あの組織の「係長」だった。
「とりあえず話だけでも聞いてくれないか?もちろん食事代はおごらせてもらうよ」ただ飯の誘惑に負け、つれられた先の居酒屋で、酒に酔い、初対面の係長相手にさんざんこれまでの研究成果を自慢し、前職での愚痴を吐き、ついでについさっき胃に入れたばかりの唐揚げも吐いた。恰幅がよく、人のよさそうな笑顔の係長は、愚痴や自慢話にいやな顔一つせずに相槌を打ち、「君は悪くない」「君はすごい」「君はよく頑張ってる」と耳に心地いい言葉をかけ、笑顔を崩すことなく店員と共に吐瀉物の処理をしてくれた。「話を聞いてほしい」と声をかけてきたくせに、係長はほとんど聞き役に回って哀れな元研究者の話を聞いてくれた。結局その日は連絡先の交換だけして別れた。
それから数日後、係長から連絡がきた。彼が属する組織への雇用を前向きに検討しており、より細かい説明と条件の交渉のためにもう一度面会の場を設けたいという内容であった。丁寧な文体のメールの中に「あなたのお話を伺う中で、あなたの研究者としての才能を感じ、ぜひとも一緒にお仕事をしたいと強く思うようになりました」という一節を見つけたとき、心がふわっと軽くなるのを感じた。そうだよ、俺には才能があるんだ。自分の才能を認めてくれる人がついに現れた。彼のもとでなら、やっていけるはず──
そんなことはなかった。悪事に手を染めるのが嫌だったわけではない。あんな変な誘い方をしてくる時点で怪しさ満点なのはわかっていたし、元来自分の道徳心は他者と比べてかなりちっぽけなものらしい、と川瀬は自らを分析していた。自分の研究によって大勢の人が死んだとして、多少の罪悪感はあるだろうが、それは虫かごの中のバッタを死なせてしまった小学生が感じるそれとさして変わりない、二晩寝れば忘れてしまう程度の罪悪感だろう。道徳的な正しさよりも、自分の才能が評価されるかどうかのほうが大切だった。そういう意味でも、川瀬には組織での活動に適性があったといえた。それにもかかわらず川瀬が組織から逃亡するに至ったのは──
一本目のタバコが切れた。次第に暗闇に慣れてきた川瀬の眼前には、好き放題に伸び切った草木が無秩序に広がっていた。全方面から虫の混声合唱がいやおうなしに耳に飛び込み、少しうるさい。川瀬は口の中に小さく空気をため、咥えた吸い殻を地面へぷっと射出する。短い吸い殻は、思っていたより近くの足元に着弾した。すかさず二本目を咥え、火をつける。ゆるゆると立ち上る煙を眺めながら、川瀬の脳は再び過去へさかのぼる。
何が川瀬に組織からの逃亡を決意させたのか。答えは単純、稼げなかったからだ。確かに、組織の連中は川瀬を「組織始まって以来の天才」とか「救世主」とたたえ、川瀬を奮起させた。しかし、それらの耳に心地いい言葉たちが、賞賛ではなくおだてだと気づいたのは、組織に勤めて三ヶ月が経っても一向に給料が支払われないまま迎えた2回目の給料日のことだった。彼らは川瀬を本心からほめたたえたのではなく、単に都合よくタダ働きしてくれる機械に燃料を注いでいただけだったのだ。これをやりがい搾取と呼ばずしてなんと呼ぼう!結局、係長との面談の時に提示されたよだれが出るような額の手取りは、ただの一度も川瀬の手元にやってくることはなかった。
かくして男・川瀬健人は、二度目の退職を決意した。しかし、社会に害を与えるために存在している組織に、労働基準法を守る義理はない。こんなにもブラックな組織なのに、川瀬は労基に訴えられない!
川瀬が組織に入る少し前から組織に所属していたらしい山本とかいう男が、大勢の構成員の前で支部長に直々に辞意を表明したことがあった。もみ消されないようにあえて大人数の前で意思を示したのだろう。山本の決死の意思表示を聞いた支部長は声を荒らげることもなく、「中で話そうか、ミスター山本」と穏やかな声で奥の別室へ山本を促した。10分ほどのち、支部長だけが部屋から姿を現し、ついに山本が部屋から出てくることはなかった。あまりの現実味のなさに、そんな悪の組織みたいなことある?と問いたくなったが、残念ながら、川瀬がいたそこは紛れもなく悪の組織のアジトなのだった。支部長の行動がある種の見せしめであろうことはだれの目にも明らかだった。上がこんなに簡単に人材を使いつぶすさまを見ると、係長があんなにヘッドハンティングに必死だったことにもうなづける。
退職即ち死。とはいえ、自分の才能に正当な報酬が支払われないこともシャクだ。となると、道は一つ、逃走しかない。とはいってもそう決めてからが大変で…
じじ…と音を立てて二本目のタバコが燃え尽きる。これからいよいよ組織からの逃亡を敢行するまでの苦難の数々を振り返ろうとしていたところだが、無情にも回想タイムは幕を下ろしてしまったようだ。ぷっと撃ちだした吸い殻は、一発目よりも飛距離を伸ばして着地した。川瀬は仄かな満足感を味わいながら立ち上がった。
そうだ。俺にはまだ、やることがある。
生気を取り戻した穏やかな顔で、川瀬は崩れかけの小屋の中に足を踏み入れた。1歩足を踏み出すごとに、ミシミシと床板が悲鳴を上げた。六畳ほどの広さのスペースの角に、大きめの木箱が複数放置されていた。中に仏像でも入っているのだろうか。木箱の他には特に何もないがらんどうの部屋だったが、不思議なことに、ボロボロの外観とは打って変わって、内部はほとんど荒廃していなかった。今もまだ何かが棲んでいるようにさえ感じられる。虫の羽音もしない。何とラッキーなことか。
よし、寝よう。瞼が重くては戦はできぬ。そういえば組織の宿舎ではストレスであまり寝付けなかったな──なんてことを、次第に遠のいていく意識の中で、川瀬は考えた。
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