視覚のあるべき姿とは

真面目なぼうや

見て見ぬふりを

轢かれた動物、枯れた花、潰れた虫、


どうせまた、見て見ぬふり


目が見える"せい"でそんな言葉がある


さて、視覚を失っているものはどうなのか


見て見ぬふり、は理論的にできないのか


都合が良すぎる話でしかない


見てはいない、知ってはいる。これは見て見ぬふりなのだろうか


私が言っている見て見ぬふりは、見たのに通り過ぎるもののことである


そうなると視覚を失っている人は見て見ぬふりをしない善人でしかないことになる


目が見えていても、善人になれるのだろうか


いや、無理だろうな


どんなに気にかけていても、"見えない"ものもあるし"見えなかった"ものもある


端っこで倒れた虫、隅っこで枯れた花、など


主張的なもの以外は気づけない、気づかないのである


虫や花などで表してきたが、人間だったらどうだろう。


いじめ、虐待、DV、孤独、


自分には関係ないと感じると人は無視することがある


無視っていうか、気にかけない


興味がない。


視覚があっても、人は最大活用はしない。


生きるのに必死で視界が狭いのだろう。


そう思って今日もまた、


見て見ぬふりをして生きていこうと思う。


偽善者にはなりたくないからね。


それでもいつか誰かのために生きていきたい。


でも今は


自分と向き合って


いつか誰かの役に立とうと思った。


今日も暑い。残暑が続く。


また今日も何かが終わった音がしたようだ


でも私は知らない。聞いていない。


聞こえていない。


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