復讐と鰹と変なおじさん

さぁいとう

8月28日9時52分:乗客①

「ふざけるな!」

愛媛県と高知県を結ぶローカル線・予土線の窪川行きの各駅停車。その静かな車内に、突如、野太い罵声が響く。

乗客が一斉に声のする車内前方に目をやる。驚いたように目を見開いて体をねじって声の主を直視する若者、顔はスマートフォンに向けたまま、目玉だけを動かすスーツ姿の男性。声する方向をちらちら見ながら、眉をひそめてこそこそと囁きあう60代くらいの女性二人組。車両の両側に取り付けられた椅子の占有率は凡そ40%。乗客と空席が交互に並ぶ車内で、乗客たちは各々の態度で目の前の小さな非日常に対応する。

塩野夏樹も、そうした乗客の一人であった。目が合わないようにひっそりと視線を送ると、車内前方でだらしない恰好をしたおっさんが何やら喚き散らしている姿が目に入った。まったく、勘弁してくれよ。

今日は付き合って3ヶ月の彼女との初デートを予定していた。生まれてから現在に至るまでの17年間、塩野が住んでいるのは高知県の西側に位置する、自然が豊かな、言い換えれば豊かな自然以外には何もない、小さな村だ。とにかくもこのあたりを離れてせめて高知の中心部まで出なくては、ろくにデートスポットと呼ぶべきものもありはしない。故に、著しく本数の少ない田舎の過疎路線の時刻表に合わせて朝早く起床し、県庁所在地たる高知市に向かっているわけである。

彼女は次の次の駅、土佐大正駅でこの電車が来るのを待っているはずだ。電車内で合流し、そのまま一緒に高知駅へ向かう。

四国の鉄道会社は、過疎化が進むこの地域で何とか生き残るための進化を遂げている。予土線は一両編成のワンマン運転が基本になっている。つまり、塩野の目に映るこの人々がこの電車の乗客のすべてであり、車掌はおらず、運転士が一人で運行に必要なすべての業務をこなしている。

電車そのものが待ち合わせ場所になり得るのは、そういうわけである。一両しかないので乗ればすぐに相手を見つけられるし、数時間に一本しか電車が来ないので誤って違う電車に乗ってしまう心配もない。

幼いころから一両編成の電車に慣れ親しんできた塩野にしてみれば、都会の10両編成とかの電車の方がヘンな感じである。小学生の頃に家族旅行で訪れた大阪で見た、駅のホームを覆う壁かと見まがうほど長くて巨大な化け物と、今自分を乗せてコトコトと動くコイツを、同じ「電車」という名で呼んでいいのだろうか。

彼女とはバイト先の弁当屋で知り合った。塩野より4つ上の21歳で、実家で暮らしながらバイトをいくつか掛け持ちしているフリーター、らしい。切れ長の目元とそこからのぞく長いまつ毛が印象的で、ウルフカットの黒髪が、弁当屋のロゴがデカデカと入ったエプロンに絶望的に似合わない。ミステリアスで近寄りがたいタイプの美人で、実際店長のおばちゃんに対してはとても上司に対する態度とは思えないほどに冷たいのに、なぜか塩野にだけは異様にフレンドリーだった。やたらとシフトが被り、塩野が出勤の日にはほぼ必ず彼女がいる、といった感じだったので自然と仲良くなった。かっこいい見た目に反して意外と世間知らずな(高校生が大人の女性に対してこんな形容詞を使うのは不適切だろうが、本当に世間知らずなのだから仕方ない。千円札に描かれた人物の名前を、彼女は知らなかった)一面や、マスク越しに自分だけに見せてくれる笑顔に惹かれていたら、ある日の帰り道に突然彼女の方から告白された。自分の一方的な片思いで、向こうは塩野のことをただの友達としてしか認識していないだろうと思っていたので、驚いたし、嬉しかった。

付き合い始めると同時に、「私との関係は絶対に誰にも言わないでね、友達にも、親にもね」とくぎを刺された。塩野としては美人な彼女を自慢したい気持ちでいっぱいだったが、「高校生に手を出したなんて他の人に知られたらもう関係を続けられない」なんて言われると、引き下がるしかない。田舎の噂話の拡散力を塩野はよく知っていたので、言いつけを忠実に守って家族や親友にも彼女の存在を隠し続けている。バイト先でも、イチャイチャしたい気持ちを押し殺して淡々と白身魚フライを揚げている。

彼女は病的なまでに二人で一緒にいる姿を他人に見られることを嫌がった。付き合って3ヶ月が経っても、塩野が彼女との関係を確認できるのは、バイトからの帰り道と、メッセージアプリでの会話のみだった。そんな中で、突如として彼女に誘われた植物園デート、それに今向かっているのである!メッセージの文面からだと分かりにくいが、日にちや電車の時間まで全部を彼女が指定してくれたあたり、向こうもかなり楽しみにしてくれているらしい。念願の初デート!!だからこそ、余計なことをしてくれるなよ──と思念を込めた視線を、塩野はそっと車内前方のおっさんに向ける。

車両の両側に、窓を背にする形でのっぺりと取り付けられた座席の中で、おっさんは左の列の一番前の席、つまり列車の中で一番運転席に近い席に座っていた。足を大きく広げた状態で座り、隣の眼鏡をかけた若い男性が窮屈そうにしている。驚いたような表情と恐怖で青ざめた表情とが混在したなんとも複雑な顔をしている。かわいそうに。

「いい加減に…いい加減にしろよ!」

「バカにしやがってよ!」

「畜生!畜生!」

おっさんはなおも脈略のない罵詈雑言を叫び続けている。眼前の誰かに話しかけているというより、虚空に向かって叫び続けているような印象を受けた。突然のことで、何がトリガーになったのかはわからない。

分かるのは、ただ迷惑であるということだけである。

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