第9話
時折。
意識が戻る度、まだ生きているのだと絶望する。
とうに体の感覚はない。
それなのに脳内には痛みだけが焼き付いている。
脳?
頭はどこだったか。
分からない。
考えられない。
痛い。
痛い。
無意識はうっすらと数字の海に揺蕩う。
生命維持のための計算式が展開され続けている。
壊れた部分を必死に修復して。
修復された部分からたちまち溶かされていく。
くりかえし。
どれくらいの時間がたったのだろう。
痛い。
赤い。
暗いのに赤いと分かる。
自分の目がどこにあるのかも分からないのに、そこが赤いことは分かる。
幾つもの管が伸びている。
それを引きちぎろうとしようにも手がどこにあるか分からなかった。
覚醒。
まだ生きている。
本当にしぶとくて、我ながら呆れてしまう。
いい加減に諦めてくれないだろうか。
助けの見込みなどない。
自分で状況打破も出来ない。
そんな中で生き続けてどうするのだ。
意識がはっきりすればするほど痛みが強くなる。
とてもじゃないが何も意識して計算なんて出来ない。
生きているだけ。
まさか本当に、このまま永遠に生き続けるだけ?
いや、そんなことはない。
先生の診断でも、博士にも通常の人間に起こる成長現象は見られると言われたじゃないか。
成長があるなら老化だって。
人間の寿命はどれくらいだったか。
二十年? 三十年?
いつか終わりは来る。
それだけをただ待ち焦がれている。
ひときわおおきな痛みで意識があることに気がついた。
どれくらいたった?
まだ終わらない?
――作られたばかりのそれを包み込む、その白い手を覚えている。
周囲の人は知らないだろうが、その頃の、その人間は、なすこと全てが思い通りに行かず、大層参っていた。
唯一の肉親が、血で血を洗う敵対組織に入信したという話しも、その人間を苦しめているのは間違いない。
しかしその人間は、自身の苦しみをつゆとも感じさせない。
その瞳の奥にはずっと変わらず、赤い焔が宿っている。
その瞳で、白い両手ですくい上げたそれを、掲げるようにして眺めている。
私に気がついて、それは、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「やあ、君は私があの子を育てると聞いたとき、ずいぶんと笑ってくれたじゃないか。
子育てなんて私に出来るはずがないと言って。
嗤ってくれていい。
君の言うとおりだった。
子供一人くらい、幸せに出来ると思ったんだけどな。
あの子は賢い。
周りをよく見ている。
私が私の部下たちに望むことをよく見ている。
おままごとがとても上手じゃないか。
ともすれば、部下たちよりもずっと。
私があの子に望むこと?
生まれたときからずっと地下牢に閉じ込められて、ろくに食事も与えられず、名前すらも与えられず。
ただ研究の道具として搾取され続けてきた子供に、私が望むこと?
ただ生きて欲しい。
それだけだよ。
ただ生きてくれているだけでいい。
それだけなのに、ね。
こんなもの(ドッグタグ)しか、私にはプレゼント出来ないようだ。
どうか、嗤ってくれ。
既にあの子をまっとうな子供だと認識しているものはここにはいない。
だとしたら、私が出来ることは、もはやこれしかないんだ」
焔が揺らめく。
それはあかいともしび。
「そこに描いてある、その花は?」
私の問いに、指が花の模様を優しくなぞった。
「繧「繧ャ繝代Φ繧オ繧ケ。
小さくて白い花だ。
本人の名前を書くのが通常なんだけれど。
幾ら名前をつけてあげても、あの子はどうやら覚えてくれないようだから。
それじゃあ意味がない。
それならこちらの方がいいと思ったんだ。
……ねえ、君はあの子を守ってくれるかい」
懺悔するように。
もしくは祈るように。
その人間は、それ(ドッグタグ)を撫でながらそう言った。
何の、いや誰の記憶だ。
暗闇の中で何かが煌めいた。
それは白い花。
白衣の袖の内側に縫い付けられていた識別表が、ほどけてふわりと離れていく。
目の前で、溶けていく。
咄嗟に彼は手を伸ばした。
痛みで千切れそうな腕をあらん限りの力で伸ばした。
どうせ死んでしまうのだから。
すぐになくなってしまうものなのだから。
今更そんなものに固執したって何の意味もない。
それでも。
水を呑む。
泡を吐き出す。
それでも、それは、僕のものだ。
痛い。痛い。痛い。
それがどうした。
動け。
届け。
やっとの思いで、指先が、花に触れる。
その瞬間、真っ暗だった世界が真っ白に染まった。
鼓膜が破れそうなほど大きな水音。
何者かに伸ばした腕を掴まれて。
彼は大きな力でそこから引きずり出された。
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