第10話
気がつくとそこは大きな背中の上だった。
その男は博士を背負って、息を荒げながら進む。
廃拠点の緩やかな上り坂。
あちこちに燻る火種の隣に、汗と血と泥の染みを添えながら歩いて行く。
一歩一歩踏みしめて。
小さな衝撃が伝わってくる。
「どうして、お前が?」
「それは俺が正義の味方(ヒーロー)だからさ」
起きたか、よかった。
安堵の息を零したのは、かつて検体と呼ばれた化け物、ハルジ。
「真面目に答えると、薬師のヤローがボスの指示があるまで待機するって言い出しやがって。それじゃあ間に合わねぇって、あいつも分かっていたくせに。薬師に従って他の奴らも誰も動こうとしねぇし。我慢できなくって言ってやったら、あいつ、別に人間(ヒト)の行動を規制するわけじゃありませんよ、だと。俺は……だから俺は、助けに来たんだ」
どれくらい経ったのだろう。
長い、長い時間が経ったように思っていたが、この口ぶりだとたいした時間は過ぎていないようだ。
「……そうか」
ハルジがまだいくらか薬師への愚痴をこぼしていたが、それは聞き流して、自身の状態を確かめる。
まだあまり感覚はないが、手足が繋がっている。
内臓は、いくつか修復中のようだが、活動に滞りもなさそうだ。
試しに指を握って、開いて、動かしていると、ハルジが何かを勘違いしたのか慌て始める。
「おっと!? 触られるのが嫌なのは分かっちゃいるが、もうちょっと我慢しろ術を使うな止めてくれ! せめてもうちょっと安全な場所まで」
「今は好きに触ってくれていい」
「ん、平気なのか?」
「感覚がないから平気だ」
「それを平気と呼ぶのは間違っていると思うけどな!?」
間違ってなどいない。
平気だ。
こうしている間にだって足も少し動くようになった。
試しにぶんぶんと蹴り上げると、ばしばしとハルジに当たった。
ハルジは、いたいいたい、やめろやめろ、がまんがまん、と。
元気なのは分かったから、とあやすように、ほっとしたように繰り返した。
「それだけ元気ならもう大丈夫だな」
そう前置きして、ハルジははい、と彼の手に何かを握らせる。
息を呑む。
金属質の、それに手が触れた途端、心臓が跳ね上がったのが分かった。
「きみの大事なものなんだろう? もう落とさないようにしろよ」
「…………うん」
貰った白い花をぎゅっと握りしめる。
「ありがとう」
小さく素直に礼をすると、どういたしまして、とハルジも素直に応えた。
拠点の出口を抜けると、ちょうど夜が明けようとするところだった。
逆光の中、男が一人立っている。
「薬師」
表情は見えないが、彼ならきっと笑っている。
「博士、ハルジ。お帰りなさい。無事で何より」
しかしどこか、嬉しくなさそうな響きだった。
ハルジもそれを感じたらしく、彼と少し距離を保ったまま足を止める。
短い沈黙。
そんな中、薬師は少し待ってくださいね、と言って、徐に水筒を取り出した。
それを一息に煽って、深く、深く息をつく。
長い、長い、ため息。
「ええ、お待たせしました。博士、博士。おそらく何も分からない状況のあなたに、起こったことを説明しますとね」
要点を簡潔に。
薬師の説明によれば。
博士を動力に起動したあのアトランタの禁忌兵器は、組織(カーディナル)基地に何発ものレーザーを打ち込んだ。
被害は甚大で、亡くなった隊員もいる。
一部の隊員から、あの兵器を動かしていたのは、博士自身だったのではという疑いも出ており、博士を無事に救出した暁には、そのことに関する尋問が執り行われる予定となっている。
とのこと。
「そうですねぇ。処罰は免れ得ないとして、処罰内容としては、顧問博士の称号剥奪、および無期拘留といったところに落ち着いたらいいと思っていますよ」
驚いた声を上げたのも、抗議の声を上げたのも、ハルジだった。
「はぁ!? 何でだよ! この件に関しては、こいつは単なる被害者だろう!? 俺もアレに腕を突っ込んだから分かるが、アレは動力源(エサ)が操作できるような代物じゃない!」
「ええ、私もそう思いますよ」
薬師も首肯。
「ですが、そう思わない人もいる」
いや、正しくは。
そう思わない方が都合のいい人もいる。
研究者の部下達の、実働部隊の連中の、数え切れないほどたくさんの人間の顔が脳裏をよぎって、博士は思わず頭を振った。
「ねぇ、博士。あなたになら、ご理解いただけるでしょう? これでも大分、軽めの処罰だと」
間違いない。
あの連中ならば、処刑を求める。
それをどうにか宥めて、躱して、軽い処分で収めようとしてくれている。
その努力と、気持ちは伝わってくる。
「だからね。安心してお帰りなさい。そうすれば、今度こそは命の安全を保障します」
今度こそ?
記憶をたどっても博士には以前に同じ約束をした覚えなんてない。
いや、しかし、薬師達は、ボスは、そんな約束をしたと、そのつもりでいたのだ。
「問題はそういうことじゃなくって!」
ハルジが声を荒げた。
「処罰があること自体がおかしいんだって! 無期拘留のどこが軽い罰なんだって! そんなのは命があるだけじゃないか! そんなの、他の連中と変わらない……生きてる方が都合がいいから生かしているだけだ!」
「そんなことは重々承知の上です」
そう言って、薬師は初めて表情に苦悩を浮かべた。
分かっている。
ぽつりと呟く。
風に髪が揺れる。
薬師の手が水筒の薬湯(向精神薬)へと伸びかけて、思いとどまって、宙ぶらりんに揺れた。
「それとハルジ。いろいろと言ってくれますがね。そもそもお前にはこの件について何かを言う資格はないですよ。お前だって同じなのですから。お前はこの子をただの子供だと扱うことにしたのだから。その方が、お前の都合に良いから。それだけの理由で」
人間とは実に愚かだ。
怠惰のくせに勤勉だと吐かし。
理性的だなんて謳って、本能に逆らわない。
何よりも利己的だ。
何事も自分に都合の良いことしか見ようとしない。
なんて醜い生き物だ。
博士は、静かに目を閉じた。
しかしその暗闇に、その声は響き渡った。
「俺だって分かっているさ」
俺だって同じだ。
「それがどうした」
それがどうした、と。
「それでも俺は決めたんだ」
彼は力強く、揺るぎなく、そう言い放った。
そんなことは悩む必要なんてないことだとでも言わんばかりで、苦悩の欠片すら感じさせない。
ハルジも、同じ暗闇の中にいたはずなのに。
いつの間に、こんな覚悟を決めたのだろう。
「お前が言うとおり、こいつが、偏屈で、傲慢で、天才で、殺人犯の極悪人であって、単なる普通の子供じゃないことなんて分かっているさ」
無期拘留なんてこいつにとっちゃ何の痛みにもならないだろうってことも。
「子供であることにも変わりがないんだ」
だからこれは、俺のエゴだ。
「俺が救いたい、助けたい、いつだって死にたそうな顔をしている子供の一人だ」
けどな、と。
それから目をそらすのではなく、受け入れて、飲み込んで。
「俺はもう誰一人として、そんな子供を見殺しにしない」
なお諦めずに手を伸ばす。
「俺は、正義の味方になる! そう決めたんだ!」
それがハルジの選択だ。
彼の選んだ正義の味方の意味だ。
花が煌めきだとしたら、それはまるで閃光。
この世界の暗闇を一閃して裂いた。
眩しくて、驚いて、目を開く。
見えたのは、たった一人の正義(僕)の味方。
彼の背はとても、とても温かい。
「そうですか、そうですか。しかしハルジ、あなたの選択は実のところどうでも良いのです」
不穏な言葉と、影の揺れる気配。
何だと、とハルジは身構える。
「必要なのは博士」
あなただけ。
薬師が呼びかける。
そうだ、ハルジは既に選択し、覚悟を決めた。
現状を、黒泥のような未来を、金へと変えるために、今、必要なものは、ハルジの覚悟などではなく。
「博士を、連れて行かせていただきますね」
「させるかよ!」
博士(わたし)の覚悟だ。
息をする。
赤い空を吸いこむ。
いつも目の前にちらつく、嫌なあの色と。
雨でも降ったのか、少し湿った空気が肺を満たした。
その下で薬師が待っている。
「ハルジ、待って」
一触即発の彼を軽く遮って。
薬師の方へ、握った手を伸ばす。
小さくて頼りない、ただの子供の手を伸ばす。
痛いほどに握りしめた手をゆっくりとほどく。
「きみ、それは……」
「確かに大切なものだ」
しかしこれ(ドッグタグ)は本来こう使う(死亡確認)ものだ。
手から金属はこぼれ落ちて、ぽとりと地面に落ちた。
気が遠くなるほど長い時間が経ったような気がした。
そして薬師は眉尻を少し下げて。
初めて、嬉しそうに笑った。
幾つもの景色が目の前をよぎった。
それはいつかの記憶たち。
二度と思い出したくないと思っていたものから、そこまで悪くないものまで様々に、ごちゃ混ぜに、浮かび上がっては消えていく。
今となっては何の意味もないはずの、それらの赤い景色の向こう側から、光を纏った青年が現れた。
彼は微笑みながら、二人の足下にひざまずく。
地面に落ちていた金属板を拾い上げる。
それをぎゅっと胸の中に抱えて、抱きしめた。
「私は長い時を生きてきました。私に会った者は、皆、もれなく全員が先に死にます」
ですが。
「今日ほど、それが嬉しいことは、ありませんでした」
古の時代に死に神と呼ばれた青年。
その細やかな瞳が、二人を見上げた。
「どうか、あなたたちの生きる道に祝福があらんことを」
その呪言(ことほぎ)が果たして本当に祝福なのか、それとも呪詛になるのか。
今はまだ分からない。
きっとこれからの道にだって、今まで同様に目を逸らせたくなるものは溢れているのだろう。
そんなことは分かっている。
でも、今だけは、どうか。
そんな絶望なんて覆い隠して、この綺麗な光景をずっと眺めていたいのに。
――ああ、目の前は光で溢れて、何も見えないや。
未練がましく伸ばしたままだった手をハルジの背に戻す。
一緒にその背に顔も埋める。
すると、とんとん、と体を揺らされた。
ハルジの気遣いか。
これじゃあ子供というよりも赤子みたいだ。
「いいよ」
生きてやる。
穏やかに揺られながら、僕は言った。
「行こう」
違うな、そうじゃない。
少し考えてから、言い直す。
「……つれていって」
博士一人ではたどり着けない、その場所へと。
僕のヒーローは、力強く、「ああ、任せとけ」と、そう答えた。
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