8月27日17時12分:組織①
川瀬健人の姿がないことに係長が気付いたのが24分前だ。そこから部長を経て支部長の吉永ダニエルまで報告が上がってきたのが18分前。プロブレムへのスピーディーな対応は評価できる。ホウレンソウは社会人の基本だ。が、そもそも部下の逃亡を許してしまっている時点でいただけない。いや、責任をだれに取らせるかは後で考えればいい。
正面から向き合うと途端に頭が痛くなりそうな問題を前に、つい逸れてしまった思考を吉永は慌てて修正する。どれだけ面倒でも、パーフェクトに対処しないと自分の首が危ない。この組織におけるクビは、正真正銘、比喩表現抜きのクビである。この世での再就職は望めず、転職先は地獄で探す羽目になるだろう。
薄暗い5畳ほどの部屋の中央のデスクで、大きなため息をつきながら吉永は自分の首をさすった。個室が与えられるのは、ここの最高責任者である支部長の特権だ。もっとも、それはプライバシーの安全を意味しない。壁にイヤーあり障子にメアリー、みたいなことだ。
吉永の現在の立ち位置を平たく言えば、「マフィアの下請け」ということになろう。本部はアメリカ南西部にある巨大な麻薬密売組織であり、吉永はその日本支部の支部長を務めている。日本支部、というとたいそうなものに聞こえるが、その実態は吉永と11人の部下(いや、川瀬が抜けて10人か)が、この四国の山奥でこそこそと怪しげな研究を行っているだけに過ぎない。
8歳のときにマフィアの抗争中に発生した不運な事故によって日系人の両親を亡くした吉永は、以後この組織の手で育てられた。体にICチップを埋め込まれ、組織の期待に応えられなければ体に電流が流れて死亡、というなかなかファンタジックな手法で吉永は組織に管理されている。
組織内で化学分野への才能を開花させた吉永は、5年前に「新たな化学兵器の開発」というミッションを帯びて、祖父母の故郷であるこの日本へやってきた。米国本部から得られるのは金銭的支援だけで、素材も人材も現地調達、という苦境の中で、なんとかここまでやってきた。明日の「計画」が成功すれば、ようやくこれまでの努力が報われることになろう。そんなときに川瀬の野郎、余計なことをしやがって!
一時間ほど前から〈新薬〉の「調合」は始まっている。組織のメンバーが「調合」の作業で忙殺されて監視の目が緩んだこのタイミングを狙って川瀬は逃走したらしい。実際奴の狙いは的中したわけだ。一応の追手は放ったが、もはや手遅れだろう。なにしろここは森に囲まれた四国の端っこの村だ。木々の間をしらみつぶしに当たれるだけの人的資源を我々は有していない。
川瀬は新人ながら今回の〈新薬〉の作成において目を見張るような素晴らしい活躍を見せていた。彼無しでは、この複雑怪奇な〈新薬〉の生成は不可能だっただろう。しかし、川瀬が裏切り者だとすると話は変わる。本当に「調合」は成功するのか?
「問題ありません」というのが、呼びつけた部長の見解だ。
「確かに川瀬は今回の〈新薬〉の製造において重要な役割を果たしましたが、決して彼一人に任せていたわけではありません。開発担当のメンバー全員で進捗は共有していますし、彼が妙な動きをしていれば気づきます。」
「脱走、というのはこれ以上ないほど妙な動きだと思うが?」部長のクマの濃い目元を凝視しながら、吉永は詰問する。
「い、いやそれは、本当になんの前触れもなかったものですから…申し訳ありません。部下の細かな違和感に注視するのは係長の仕事であると、係長には何度も忠告したのですが…」
部長はさりげなく責任を係長に擦り付けつつ、
「とにかく、科学的観点からも、〈新薬〉に問題はないものと断言できます。」
部長の話を信じるならば、少なくとも川瀬は、〈新薬〉そのものをどうこうして「計画」の邪魔をすることはできなかったらしい。となるとただ単に組織から逃げたかっただけで、「計画」を邪魔するつもりはないのか、それとも「計画」の実行段階、つまりは〈新薬〉を使ったテロを直に阻止するつもりなのか。
川瀬が警察へ計画をリークするのは無意味だろう。証拠がない。川瀬の逃走後すぐに事務所内の物品を点検させたが、特に何かが持ち去られた様子はなかった。仮に持ち出そうとしても、厳格に管理された備品を川瀬がこっそり持ち出すことなどできないだろうが。事務所内には一切の電子機器は持ち込めないようになっており、盗撮や盗聴で物的証拠を確保することもできない。
さらに、吉永たちがこれまでにこの四国の片田舎の小さなアジトでやってきたことといえば、セコセコと〈新薬〉の開発に励んでいたことくらいで、まだ犯罪行為の一つすら為していない。ゆえに吉永を支部長とするこの日本支部は、警察に目を付けられるどころか、存在すら認知されていない。したがって川瀬は公にはここ数か月の間無職だったということになる。無職の人間が物的証拠もなしに、存在すら確認できない組織の陰謀を暴いたところで単なる妄言としか思われまい。それに、仮に計画をリークすれば、それに加担していた川瀬自身もタダでは済まない。イノセントなままではいられなくなるはずだ。よって、川瀬の逃走によって「計画」になんらかの支障が出ることはあり得ない!よし!
ふぅ、と吉永は小さく息を吐いた。ひとまず大きなトラブルにはならなさそうだ。
「支部長!」
部屋の外から部下の一人が吉永を呼ぶ声がする。ドア越しに叫ぶという、アジトの壁の薄さを活かしたきわめて合理的な連絡手段である。
「外に田中さんがいらしてます」
ええい!このビジーなときに!だが彼をぞんざいに扱うわけにもいかない。何といっても田中さんは吉永とこの建物の賃貸借契約を交わした相手、平たく言うところの大家さんなのだから。
「やあ、田中さん!ご無沙汰してます。お変わりないですか?ほら、最近は本当にあつ……」
「家賃、滞納、三ヶ月。」
事務所の粗末な玄関で田中さんを出迎えた吉永に、田中さんは非情な事実を伝えた。ドアを開けたとたんに蝉の大合唱が吉永の耳に飛び込んでくる。
「何度も言っているように、今月末までに家賃の支払いがない場合、この建物から強制的に出て行ってもらう。もう少し待てというお前の言葉を信じて何度も情けをかけてやったが、今度こそ我慢の限界じゃ。」
「わ、わかってますよ!今進行中のプロジェクトがうまくいけばギリギリ月末までにはまとまったマネーが入るはずなので、ご、ご心配なく!」
「どうだかな、支払期限まであと5日だぞ。大体ここで何をやってるんだ?狭い建物にずいぶんと人を詰め込んどるようじゃが」
「び、ビジネスですよ。では、お元気で!」
バタン!田中さんはなおも何か言いかけていたようだが、蝉の声で聞こえなかったことにしよう。
「はあ…」
米国の巨大マフィアの特命を受けてこの四国で活動する吉永にとっての目下最大の脅威は、FBIでも公安警察でもなく、来年で傘寿を迎えるこの痩せぎすの老人であった。
日本支部においてめぼしい成果を上げられずに4年が過ぎたあたりから、米国本部からの資金援助の額は急速に目減りしていき、今ではドライアイの雀の涙ほどの金額を何とかやりくりしての生活を強いられている。家賃など払える余裕はないのである。
とはいえ、田中さんを怒らせてこのアジトを退去なんてことになれば今度こそこの組織はジ・エンドだ。新しいアジトを探そうにも敷金礼金が払えない。拠点を失って組織が瓦解すれば、これまで一応は様子を見ていた米国本部もさすがに見切りをつけて吉永を処分しにかかるだろう。吉永が生きるも死ぬも田中さん次第というわけだ。
「こっちの組員が文字通り血を流して稼いだ金を、どれだけ使いつぶせば気が済む?いつまでもおままごとを続けられると思うなよ。追加の援助はない。完成の目途が立っているというのなら、その成果を見せてみろ。資金援助の価値があると示してみろ。それができなきゃ黒潮のカツオの餌になるだけだ」
というセリフは、「〈新薬〉開発の目途が立ったのでどうか追加の援助を頼めないか」と本部に打診したときに返ってきた言葉である。
極限までコストカットを重ね、人件費や部下の食費を大幅に削減することで、一部に重大な欠陥を抱えながらもなんとか実戦投入が可能なレベルまで〈新薬〉を仕上げることができた。
「計画」が上手くいって〈新薬〉の成果を示すことができれば、アメリカのマフィアの勢力図を塗り替えかねないその威力に、本部の連中も納得せざるを得ないはずだ。追加の資金援助はもちろん、吉永の大出世も間違いないだろう。
ようやくここまで来たんだ。〈新薬〉の「調合」はもう始まっている。材料の残りはもうない。これがラストチャンス。「計画」が失敗すれば吉永は死ぬし、成功すれば人生安泰。なんてシンプルな話だ!
脱走した不義の輩にかかずらっている場合ではない。「調合」に問題がないのなら、実行あるのみだ!
明日、8月28日10時07分に、予土線土佐大正駅。変更はない!
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