第3話
暗闇の中から声がする。
課題を蝋燭と少量の食べ物とともに投げ入れられる。
小さな手で自ら蝋燭をつけるとぼんやりと世界に赤い色がついた。
冷たい牢の中。
足は、今日は、少し動かない。
幸い頭は冴えていて、課題に目を通せば、すぐさま回答が準備できた。
羽ペンを走らせる。
記入する音だけが聞こえてくる。
羽ペンのインクが掠れている。
掠れている。
静寂。
遠くから、煩わしい声が、耳から脳へと響いてくる。
「……ん! 博士ちゃーん! 返事しろぉー? 返事がないならー! 勝手に入るぞー!?」
視界が擦れてよく見えない。
ごしごしと目を擦ると、目の前には見慣れた机と、計算途中の数式が落ちている。
「お、起きてるじゃないか。これは予想外」
夢を、見ていたらしい。
頭上。
すぐ近くから降ってきた声がすっと数式を取り上げるのを見送る。
数式の代わりに机にパンケーキがセットされるのを見守る。
ちらと声の主を横目で見ると、今はコック帽を目深にかぶっていた。
「博士ちゃんからの定時報告が途絶えたって、下の連中がさわがしくってよぉ。まぁどうせまたこんなことだろうと思ったんだよ」
似合うだろ?
博士の視線を聡く察知して、帽子の角度を変えてみせる。
その帽子(コック帽)に見合った手つきで、帽子屋は手際よく机にサラダとチキンの皿も添えた。
「あともう少し待ってな。コーヒーも入れないとな」
お前が好きなやつ。
そう言いながら彼はコーヒーポットを傾ける。
白い湯気。
何も映さない黒い液体がカップを満たした。
水面が揺れる。
視界が揺れる。
帽子屋が目の前で手を振っているようだ。
「おーっとこれは予想外に重症か? お前なぁ、一体何日くらい飯食ってないんだぁ?」
「五日、くらいか……」
答えると、帽子屋はわざとらしく大きなため息をついて見せた。
「お前さぁ、本当にいい加減にしろよ。俺はお前がどこで飢えてくたばっても万々歳だが、ボスは違う。あの方はお優しいから、こんなどうしようもないお前のことも心配してくれる。ただでさえお忙しいお方なんだ。これ以上、あの方の頭痛のタネを増やしてくれるな」
ポットを置いた帽子屋の手がこちらへ伸びてくる。
博士の頭に触れかけたが、それは反射的に払いのけた。
「……触るな」
「チッ、久しぶりに髪でも梳けるかと思ったのに。で、自分で食えるのか?」
カップを持ち上げてみせると、帽子屋はもう一度大きなため息をついて、それを奪い取り、博士の口元に添えてゆっくりと傾け始めた。
火傷をしない程度に冷まされた、とろみのない液体が口の中に入り込む。
これには抵抗しない。
ゆっくりと吸収する。
ゆっくりと呼吸をする。
ゆっくりと生きている。
「味の感想は?」
「いつも通り」
味なんて分からない。
帽子屋だって聞きながら期待していない。
いつも通り。
何の味もしない飲み物と、何の味もしない食べ物を胃に流し込んで生きている。
それでも帽子屋は今日も飽きずに、今回の豆はどこで買っただとか、どういう名前だとか、値段は幾らくらいだったとか、前に持ってきた豆と比べて苦いはずだとか、パンケーキには砂糖を何杯いれただとか、話し続けている。
博士にとっては、詮の無いこと。
きっと一生使うことのない知識を語り続けている。
その一方で博士にカトラリーを触らせないように、休みなく手も動かし続ける。
そんなことをしなくても今日はナイフを取り落として足に刺したりしない。
そもそも心配しなくても博士はナイフが刺さった程度では死なない。
差し出されたパンケーキを頬張る。
温かい生地は、柔らかく、口の中でほどけて落ちた。
食べ物(異物)が体の中に落ちて消える。
その感覚は相変わらず好ましくない。
それはこれからもきっとずっと、変わらないのだろう。
帽子屋もいつからか口を噤んでくれている。
珍しい。
いつもは嫌がらせを兼ねて話しかけ続けてくるのに。
丁寧に準備された食事と、静寂な給仕。
少しだけ面倒ごとの予感がする。
「さて」
一通り皿が空になってから、帽子屋が再び口を開いた。
手早くカトラリーが片付けられる。
代わりに次は、二枚の写真が机に伏せられた。
「ここからは博士ちゃんが大好きな仕事の依頼だ」
仕事が好きなわけではない。
ただ他のことよりも負担がないというだけだが、否定して説明しても理解をされないのを知っている。
「まずはこれを見ろ」
伏せられた写真。
伏せられるからには伏せられる意味がある。
帽子屋は触ろうとしない。
促されるまま博士自ら写真を一枚、めくる。
それは一人の男の全身写真だった。
いや、一つの死体の写真だった。
「これは敵性組織アトランタの工作員(スパイ)だったものだ。先日俺が見つけ出して、俺が処分した」
本当はこの写真をアトランタの連中に送りつけてやるつもりだったんだが、
帽子屋(ころしや)はコック帽の下で凄惨に嘲笑っている。
「ウサギのやつに見せてやったら、これが欲しいんだと」
「……写真が?」
「そんなわけがあるか。欲しがっているのは写っているその人間だ」
確かウサギにはまもなくアトランタへの潜入捜査が控えていたはずだ。
そのために必要な道具ということか。
「蘇生しろと?」
「それは無理な話だねぇ、もう炭も残っちゃいないんだぜ」
おっとそんな顔するなそんな顔するな。
さりげない風を装って頭に伸びてくる手は打ち落とす。
「次、触ろうとしたらその手も炭にしてやる」
許さない。
短い最終警告。
帽子屋は小さくお手上げした。
ただ大げさな仕草とは裏腹に、続く口調は落ち着いたものだった。
「まあつまりは、ほら、ちょうど博士ちゃん、ホムンクルスを作ってるだろう。アレをこの顔、この背格好に仕立てて、この人間のそっくりさんを作って欲しいってことさ」
「連れて行くのか? アレを?」
ホムンクルスを作っている覚えはない。
しかし検体No.02164が周囲からそう呼ばれているのは知っていた。
「そうだ、アレ。自称なんて言ったかな、ハル、ハルジ? とにかくあの博士ちゃんの拾いもの。博士ちゃんは知らないかもしれないが、うちの組織(カーディナル)に大層よく貢献してくれていてなぁ。その献身がボスの耳にまで届いているわけ。それならばってボスも組織に迎え入れる気満々だし、まぁ今回はその試験ってことで急遽ウサギとともに潜入捜査に行って貰うことになって。あ、試験云々の話はアレには内緒ね」
潜入先で敵性組織の手先としてボロを出したらウサギが処分する。
組織(カーディナル)に多大なる貢献を残せば、正式に組織に迎え入れる。
そんなところか。
「まぁ最低限度人間に見えてりゃいいんだけどぉ」
この間、予定通り皮膚は繕った。
泥を落としながら歩くことはなくなっている。
だがそれだけだ。
それ以上には出来なかった。
出来上がったのは人間状の皮膚のくるまり。
「それならウサギがやりやすいように作ってやって欲しいってのとぉ。多分博士ちゃんもそっちの方、つまり見本があった方が作りやすいんじゃあないかと思ってさ」
帽子屋がケラケラと耳障りに嗤いあげる。
「ほんともう、アレなんなのって。博士ちゃんには人間がああいう風に見えてるのぉ? 嘘でしょちびっこならアレ見たら漏らしちゃうって! あぁもうあのホムンクルスが鏡見たときのあの反応もたまんなかったね! 思い出したらまた笑いがとまらねぇや!」
嘲笑ももっとも。
アレは人間には見えない。
「はは、もう一枚はそんな、人間についてぜんっぜん分かってない博士ちゃんへのプレゼント!」
急かされてもう一枚の写真も捲る。
それは先ほどの死体の顔の接写。
よく見ると数字が書き込まれている。
ここからここまでの長さが○cm、高さ○cm。
詳細な顔の設計図となっていた。
「このとーりに作ってくれればたとえいくら人間ギライの偏屈博士ちゃんでも上手に人間を作れるから!」
肩を叩こうとしたのか、帽子屋の手がまた近づいてくる。
しかしおっと危ない危ない、と先ほどの警告を思い出したらしく、その手は博士に触れる前に離れていった。
こういうところが、帽子屋はしっかりしている。
どこまでが冗談ですんで、どこからが冗談ですまないのか。
その境界線上にて土足で踊るのが、とても上手だ。
「上手くいったらウサギはもちろん、きっとハルジも喜ぶぞ。といっても誰が喜ぼうと、お前にとっちゃ何の動機にもならないんだろうけれど」
代わりに誰かの悲嘆で共に沈むこともない。
そうだろう?
「どうだろうね。そうだったらいいねぇ」
帽子屋がニヤリと愉しそうに、博士の無表情をのぞき込んでいる。
誰の元にも届かないやり場のない感情は一体どこに消えるのか。
それはきっとこういう帽子屋のような男が拾い集めて行くのだろう。
帽子屋はもう少し詳細な注文と、納期だけ短くまとめて告げると、使用済みのカトラリーを抱えて、満足げな表情で研究室(ラボ)から出て行った。
が、その数秒後引き返してくる。
「報酬の前払いはこれで」
帽子屋は机の上にパラパラとあめ玉を数個撒いて、今度こそ出て行って帰ってこない。
写真の上に転がった赤い飴。
博士はそれらを払いのけて、必要な原材料がどれくらいになるか計算するために羽根ペンを手に取った。
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