第六十一話 混乱と混沌と……
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――声の方を向いた葵たちの目に飛び込んできたのは、自らの目を信じられない様な光景だった。先日まで共に過ごし、笑顔で接してきた人物の変わり果てた姿。そしてそれを抱き抱える見慣れた知人。
「……どういうことか、説明は貰えるのかな?」
「あら、勇者アオイ様、そんな怖い顔をなさらないで下さいませ。そんな顔で見つめられては、戦う力を持たない私は震え上がってしまいますわ? うふふ……」
「ふむ、貴女が抱えている猊下のご遺体の説明が欲しい、横にいる見覚えのある黒い女も気になる。だけどね、そんな事より……」
「……ナツメ様の事、気になります?」
「ッッ!!」
人を馬鹿にした様なアグノスの言葉に、武原姉弟の殺気が膨れ上がった。直後、二人の姿がブレ、二人の近くにいた肉塊が破裂した。秀彦の、杭に穿たれたのだ。
杭によって弾け飛んだ肉塊を無視し、葵は一直線にアグノスの目の前へ移動する。その速さは、戦闘を得意としないアグノスにとっては瞬間移動のように映り、成す術も無くその首を斬り裂かれた。かろうじて斬り飛ばされはしていないものの、骨まで断たれた首は文字通り皮一枚で繋がっている状態だった。何かを言おうとしていたのか、アグノスの口が僅かに動いていたが、その首から吹き出す鮮血は、彼女の命がもう助からないのだと言う事を雄弁に語っていた。
横に居たトートの妨害を警戒していた葵は、その呆気ない結果に違和感を覚えたが、返す斧を胸部に叩き込み、そのまま股まで引き裂いたことで勝利を確信する。この女が何を考えていたのかわからないが、生かしておいて良いことがあるとは思えなかった。相変わらず、生き物を殺すことには慣れないが、そんな理由で切っ先が鈍るような精神を彼女は持ち合わせていない。
「おー、相変わらず容赦ねぇな。動きも格段に良くなってやがる」
「――申し訳ないが、貴女と旧交を温めるつもりは毛頭ないよ。私は棗君を探しに行かせてもらう。邪魔をするなら君も排除する……」
「ッうぉ!? お前、話してる最中に斧投げるんじゃねえよ!」
話しかけつつ投擲された斧はトートの頬を掠めたが、流石にダメージを与えるには至らなかった。葵は軽く舌打ちをしたが、即座に気持ちを切り替え、間合いを詰め追撃をしようとした。しかしその時、葵は背後から身の毛のよだつ気配を感じ、そちらを振り向くよりも早く、背後に向かって斧を振るった。
「ごふ……あら、背中を向けているからいけると思いましたのに……流石ですのね、アオイ様は」
「な!?」
確かに手を伝わる人を斬る感触。しかし、その先に居るのは先程と変わらず、笑みを浮かべたアグノスの姿だった。違う点と言えば、先程の鮮血で衣服は染まり、斧で引き裂かれた前面が露出してしまっている所だろうか。しかし、その肌には傷一つ見当たらない。
「……まさか、貴女はアンデッドなのかい?」
「まぁ、失礼ですわね。私はれっきとした人間ですわ」
「――姉貴、惚けるな! 後ろだ!!」
「……ッ!」
目の前の怪異に目を奪われ、一瞬隙を見せた葵の背後を漆黒の大鎌が襲う。秀彦の声で何とか反応し両手に持った斧で受け止めるも、不完全な体勢ではトートの一撃の威力は抑えれず吹き飛ばされてしまった。
「あら、折角アオイ様とお話をしていたのに。死神は無粋ね?」
「うるせぇ。お前の気持ち悪い臓物なんぞ、何度も見せられてたまるかよ」
「あら、死神はこういうのがお嫌いなの、意外ね?」
確かに殺した手応えを感じていた葵にとって信じられない光景だった。が、アグノスの体には傷一つ無く。冗談めかしくトートと掛け合いをする姿は、以前の平和だった頃の彼女の面影すら感じる。
「一体、どういう事なんだろうね? 流石の私も少し混乱気味だよ」
「――混乱ってのはな、考えるから起きるんだ、姉貴。今優先するのは彼奴等をブッコロス。棗を迎えに行く。この二つが最重要。ついでで肉塊も全部殺す。これで解決だ」
「ふむ……秀彦は賢いな」
「だろう? いくぜ!!」
武原姉弟の目に火が灯り、己の成すべき事を遂行すべく全身に力が漲っていく。しかし、そんな二人とは対象的に、トートやアグノスにはあまり殺気というものが見られない。
「ハッ! 遊んでやりてえ気もするが、今日はお前らに用はねえ」
「そうですわね、私も一仕事終えたあとですし。早く帰って、お爺様と二人きりでお話をしたいですわ」
うっとりと教皇の遺体を撫でつつ、アグノスは心底幸せそうな表情を浮かべる。その表情があまりに穏やかなため、逆に葵たちの背中には、氷柱を入れられたかのような悪寒が走った。
「――ア、アグノス様。これは一体? それに、あの……気のせいでしょうか? 教皇猊下が……その……」
いつも実直に職務を全うするリーデルが、ふらつくようにアグノスに近づいていく。その顔色は青を通り越し、もはや白くなっていた。無理もない、彼にとって最も尊い人物の遺体を、彼が最も信頼していた上司が嬉しそうに抱きかかえていたのだから。
「あら、リーデル隊長。お顔色が優れないようですわね? うーん、治癒して差し上げたいですけれど……怖い顔で睨んでらっしゃるアオイ様が許してくれるとは思えませんわねぇ……」
「……おい」
「はいはい、分かっているわよ死神。それでは皆様、もう少しゆるりと別れの挨拶をしたい所ですけれど。どうやら時間がないようですので、ここでお暇いたしますわ。さ、お爺様も皆様にお別れを……」
上空に浮かび全員を睥睨し、余裕の表情で手を振るアグノス。リーデルは混乱に震え、武原姉弟は怒りに震える。しかし、教皇の遺体の手を取ってぷらぷらと振るアグノスの表情が突然強張った。
「……あら? お爺様、あららら? お爺様、お爺様??」
「――ん~? どうした、大聖女。さっさとずらかるぞ?」
「……いない」
「は?」
「いない、いない、いない、いない、いない、いない、いない、いない、イナイ!? なんで、なんで!? お祖父様お祖父様お祖父様お祖父様!?」
「あぁっ!?」
「……なんだ?」
先程までの微笑みが嘘であったかのような突然の豹変。教皇の体を弄り、揺すり、叩き始めたアグノスの突然の行動は、トートを含めその場に居た全員の動きを止めさせた。ただでさえ理解し難い状況において、彼女の突然の発狂とも言える行動は、彼らの思考を止めるに十分すぎる奇行であった。
「なんなんだ、いきなり。ウザってえ、おちつけやクソ聖女!」
「黙りなさい死神!! 居ないのよ、この体に閉じ込められている筈のお爺様の魂が!!」
「はぁ? 成仏したんだろ、そんなもん。馬鹿言ってねえで帰るぞ」
「――ふざけるな!!」
人が変わったかのようなアグノスの激しい怒声に、さすがのトートも怯む。一体アグノスに何が起こったのか、どうやら味方であるはずのトートにも理解が出来ないらしい。
「この体には、殺してすぐに封印術を施しているわ!! この”大聖女”手ずからの封印術を魔王様から下賜された魔神器を使って施した封印よ! 成仏なんてありえない。お爺様はこの体の中で成仏もできず、魂の苦痛から、怨嗟の声を上げているはずなのよ! なのに、聞こえない! 聞こえない聞こえない!! なんで、お爺様は何処に行ってしまったの!?」
「知るかよ、うるせえな。相変わらず気色悪りい。
――んで、どうするんだ? お前はここに残るのか? その爺は王よりも重要な事なのか?」
「……」
――王。
恐らくは”魔王”の事なのだろうと葵は思った。それ以外に、あれ程取り乱していたアグノスがおとなしくなる理由が思いつかない。そして、どうやらアグノスは人類の味方ではなく、端から魔王の手下だったのであろうと推測もできる。リーデルの反応を見れば、その計画は恐ろしく長い下積みの上で行われたものだったのだろう。しかし、今は呆けて居られるような優しい状況ではない。秀彦が杭で散らした肉塊もすでに再生を終え、暴れ始めている。今はグレコ隊長や騎士達が何とか食い止めているが、旗色は明らかに悪い。
「リーデル隊長。君のショックの大きさは私に測れるような事ではないが、どうか戻ってきてくれ。今は君という戦力を失えるような状況ではない」
「……勇者アオイ。すまない、貴女の言うとおりだ」
アオイの声に、リーデルの目に光が戻った。あれ程のショックから一声で戻ってこれる辺り、リーデルはやはり良い騎士なのだろうと葵は思った。しかし、目の前の魔王の使徒たちは、次の瞬間に何をしでかすのかが読めない。リーデルが正気になったとは言え、相変わらず旗色は悪いと言わざるを得なかった。
「……ごめんなさいね死神。取り乱したわ。そうね、確かにお爺様はここには居ないけれど。あの人の事だもの、多分殺された時に自分で何かをしたのね。恐らくは、あの娘の為に……」
「おぅ、正気に戻ったか? で、その抜け殻は持って帰るのか?」
「……もういらないわこんな
――全員が耳を、目を疑うような豹変。先程まで、あれ程執着していた教皇の遺体を、今は重くて邪魔な荷物のように扱い始めたアグノス。その異様な態度に、戦闘中のグレコも、かつて尊敬の念を抱いていたリーデルも、滅多に心が揺れる事のない武原姉弟ですら恐怖の念を抱いた。あれは、間違いなく異常な存在であると。
「ふぅ、なんだか色々冷めてしまったわね、つまらない。あぁ、そう言えば自己紹介がまだでしたわね。私はこの”死神”と同じ魔王軍幹部。”大聖女”アグノス=エフィアルティスですわ。以後お見知りおきを」
もはや何も興味がないとばかりに表情を消した”大聖女”は抑揚のない声で自己紹介をする。
「魔王軍? ……大聖女? ……そんな、そんな馬鹿な!」
「落ち着けリーデル隊長。
「ま、待ってくれ、勇者アオイ! ……何か、そう、アグノス様はなにか洗脳の様な事をされているのではないだろうか?」
「……違うね。私とした事が、さっきまで全く気づけなかった。大聖女の目は正気だよ、濁りきっているけどね。正気だからこそ、彼女の悪意を見抜けなかった。言い訳にもならないけどね」
人を見る事には自信のある葵ではあったが、真の狂人の心まで見通すことは出来なかった。アグノスは常に本音を話している、故に言動の不一致や淀みがない。違和感があればそこから気づくことができたのだが。彼女は心の底から棗を妹のように可愛がり、教皇を肉親のように愛していたのだ。民衆に向けた慈愛の心も本物だったのかも知れない。但し、根本が致命的に狂っている。
「……悪意というものがない狂人が、ここまで厄介なものだとはね。まったく、自分が不甲斐なくて嫌になる」
葵は自嘲したが、それは無理もない事だった。アグノスの抱える闇の側面は、かの教皇ですら何十年も見抜けなかったのだから。それでも、自分の行動が棗の危険を排除できなかった事を、彼女は許すことが出来なかった。
しかし、そんな事を考えていても、今となっては仕方のない事。彼女は気持ちを切り替え、大聖女を見据える。
――教皇の遺体に、魂が殆ど留まっていないと判断した瞬間から、アグノスにとって
「さて、これはもう邪魔ね……そうだ、トート。貴女の肉達に
「……本当に気持ち悪いなお前は。他人のする事にあまり興味はねえが。さっきまで大事にしてたものに、よくそんな事できるな」
「あら、心外ね? 何がそんなに貴女を怒らせたのかしら?」
「あー、どうでもいいさ。別に怒ってもいねえ。それを貰えるってんなら、彼奴等への置き土産をちょっとゴージャスにしてやれるだろうさ」
面倒くさそうに手をかざすトートの体から、禍々しい魔力が立ち上った。死を連想させるその黒い魔力は、アグノスの持つ教皇の体に注ぎ込まれ、みるみるうちに遺体をその魔力で染め上げていく。
「もういいぜ、食わせろ」
「はーい」
掛け声とともに投げ込まれる教皇。肉塊はそれに即座に食いつき咀嚼していく。それを眺めるアグノスの表情には何の感情も見られなかった。
「うふふ、それじゃあ皆様、ごきげんよう」
「じゃあな、まあ精々足掻いてみろよ? 無駄だとは思うがな、キヒッ!」
もはや何の興味もないとばかりに立ち去る二人を、葵達はただただ眺めることしか出来なかった。追おうとするには、目の前で起こっている異変が無視できるようなものではなかった為だ。
「――姉貴、なんかやべえ感じがするぜ」
「うん、そうだね。だけどやる事は変わらない」
「……だな」
先程までただの肉の塊であったそれらは、教皇を飲み込んだ個体を中心に集結していた。徐々に人のような形をとるそれは、先程までとは比べ物にならないほどの瘴気を放っている。互いを食い合うように融合していく醜悪な姿は、攻撃をするのもためらわれるほどに禍々しい。
「悪趣味の極致だね」
肉同士が喰い合い形作る人形は、まだまだ形が定まっていないが、時折漏れるうめき声には聞き覚えがあった。それは先程まで柔らかに笑っていた、かの人物。教皇ツァールト=バーブスト=モナルカのものだった。
これにはリーデル含め、
「我々は、このような姿になったとは言え、猊下に攻撃を加えなければならないのか? 亡くなられたあの御方にこの剣を向けろというのか……」
「――いや、何を言っておるんじゃ。あれは流石に儂ではなかろうよ?」
「
「そうじゃ、そうじゃ、あんなきちゃないもの儂であるはずがなかろうよ。流石アオイ様は良い事を言いなさる」
……
「「「……ッはぁ!?」」」
「ん?」
突然会話に参加してきた謎の声、全員がその声の方向をみると、そこには小柄で可憐な少女が立っていた。
「あ、あれ、棗君? え?? 今の声は……?」
全員の驚きをよそに、先程まで安否を気遣われていた少女が明るく答える。
「ただいま! みんな!!」
「あ、あ、おかえり……?」
しかし、その口から出てきた声は、いつもの可愛らしい少女の物だった。
「――さぁ、何を呆けとるんじゃ! あのバケモノを皆で倒そうぞ!!」
「「「杖が喋った!?」」」
今、混乱を極めた戦場に、混乱の真打ちが到着した!
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