第9話 スケッチブックと鉛筆
翌朝、守晴は自分のベッドで目覚めた。ぼんやりと夢世界でのことを思い出していたが、今日の予定を思い出して飛び起きる。午前中から、巧と勉強会をする約束をしていたのだ。
「――行ってきます」
仕度を済ませ、余裕をもって家を出る。今日巧と待ち合わせをしている図書館は、山の上の方にある。山と言っても、登山道があるわけではない。中腹まで住宅地となっており、整備されているのだ。それでも勾配はまあまああり、足腰が不安な人はバスに乗って行くことが多いらしい。
守晴はというと、自転車にまたがって坂を上る。まだまだ真夏の日差しの中で自転車をこぐと汗が噴き出し、信号で止まる度にトートバックからスポーツドリンクのペットボトルを出して飲んだ。何となく、汗だくの自分に喜びを感じていた。
(数年前までは考えられなかったけど、出来るようになってるな、おれ)
そして図書館へ行く途中に広い公園があり、その中を何となく見ながらペダルをこいでいる時だった。
(……あれ?)
目に留まったのは、こちらに背を向けてベンチに座っている一人の女の子。彼女はスケッチブックを開き、何かを書いているように見える。
腰まである黒髪が風になびき、女の子はつばの広い帽子があおられて手で押さえた。その際に、鉛筆が一本転がる。
(間違いない、あの
地面に落ちた鉛筆を拾う女の子の横顔に、守晴はハッとした。やはりそうだ、と。昨晩夢世界で出会った、
「ん?」
(やばっ)
幸時が守晴の視線に気付いたのか、ふと彼の方へと顔を向ける。それに気付き、守晴は自然に見えるようにそっと視線を外し、ちょっと立ち止まった風を装う。
(夢世界のことは、普通覚えていないものだから。……巧の件があるから、絶対じゃないけどな)
例外を一つ頭に思い浮かべ、守晴はごく自然に腕時計を見た。その巧との待ち合わせ時間までは、まだ時間がある。ペダルに足をかけた時、思わぬ声が聞こえた。
「葛城くん!?」
「……はい?」
「やっぱりそうだ!」
守晴がまさかと思って振り向くと、こちらへ駆けて来る少女―桃瀬幸時―の姿がある。驚いたことで逃げるタイミングを失った守晴の前へたどり着くと、幸時は息を整えてからパッと笑った。
「葛城くん、おはよう」
「お、おはよう……。え、桃瀬さん、覚えて……る?」
「うん! 葛城くんは忘れるって言っていたけれど、わたしは覚えてたよ。こんなに早く会えるなんて思わなかったけど、凄く嬉しい!」
「……例外二例目」
「ん?」
こてんと首を傾げた幸時に、守晴は「なんでもない」と言って話題を移した。
「こんなに暑いのに、公園で何してたんだ?」
「暑いよね。でも、ほら見て」
幸時が指差したのは、先程まで彼女がいた場所の向こう側。見事な向日葵畑が広がっていた。陽の光に照らされ、鮮やかな黄色の花びらがキラキラと輝いて見える。
「凄い……」
「ね、凄いよね。これを間近で見て描きたくて、こんな暑い中公園にいます」
てへへと苦笑した幸時は汗を拭うと、そう言えばと守晴の自転車を見た。自転車は公園の入り口近くに止めたままだ。
「何処かに行く途中だったの?」
「ああ。これから巧……クラスメイトと図書館で勉強会なんだ。それに向かう途中」
「そうだったんだ。呼び止めちゃってごめんなさい」
申し訳無さそうに俯く幸時に、守晴は「いや」と首を横に振った。
「少し早めに出たんだ。だからだいじょう……あ」
「え?」
「お、守晴! おはよう、どうしたんだ?」
公演の入口の方へと守晴が視線を移した時、丁度自転車で巧が通りかかった。巧も守晴に気付き、大きく手を振る。
それに手を軽く振り返し、守晴は隣にいる幸時に「ごめん」と謝った。
「あれが、勉強会をするクラスメイト。あいつが来たし、おれも行かないと」
「うん、行ってあげて。葛城くん、ただのクラスメイトっていう顔じゃないよ。あの子のこと、友だちって言ってあげたら良いのに」
「……何か、改めて言うのはちょっと」
守晴は少し居心地悪そうに幸時から目を逸らすと、巧の「ごめん、邪魔したか」という問いかけに「違う!」と言い返す。やり取りを見ていてくすくす笑い出す幸時に口をへの字に曲げてみせ、守晴は軽く肩を竦めて笑った。
「じゃあ、また。元気で」
「あ、待って」
「――?」
立ち止まった守晴の顔の前に、幸時がスマートフォンを突き出す。目を丸くする守晴に、幸時はもう一度ぐっとスマホを差し出した。
「れっ、連絡先教えて欲しい、な」
「……別に、良いけど」
「本当? やった」
頬を赤くして、幸時は不安そうな顔から一気に目を輝かせる。
そんな幸時にどきっとした守晴は、自分のスマホの画面に視線を落とし、メッセージアプリを起動した。アカウント情報を表示させ、幸時に見せる。
無事に連絡先を交換すると、幸時は嬉しそうにスマホを両手で包み込む。
「ありがとう。あの、メッセージ送っても良い?」
「……良いよ。夢のこととか、不安がある時もして。必ず返す」
「わかった。ありがとね」
「暑いから、休みながら絵を描けよ?」
じゃあな。守晴はひらひらと手を振り、待っている巧の方へと歩いて行った。
「ごめん、待たせた」
「ぜーんぜん。っていうか、守晴の彼女?」
「だから、違う!」
けろっとボケる巧の胸倉を掴みそうな勢いで否定した守晴は、ちらりと幸時を振り向く。すると幸時はまだこちらを向いていて、守晴たちの視線に気付いてぱたぱたと手を振った。
(……かわ)
思わず心の中で「可愛い」と呟く守晴の横で、巧が「ふうん」と自転車のハンドルに肘を乗せる。
「可愛いじゃん、あの
「……夜、夢世界で会ったんだ」
「成程。……って、覚えてるの二人目?」
「そうなるな。詳しくは後で話す。まずは、図書館に行くぞ」
「わかった」
守晴と巧は自転車をこぎ、公演を離れた。それを見送った幸時は、また写生に戻る。
二人の少年が図書館に着いたのは、当初の待ち合わせ時間から三十分程後のことだった。
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