第五十四話 大聖女
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――静まり返った空間に、雫の落ちる音が聞こえる。目の前で起こった事なのに、僕の脳が理解を拒んでいる。自然と唇が震え、呼吸が浅くなっていく。心臓の音だけが妙に大きく聞こえるような気がした。
「ああ、あぁ、教皇猊下……いえ、おじい様が亡くなられてしまった」
崩れ落ちる教皇猊下を支え、優しく愛おしそうに地面に横たえ、驚きの表情で見開いた目を優しく手で閉じる。その所作には明らかな親愛の情が見て取れ、二人の間に親子のような強い絆があった事が感じられる。
「いつかはこうなると思っていても、私の心には大きな穴が開いてしまったようです。嗚呼、おじい様、どうか安らかにお眠りください」
ハラハラと涙を流すアグノスさん。その涙には一切の偽り無く、大事な人を喪ってしまった悲しみに溢れていた。しかし、いや、それだけに、僕はその姿に
「なん……で?」
「なんで? 私の唯一の家族とも呼べる方が亡くなった事を悲しむのは可怪しな事かしら?」
「なんでお爺ちゃんを殺したんですかッッ!!」
意味が解らない。一体何が起こっているのか。今、目の前で起きた事実がなければ、目の前のアグノスさんはいつも通りの彼女にしか見えない。それが余計に気持ち悪い。
「ごめんなさいね、ナツメちゃん。お姉さんちょっとやる事があるからお話は後でね?」
「……ッ!!」
そう言うとアグノスさんはおもむろに
「……ッ! マウス君っ!!」
「チッチゥッ!!」
僕の声に反応して袖から黄金の光が飛んだ。光を纏ったマウスくんは、稲妻の如き動きでアグノスさんの頭部に向けて飛んでいく。しかし……
「顕現せよ神の聖壁、何人もこれを崩すこと能わず
「ヂゥッ!?」
「マウス君!!」
突然展開された光の壁に弾かれるマウス君。詠唱の速さも法術の精度も高い。しかもまだ僕の使えない法術。どうやらアグノスさんはただの治癒術士という訳ではなさそうだ。殺傷力のある術ではなさそうだけど、僕の使う特殊強化
「マウス君大丈夫!? 戻って!」
「チュッチゥ!」
よかった、怪我はしてないみたい。でも、いまので理解した。マディス教聖女、アグノスさんは強い……
「いきなり酷いわ、ナツメちゃん。ちょっとだけ邪魔しないでもらえるかな? お姉さん今日は別にナツメちゃんに酷い事したい訳では無いのよ?」
「何を言って……」
僕が言い切る前にアグノスさんが動く。
「礫よ……」
何かを短く呟いたアグノスさんが懐から複数の黒い塊を取り出すと、その塊はアグノスさんの周りを浮遊し始めた。見たことのない魔道具? でも、何をして来るかはなんとなく解る。
「ちょっとだけ痛いの行くわね?」
アグノスさんが僕に向けて手を翳すと、浮いていた黒い礫が一斉に僕に向かって飛来した。
「神よ、我が身を守り給え
「無駄よ、少々体の強度を上げた位でこの礫は防げ……え!?」
礫の数は4つ、この程度であれば詠唱付き複数展開のジャストディフェンスで対処できる。激しくぶつけ合った金属音が鳴り響き、勢いよく
「今だ、行くよマウス君!」
「チッチュッ!!」
「ちょ、ちょっと、まってまって?
いつもの様な軽い口調。馴れ馴れしい口の聞き方に腹が立つ! お爺ちゃんを殺したくせに。そんな親しげに話しかけるな! 僕は無詠唱の強化術で自分を強化しつつ、マウス君と共にアグノスさん……いや、アグノスに肉薄する。握りしめたアメちゃんを振り降ろす動きに躊躇いはない。僕はこいつを絶対に許さない!
「なんでお爺ちゃんを殺した! 言えッ!!」
「
すんでのところで展開された先程の法術で、僕とマウスくんの攻撃は再び阻まれてしまった。全力で振り降ろした僕の杖と、マウス君の渾身の体当たりの衝撃はそのまま僕らに跳ね返り、再びアグノスとの距離が開いてしまう。
「なんでと言われても困るわ。それが私の仕事であり、存在価値であり、この世に生まれた意味なのだから」
「……お前は一体何なんだ?」
「もう、そんな目で見られるとお姉さん悲しいわ?」
「ふざけるな! 答えろッッ!!」
「ふふ……ナツメちゃん、おじい様を本当に好いてくれていたのね。嬉しいわ。私もあの方を殺めるのは心が引き裂かれるようだったから解るわ。あの方は私にとっても実のおじい様と呼べる方でしたし、心の底から愛していましたもの」
「……」
「……でも、私はここに来る前から……いえ、生まれた瞬間から魔王様の為だけにある存在だったの」
「どういう事?」
僕の問にアグノスは真っ直ぐと視線を返す。そこには先程までの弛緩した空気は存在せず。本当に同一人物かと疑いたくなるような、静謐な空気をまとった女が立っていた。
「――改めてご挨拶しますわ、マディスの使徒聖女ナツメ様。私、魔王軍幹部が一人”大聖女”アグノス=エフィアルティスと申します」
魔王軍幹部!? 何でそんな奴が聖女に……そもそも、この大聖堂に魔族は入れないはずじゃ!?
「驚いてらっしゃるようね、全てお話して差し上げます……わッ!!」
不意を突かれた、迂闊だったとしか言いようがない。気を抜いたつもりはなかったけど、アグノスの告白はやっぱりショックだったらしい。僕は突然素早く動いたアグノスの攻撃に反応する事が出来なかった。いや、僕に向けて攻撃されたのであれば、それでも反応できたかもしれない。でも、あいつの狙いは僕なんかじゃなかった。
呆気にとられる僕の目の前で、聖遺物
「ふう、何とか私の仕事を遂行する事ができましたわ。何十年もかかった仕事ですもの、達成感は
まるで家事でも終えた後のような気軽さで語るアグノス。それがとても異様で気持ち悪い。
「そんな顔をしないで欲しいわ。私は貴女と唯一同じ存在、聖女なんですのよ? ちなみにさっきの問にも答えるわね。私は正真正銘の人間よナツメちゃん」
「お前なんかと一緒にするな……」
「そんな嫌われてしまうとお姉さん悲しいわ? さっきも言ったのだけれど。私は幼い頃よりおじい様のことを心の底から愛していたのよ?」
いつものようにニコニコとお爺ちゃんの事を語るアグノスの顔がどうしようもなく醜悪なものに見える、不思議だね、さっきまでは大好きだった笑顔のはずなのに。
「だけど、私。生まれた瞬間から魔王様のご寵愛を受けていたの。あなた達が女神の使徒なら、さしずめ私は魔王様の使徒ってところかしらね? まあ、そのせいで家族はその生を終えてしまったのだけど。でもね、その魂は今でも魔王様の加護のもと、この世に留まっているからいつでも会えるし寂しくないのよ? これが女神を信奉していたらおじい様のように天に召されてしまって寂しい事になるわね?」
「……」
「その後、大聖堂前に捨てられていた私を、お祖父様は本当に可愛がってくださったわ。先程も言ったけど、私も心底あの方を愛していました」
「だったらなんで?」
「仕方ないのです、愛などと言うものでは運命には抗えない。私の使命は人の身でしか行えぬ、大聖堂の聖遺物の破壊。その使命の前では家族の情なんて無意味なの! 解らないでしょうね、大望を果たした今この瞬間、最愛のおじい様を喪った悲しみすら塗り替えるほどの歓喜が、私の全身を駆け巡っているのよ、ふ、うふふふ……」
こいつは……この人は……。
「狂ってる……」
「違うわ! 狂ってなんていない。これが私! 自分が生まれた意味、その運命を全うした人間がこの世にどれだけ居るかしら? アナタに分かって? この高揚が!」
「解るかよっ! お前はもう喋るな!! 汝が秘めし力、開放せよ開放せよ。解き放たれしはあるべき姿。内なるケモノを解き放て
最早こいつと話す口を僕は持たない! ここでお爺ちゃんの仇を取る! 詠唱付き全力展開の肉体強化を施し、渾身の力で大聖女の頭を潰すべくアメちゃんを振りかぶった。突然の攻撃に反応しきれなかった大聖女は、僕の杖に迎撃魔法を唱えることも躱しきることもできなかった。左肩にアメちゃんの一撃を深々と刺した僕の手に伝わってきたのは間違いない致命の感触。狙っていた頭部の破壊はできなかったけど、この傷は間違いなく大聖女の命を奪うほど深い。
「ゴフッ……」
「やったか!?」
手応えは十分。肩口からめり込んだアメちゃんは恐らく大聖女の肺を潰し、ひょっとしたら心臓にも傷をつけたかもしれない。魔王軍幹部と言っていたけど、所詮は
目の前の女は口から大量の血を吐き出しながら、視線は僕の目から離さずニヤリと微笑んだ。その瞬間僕の背筋を冷たいものが走る。
「ゴプッ……ひどいわぁナツメちゃん。女の子にこんな事をするなんて……」
「……は?」
口から血を吐きながら、軽口を叩く大聖女。肺を潰されているのに喋ったのも異常だったが、その後起こった事は更なる異常事態だった。
潰れた肩はみるみる筋組織が盛り上がり、まるで巻き戻すかのように傷口が治っていく。破れた衣服だけが、そこに傷があった証明として残っている。
「なに……それ」
「ふぅ、ビックリした。ダメよナツメちゃん。女の子はデリケートなのだから。いきなりそんな硬いもので殴りかかっちゃうなんていけないんですよ?」
血の跡まで引いた大聖女は、まるで小さい子を諭すかのように僕に話しかけてきた。しかし次の瞬間、その女の表情が苦悶に歪む。
「チッチュウ!!」
「ヒギッ!? ……ゴプッ!!」
軽口を叩く大聖女の脇腹に金色の閃光が突き刺さり、そのまま逆側の脇腹から突き抜けていく。赤黒い血液と、いくつかの臓器が飛び散り、どう見ても致命傷を負った大聖女が地面に突っ伏した。通常であれば勝敗の決した瞬間だ。
しかし、さっきの光景を思い出した僕は、倒れ込む大聖女に全力で追撃をいれる事にした。今、このチャンスを不意にしていい相手ではない。脇腹の傷からアメちゃん叩き込み、明らかに致命傷となっているであろうその傷を、更に荒く大きく削っていく。
「ギヒィッ! よ、容赦ないのねぇ、ナツメちゃん。ゾんな、かわイイかおシているノニ…………ふう、今のはちょっと危なかったわ。危うく本当に死んじゃうかと思っちゃった!」
さっきから僕は何を見せられているんだろう……こいつが聖女で治癒のエキスパートなのは知っている。しかしこいつは先程から術の行使すらしていない。この回復力は明らかに異質で異様なものだった。
「さて、と。このままずっと二人で居たい気もするのだけど、そろそろお開きにしましょうか?」
「……逃がすと思っているの?」
「うーん、勇ましいナツメちゃんも可愛いからつき合ってあげたいんだけどね、もうお迎えがきちゃったみたい」
「……は?」
直後、轟音とともに神殿の天井の一角が砕け、そこから黒い影が大聖女の横に降り立った。小柄なそれは、僕の良く知る異様な大鎌を肩に担いでいた。その姿は一言で言えば黒。髪も瞳も服もすべてが宵闇より生まれたかのごとく黒い。反して肌は白磁のように白く、真っ赤な唇はいつか見たときと同じように三日月型に裂けている。
「よぉ、クソ聖女を迎えに来たら、思わぬ所にもう一匹のクソ聖女もいるじゃねえか?」
にやにやと笑うその顔に僕は見覚えがあった。かつて蹂躙された記憶が蘇り、僕の体が自然と震えだす。
――そんな馬鹿な、こいつは死んだはずだ。
「帰ってきたぜ? 地獄から。覚えているかい? 俺だよクソ聖女! トート=モルテ様だよぅ……キヒッ!!」
「……」
「相変わらず腑抜けたヤツだなお前は。トート様を目の前に呆けてっとどうなるか、忘れちまったかあ!?」
「!!」
一瞬、まさに一瞬。まばたきをした瞬間にトートの顔が目の前に迫っていた。
咄嗟にジャストディフェンスで迎撃を試みるも混乱していてタイミングが計れない。
既にトートは手にした鎌を僕に振り下ろすモーションに入っていた。
間に合わ、殺……され……。
「チッチュウウウウウッ!!」
「ぬあっ!?」
刹那、激しい雷を纏った小さな英雄がトートに向けて全力の体当たりを敢行した。マウスくんの全力の攻撃をとっさに鎌で防御したトートだったが、その小柄な体は吹き飛ばされ、再び大聖女の元へ。
今のは危なかった。マウスくんが居なければ僕は一撃で殺されていただろう。戦場で相手に震え上がるなんて、僕はまだまだ未熟だ。
しかし、全力の攻撃を敢行したマウスくんは体の光が消え、いつもの姿になってへばってしまった。
……けど。
「有難うマウス君、おかげで目が冷めた。後は任せて」
「チィゥ~……」
弱々しく顔をあげたマウス君。どうやら怪我はないみたいだけど力を使い果たしてしまったらしい。
「んだ、コラェ、ネズミ畜生ごときが俺の邪魔をするんじゃねえ! 次は外さねえぞクソ聖女!!」
相変わらず見た目は綺麗なのに信じられないほど口が悪い。以前から少し感じていたが、何故かこいつは僕に過剰な憎悪を持っている気がする。だけど、僕だってアリシアやフリオを弄んだこいつを許す気はない。勝ち目は薄いけど、僕だって修行をしてきたんだ、簡単に負けてなんかやらない。僕は気合を入れ直し、トートと大聖女に向けて杖を構え直した。
「はーい、そこまでよー。トート? 今日はそれが仕事ではないはずよー?」
「うるせぇ邪魔するな。テメェだって聖女を殺したがってただろうがよ? 止めるならてめえもブッコロすぞ?」
「――死神、魔王様の使命を忘れたのかしら?」
激高するトートに今まで聞いたこともないような冷たい低い声で大聖女が話しかける。あんな表情見たことがない。喚き散らすトートなどより、よっぽど恐ろしいと僕は感じた。
「……ッ! クソがッ!!」
今にもこちらに襲いかかろうとしていたトートが大聖女の言葉で矛を収めた。それを見た大聖女は再びいつもの笑みを浮かべ、こちらに向かってひらひらと手を振ってきた。
「あのねー、ナツメちゃん。私達はやる事があるから今日はこれでお終いね?」
手をパンと叩き、穏やかな笑みを浮かべる大聖女。何を巫山戯た事を言っているんだろう、僕がここでお前たちを見逃すとでも思っているのか?
「命拾いしたなぁクソ聖女。次は殺す。だけど今はお前に絡んでる場合じゃなかったわ」
「うふふ、御機嫌ようナツメちゃん」
「巫山戯るなっ!
僕の法術が発動した瞬間、トートの振るった大鎌があいつらに迫る法力ごと地面を切り裂いた。激しい土煙が巻き起こり、二人の姿はかき消える。しくじった、これでは相手の姿が見えない。
僕はどこから攻撃されても即応できるようにアメちゃんを構え目を凝らす。しかし、いくら待っても襲撃は無く、代わりに上空から大聖女の声が響いた。
「そんなに怯えなくても今日は何もしないわ? でも、貴女は必ず私が殺してあげるからね。楽しみにしていて? うふふ」
「くっそ、逃げるな!」
「それに急いで戻ったほうがいいわよ? そうしないと外の皆がどうなっちゃうかしらね?」
「……アバヨ、クソ聖女! 次あったら殺す」
二人は大聖堂の天井の穴から立ち去ってしまった。
追いかけようとしたけど、僕はあんな高い場所に行くことはできない、残念ながら二人の幹部を追うことは出来なかった。
「はは……なんだよ……」
だけど、僕の両膝は、二人の姿が消えた瞬間に震え出した。あまりの震えに立つこともままならず、その場にへたり込む。今更あんな化け物二人を相手にしていた恐怖がこみ上げてきた。僕の弱い心が悲鳴を上げているようだった。ポロポロと涙が止まらない。
「……なんだよこれ。命拾いして喜んでるじゃないか……僕は、僕は最低だ……ごめんなさい、ごめんなさい、お爺ちゃん……」
お爺ちゃんを殺されて、聖遺物も壊されて、それでも生き残ってホッとした。ホッとしてしまった。僕はこんなに弱かったのか……
……――そうだ、おじいちゃん! おじいちゃんの亡骸は!?
「……ない」
そこには疲れ果てたマウスくんと、お爺ちゃんの血痕だけが残されており、おじいちゃんの亡骸も、破壊された聖遺物も何も残ってはいなかった。
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