一人コツコツ書き溜めてた自信作の小説が、実は他人のを無意識にパクッてたらしいと判明して発狂www

@punitapunipuni

第1話

目の前に開かれたノートブックには、文字らしきものは何も書かれていない。まばらに消しゴムのカスやシャーペンの芯の欠片や、書かれた文字を消しゴムで必死に消した跡が残っているだけで、本来あるべき小難しい数式や化学式なども書き込まれていなかった。横山奏は心底嫌そうにでノートに乗った消しカスなどのごみを手で払った。勢いあまって、それらの一部は学習机の端から床に零れ落ちる。奏はうんざりした様子で椅子から立ち上がり、注意深くそれらを拾い集めると机の横に設置されたごみ箱に投げ捨てた。そしてまた机に向かい、書いては消し、書いては消しを繰り返したノートのページを睨みつけた。威勢よくシャーペンを握ってみるものの、書くべき文字は何一つ思い浮かばない。奏は深く、長い溜息を吐いた。


 奏は小説を読むのが好きだった。自分を現実とは別の世界に連れて行ってくれるような文章が好きだった。ただの白黒の記号の集まりである「文字」は、いくつも集まることによって意味の通った「文章」となり、それは奏にいつも違う景色を見せてくれた。行ったこともない山々の大自然や、見たこともない刑事事件の捜査の風景が、文章を読むことで頭にありありと浮かぶのだった。個性的なキャラクター達が生み出すストーリーも好きだった。自分では考えもしなかった視点からトリックを看破する探偵役には、常に憧れやときめきを感じていた。幼いころには「自分は物理学者になって、犯人の凝らしたトリックを物理学を使って見破ってやるんだ」などと考えていたこともあった。それほど当時の自分にとって、「探偵役」というのは憧憬の的だった。

 ミステリ小説以外では、自分と同年代のキャラクターが活躍する小説が好きだった。あまり歳の変わらないキャラクターたちが起こす大冒険。奏はそれを、まるで自分も一緒になって冒険しているかのような気分で読んでいた。キャラクターたちがムカつけば奏もムカつくし、彼らが喜べば奏も我がことのように喜んだ。宇宙を旅する小説を読めば「自分も宇宙飛行士になりたい」と言うし、会社を経営する小説を読めば「自分も社長になりたい、起業したい」と言うしで、過去の奏は将来の夢がコロコロと変わっていた。

 しばらく経つうちに、興味はだんだん小説の内容よりも*小説そのもの*に移り変わっていった。それまでの奏にとって小説とはあくまで物語や非現実感を楽しむもので、極端な話それはアニメでもゲームでも構わないのだった。幼いころの奏が本をたくさん読んでいたのは、もちろん楽しかったのもあるけれど、本を読むと周りに褒められるというのも大きかった。自分が楽しめる上、周りにも賞賛されると来たら、もうやらない理由がない。小学校の図書室では年に百冊以上本を借りた人に賞状を送ることになっていて、奏は毎年それを目標にしていた。もらった賞状を親に見せると、普段よりももっと可愛がってもらえるのが嬉しかった。だからますます本を読むようになったし、読むジャンルも広がっていった。友達に進められて、昆虫の写真集ばかり読んでいた時期もあった。しかし中学校に入ったあたりから、奏は本から距離を置くようになった。部活に友達付き合い、そんな何やかやに忙しく本を読む時間が無かったのもあるし、本以外の娯楽に興味を持ったのもある。魅力的に動くテレビアニメ、毎週視聴者の度肝を抜くような展開があるサスペンスドラマに時間を費やしていると、気づけばもう明日の朝練に備えて寝なければいけない時間で、とても本を読む気になどなれないのだった。また、勉強時間が増えたことも関係がある。教科書や問題集でさんざん活字を読んだ後では、さすがにさらに活字に触れるのは億劫になるのだった。

 そんな奏が読書に戻ってきたのは、高校受験を終えたころだった。受験後の息抜きをしようと、どこか大手の賞をとったらしい流行りのミステリ小説を読んだことをきっかけに、奏は再び本と交わることになった。その本は外界への連絡を絶たれた古びた洋風のお城が舞台で、身内に犯人がいるかもしれない恐怖に怯えながら次々起こる密室殺人を解決するというあらすじだった。一見どこにでもあるありきたりなクローズド・サークル物に見えるが、当然作者もそこのところは理解していて、そこかしこに読者を飽きさせない斬新な工夫がなされていた。一読しただけでは気づかないような細かなミスリードや伏線に、奏は舌を巻いた。また、もちろんストーリーも良かったが、それ以上にその本は情景描写に巧みだった。目の前にありありと浮かぶ中世風の孤城、それの窓から眺める雨の音、風邪を受けてさわさわと揺れる木々。それらすべてが奏にとっては新鮮だった。美しく、それでいて物悲しい自然の風景を、ナイフのような鋭い文体で突き刺すように書く様が、奏にとっては圧巻だった。奏はその作品に深く興味を持った。そして、こう思ったのだった。「この作者の別の本を、もっと読んでみたい」

 今となっては当たり前の考えだし、また世の中多くの人にとってもそうだろうが、当時の奏にとってその発想は、まさに天地を揺るがすほどの大発見だったと言っても過言ではないだろう。不思議なことに奏は中学三年の終わりになるまで「好きな本」というのはあるけれども、「好きな作家」というものは一人もいないのだった。「本」というイメージと「作家」というイメージが、頭の中で乖離していて、結び付けられていなかったと言ってもいい。本とはあくまでも図書室や本棚に置いてあるもので、それらを現実に書いている人がいるなんて、さっぱりピンとこないのだった。「本は作者が書いている」。文章に起こせば当たり前に思えるけれども、昔の奏にとって、それは怪しげな迷信のようにしか思えないのだった。本というものは、本棚から自然発生的にニョキニョキ生えてくる、そんな気がしていたのだった。個性的なキャラクターと、それを取り巻く怪奇な出来事。それに感化される自分。それら全てがその本の作者の計算によって成り立っている、というのは当時の奏にとってはどうも合点がいかず、首をかしげたくなるものだった。だから奏はいわゆる「シリーズ物」というのも理解できないのだった。どうして、同じキャラクターが別の本に登場しているのか。どうして、本を跨いだ時系列の繋がりがあるのか。だから奏は面白い本を見つけても、その本のシリーズを読破してやろう、そんな気分には一ミリもならないのだった。だから当然、「本を書いてみよう」なんて思うことも殆どなかった。学校の授業で軽く書かされたくらいで、それっきり。奏はもっぱら読む方に勤しんでいた。

 だから奏にとってそのミステリ小説の作者は、生まれて初めて出来た好きな作家だった。奏は彼の作品をいくつか選んで続けて読んだ。作家名で本を選ぶ、というのも奏にしては初めての経験だった。それまでは大抵「知り合いが読んでいるから」とか「教科書でおすすめされていたから」とか、そういう理由で本を選んでいた。彼の本はどれも総じて面白く、奏はその作家が持っているアイデアの数々に感嘆した。一人の人間がこんなにもたくさんの発想を生み出せるのか、奏はそう思った。

 しばらく彼の本を読んでいるうちに、奏はだんだんその作家自体に興味を持つようになった。これだけ魅力的な小説を書ける人は、毎日をどのように過ごしているのだろうか。奏は気になり、彼へのインタビューをネットで探して読んでみることにした。検索してみると彼はどうやら取材などを積極的に受けたがるタイプの人らしく、ネットにはたくさんのインタビュー記事があった。奏はそのうちの一つの記事を読んでみることにした。

 それは五、六ページに及ぶ、比較的長めの取材記事だった。記者の質問と、それに対する彼の返答とを文字に起こしただけの大して予算のかかっていなそうな記事だったが、奏は興味深く読んだ。そこには、彼はもともとなぜ小説家を志したのか、初めて小説を書いたのはいつか、学生時代は何をしていたのか、初めて本を出版したのはいつか、賞を取った時どんな気持ちだったか、小説を書くときに気を付けていることは何か、その他にもまさに彼の物書きとしての人生に踏み込むような質問がされていた。そして彼はそれらの質問に、軽快な口調で答えていた。彼が小説家としてのキャリアをスタートさせたきっかけもわかった。幼いころから物語を作るのが好きだったこと、初めて小説を書いたのは中学生のときということ(原稿用紙で二、三百枚書いたらしい)、趣味で書いていた小説が新人賞を受賞したことを契機に作家になったこと。奏は記事を読み進めるごとに、普段なら隠されている秘密を知れたような、好奇心が満たされる快感を感じた。また、見たところ、彼は実例を挙げて説明するのが好きなようだった。片や子供のころ感銘を受けた本、好きだった作家、読破したシリーズ物などを嬉しそうに語り、片や同年代の作家の名前を挙げて、賞賛したりこき下ろしたりするのだった。奏は彼が名前を挙げた作家にも興味を持った。彼が名前を出すくらいだから、きっと面白いのだろう。そう思い、さっそく学校の図書室でその作家の本を数冊借りて読んでみた。それらは期待を裏切らず面白かった。奏が心を動かされたあのミステリ小説にも負けず劣らず、大胆な発想と緻密な感情描写が巧みだった。奏はその作家にも興味を持ち、インタビュー記事を読み漁った。そのころには、「作家」というものが一体どんな人種なのか、少しわかったような気がした。

 中学校を卒業し高校に入るころには、奏は「自分でも小説を書いてみたい」と思うようになった。ぜひ自分の手で面白い作品を作ってみたい。尊敬する作家たちに近づいてみたい。それらの気持ちは奏が生まれて初めて覚えた、創作者への憧れだった。

 奏は手持ちのノートパソコンに執筆用のソフトをダウンロードすると、思いつくままに適当に短編を書いた。起承転結も盛り上がりどころもないどう見ても平凡な代物で、一度たりとも読み返すことはなかったが、書いているときは楽しかった。続けざまにもういくつか短編を書いた。執筆をしているときは普段の生活から解放されたような気分にもなれた。書くことでどんどん敬愛する小説家たちに近づけている気がして、嬉しかった。

 小説を書くことの楽しさ、それは確かに感じられた。頭の中のイメージを文章に変換して出力するのは、難しいけれども味わい深いものだと思った。高校入学からしばらくの間、奏は短編やそれよりもっと短いショート・ショートを中心に書き続けていた。もっとも書き続けていたと言っても、毎日毎日継続して執筆していたわけではなく、時たま気が向いたときに一気に作品を執筆するというスタイルをとっていた。

 長編を書いてみたい、と思ったのは高校一年の夏休み明けのころだった。その発端は、奏が書き溜めていた彼自身の小説をいくつか読み返したことにある。書いていたときはあんなに楽しく熱中していたのに。それらの作品どれもが――はっきり言えば、恐ろしくつまらなく感じた。展開も粗雑だし、何よりも文章が読みにくい。*てにをは*すら間違えているところも時々ある。これではとても他人に見せられたものじゃない。奏は尊敬する作家の本を本棚から引っ張り出して読んでみた。そして、自分の作品との差を一つ一つ数える。頭に筆者のイメージが流れ込んでくるような流麗な文章も書けない。読者の感情を揺さぶるような展開も書けない。奏の好きな作品と比べると、奏自身の作品はどうも幼稚に見えて、途中で読むのが阿保らしくなってくるものだった。看過できない粗が目立っていて、お遊びの域を出ていない。何よりつまらない。面白くない。世の中の多くの作家が持っている、読者を虜にするような決定的な何か(魅力とでも形容すればいいのだろうか)が、奏の作品には惨めなほど欠けている気がした。それほどまでに奏との差は歴然だった。奏は、奏自身が書いた作品への自信を急速に失っていった。

 それでも、小説を書きたいという気持ちは消えなかった。今までに書いた自作小説は確かに出来が悪いし、活躍する作家たちと比べると目も当てられない。それでも長編なら、好みの要素を好きなだけ詰め込める長編小説なら、ある程度までは勝負できるかもしれない。「自分が読みたいものを書く」という言葉がある。最初にそれを言ったのが誰かは知らないけれど、奏はその言葉がすごく気に入っていた。たとえ良いアイデアが浮かばずに悩んでいる時でも、その言葉を思い出すと心が少し救われたような気分になる。とにかく何でもいいから書いてやろう、自分が書きたいように書いてやろう。そんな吹っ切れたような気持ちが生まれて、再び執筆へのモチベーションが湧くのだ。事実、そうやって今までに数本の短編を完成させてきた。今回もそれを応用すればいい。自分が好きなシチュエーションで、自分が好きなキャラクターを登場させて、自分の好きな展開を書けばいい。奏は早速ノートを開くと、そこに小説の構想をまとめることにした。不思議な高揚感があった。自分が何か凄いことをしているような気分。感動作の映画を見た後のような心地よい浮遊感。奏は思いつくままに、自分が書きたいシチュエーションを綴っていった。「プロット」という単語を知ったのもこのころだった。物語の大まかな筋書きのことで、ストーリーの整合性を保たなければいけないミステリ小説などでは必須だ。奏はキャラクターや設定などを考えるのと同時にこのプロットも書き進めることにした。せっかく初めて長編を書くのだから、やはり自分の好きなミステリーがいいだろう。となればミステリ小説の一番の醍醐味であるトリックを考えなければならない。いや、それ以前にまずシチュエーションを決めなきゃいけない。どこかの館にするか、それとも警察官を主人公にして現代風のミステリにするか。もしくは、もっと単純に学園ミステリのほうが書きやすいかもしれない。

 ほとんど手探りの状態だったが、プロットをあれこれ考えて悩むのは面白かった。キャラクターもストーリーも自分のさじ加減でいくらでも動かせるのだと思うと、胸にわくわくとした気持ちが広がるのだった。奏は勢いに任せてプロットを書きなぐっていった。話のつじつまが合わなくなるたびに書き直し、そのたびに設定を少し変え、また書き始めた。一番気に入ったのはトリックだった。それが思い浮かんだ日は妙に調子が良くて、いつもよりもずっと多くのプロットを書き上げられていた。部屋の電気を消し、さあそろそろ寝ようかと布団に入った瞬間に急にそのトリックを思いついたのだった。雷に打たれたような衝撃、とはこのことを言うんだろうか。脳内に閃光のようにアイデアがほとばしり、奏は今思いついたアイデアを書き留めなきゃならないという気持ちになった。急いで布団から跳ね起きて、ノートに思いついたそのアイデアを書きなぐる。書いている途中、奏はこれまでの人生でも類を見ないほどの興奮を味わっていた。ひたすらノートにペンを走らせる作業に没頭する。時刻は既に真夜中を回っていたが、ちっとも眠気は訪れなかった。興奮によって身体が火照っているのを感じる。その中で奏は黙々とそれを書き続けた。頭の中には明瞭な映像があるものの、それを文章にするとなるとどうも難しい。どのように文字に起こせばいいかわからなくて筆が止まることもあった。それでも試行錯誤を繰り返してそれを書き上げた時には、連日連夜の執筆の疲れを吹き飛ばすほどの大きな達成感があった。これならいける、きっと面白い小説が書ける。そういった予感のようなものも、少しずつだが生まれていった。

 大体のプロットを完成させた後、奏は執筆を始めた。その際も試行錯誤の連続だった。変に文章にこだわりすぎて第一章からちっとも進まないということもあった。ほかにも物語をプロット通りに進行することの難しさも思い知らされた。物語を進めようとしても、キャラクターが全然思った通りに動いてくれないのだ。キャラクターを立てようとすると物語が進まないし、逆に物語を進めようとするとキャラクターの行動に矛盾が生まれるしで、奏はたびたび八方塞がりの状況に追い詰められた。「プロットさえきちんと決めておけば小説は結構楽に書けるだろう」と見くびっていた部分も正直あったので、奏はこの状態に驚いていた。自分の詰めの甘さを思い知らされた気分だった。「小説を一本完成させる」。これが意味することの重さ、難しさを、奏は今一度ひしひしと感じた。

 「小さな目標を一つ一つ達成する。そしてそれを積み上げる。」これは、奏なりに執筆への向き合い方を思案した結果思いついた言葉だった。ただ闇雲に書いても面白い作品なんて作れないことは、これまでの経験でぼんやりとわかってきた。その書き方では物語に矛盾が生まれてしまったり、ひどいときは創作へのやる気が一気に下がってしまうこともある。そうならないために、奏はとりあえず一章までを書いたら誰かに読んでもらうことにした。「長編を書ききる」と考えるよりも、「とりあえず一章までは頑張る」と考えたほうがだいぶ気が楽だ。もし読んでもらうなら誰がいいだろうか。逡巡したのち、学校で所属している文芸部の皆がいいだろうと思った。というか、それ以外に思いつかなかった。家族に見せるのはなんとなく恥ずかしいし、そこら辺の同級生は本なんてあんまり読まないだろうし。身の回りで自分の小説を読んでくれそうなのが文芸部の皆だけだった。あんまり真面目な人は多くなさそうだけど、奏はその部活の明るい雰囲気が気に入っていた。部員も奏を入れて五人だし、あまり多すぎないのも都合がよかった。

 時折筆が進まなくなることもあったものの、自作小説は確実に完成へと向かっていった。奏は文字数のノルマを決めて、調子が良くても悪くてもそれ以上は毎日書くようにした。土日にはプロットの見直しをするようになった。実際に執筆している途中で気づいた設定の粗を、一斉に点検するのだ。これの以外に多いことにも奏は戸惑った。上出来だと思っているプロットも探せばいくらでも不備が見つかるのだ。まるで服に絡みついた毛玉をとっているみたいだな、と奏はそれらを一つ一つ修正しながら思った。

 かなりの時間はかかったものの、ようやく一章が完成した。全五章の予定だからまだまだ先は長いが、とりあえず一区切りつくところまで書けたことが素直に嬉しかった。今まで書いた作品の中では一番の手ごたえがあった。奏はひとまずそれを文芸部のグループラインに張り付けて読んでもらうことにした。これまで誰かに自分の作品を読んでもらったのは部活で作った文集くらいで、趣味で書いた小説を読んでもらうのは初めてだった。小説のファイルをまとめていざ投稿しようとしたとき、奏は自分の指が震えていることに気づいた。そんなに寒くないのに妙に手がかじかんでしまう。胸の中に、ピンと緊張の糸のようなものが張り詰めている。ここで投稿したらもう後には戻れない。完結までまっすぐ進まなければならない。別にプロと違って締め切りがあるわけでもないんだし、冷静に考えれば甚だ見当違いかもしれない。それでも、とにかく当時はそう思った。一度作品を読んでもらった以上、最後まで完結させるのが筋だ。そんな使命感のような気持ちも湧いていた。

 奏は震える指で投稿のボタンを押した。自分なりの最大限の勇気だった。

 しばらくの間、呆然とスマホの画面を見つめていた。そんなにすぐ返事が来るわけがないのに、ラインを見るのがやめられなかった。新着メッセージが来ていないか何度も確認してしまう。結局その夜もうまく寝付けなかった。今日は早く寝て、二章を書くのに備えなくてはいけない。頭ではそうわかっているものの、気持ちばかりはやってしまう。皆は自分の小説にどんな印象を持ったのだろうか。そればかり気になってやきもきする。もしかしたら酷評かもしれない。「下手くそだ」とこき下ろされるかもしれない。そんな陰鬱な想像もたくさん浮かんでしまう。焦った体を無理やり鎮めながら、奏は浅い眠りについた。


 「いいんじゃない?」。投稿をした翌日の部活。そこである先輩が一番に口にした言葉だった。それがどういう意味を含んだ「いい」なのかはわからない。それでも、何はともあれ反応をもらえたのが嬉しかった。ほっと胸を撫でおろす。ひょっとすると読んでもらえないかとも思った。先輩は来年受験だし、何かと忙しいだろう。そんな中でわざわざ自分の作品に時間など使ってくれないかもしれない。そう思っていた矢先の出来事だったため、奏は深い感慨を覚えた。

 「まさかこういうのを作ってたなんて知らなかった。私は結構好きかも。」

先輩はあっけらかんとした口調でそう言った。「私は結構好きかも」。その言葉が、何度も繰り返し頭の中にこだました。

 奏は小説の続きを書き始めた。そして一章分が完成するたびにグループラインに投稿した。「小説読みましたよ」という部員からのメッセージが励みになっていた。原稿用紙一枚分くらいの感想を送ってくれた人もいた。奏はそれを少なくとも十回は読んだ。だんだん小説づくりが楽しくなってきた。家に帰っては机に向かい、ノルマの文字数まで書く。それが一種の習慣になりつつあった。

 小説作りは佳境に入っていた。四章を投稿し終え、いよいよ最終章だ。奏はこれまで以上に気合を入れて執筆をすることにした。自然とキーボードを叩く力が強くなる。どうやって物語をまとめ上げようか。せっかく頑張って書いたんだし、後悔するような終わり方はしたくない。腕を組み、うんうん呻りながら悩む。一章を書いた経験を生かして、二から四章までは割とすらすら書けた。が、最終章ともなるとそうはいかないようだ。よく考えれば奏はこれまで、まともに物語を完結させたことはなかった。やる気というか、作品への熱意がなくなると、いつも尻切れトンボに物語を締めてしまう。奏が今まで短編しか書かなかったのもそういう理由があったからだった。だから今こんなに長い間一つの作品に取り組めていることは、奏にとっても驚異的だった。

 奏はストーリーの方向性を決めると、黙々と書き始めた。破綻無く物語を完結させるには細心の注意が必要だ。プロットと使えそうなアイデアをメモしたノートを読み込みながら、脇目も振らず突き進んだ。そのノートも本格的に使いだしてから久しい。ページによっては、書き込みだらけで非常に読みづらい。砂場に指で書いたような取り散らかった字。自分でもいつ書いたのかわからない謎の曲線。そして時系列と、キャラクターの動きを簡単にまとめたプロット。これを作ろうと初めて決意したのはいつだったろうか。なんだか遠い昔のように感じる。考えもなしにペラペラとノートを捲ってみる。読んでいると、まさにこれを書き込んでいた当時の、心浮き立つようなわくわくや興奮が蘇ってくるような気がした。小汚い文字を一つ一つ目で追うだけの作業がたまらなく楽しかった。過去の時間を追体験できたような気分になった。奏は本編の小説と同じくらい、このノートにも深い愛着を感じていた。

 奏はノートを一気に閉じた。そして座ったまま腕を上げて伸びをした。天井を両手で触ってやろう、それくらいの気持ちがこもった大きな伸びだった。それからパソコンのモニターの一点を見つめる。軽く悩んだのち、奏は再び軽快にキーボードを叩き始めた。なるべく早く完成させたかった。皆に読んだ感想を聞かせてほしかった。自分で言うのも変かもしれないが、これはかなり面白くなるぞと奏は思った。皆はどういう顔をするだろう。驚いてくれるだろうか。「面白い」と言ってくれるだろうか。自分に感心してくれるだろうか。作品を完成させたときのことを考えると、奏は気持ちが華やいで、いくらでも頑張れるという気持ちになるのだった。途方もないほどのわくわくとした気持ちで胸がいっぱいになる。心臓が期待に早鐘を打っているのを感じる。だからまずます続きを書きたくなる。事実ここ最近は、ノルマの二三倍書くことも珍しくなくなっていた。「あとちょっとだけ書こう」と思っていたのに、ふと気づくと数時間が経っていたこともあった。そういうときの寝起きの辛さと言ったら、一体全体どう形容すればいいのか。でもそれも「辛いのは執筆を頑張ったからだ」と思うと、少し楽になるのだった。

 万事順調だった。懸念など一つもなかった。毎日毎日加速度的に書くスピードが増している。物語も煮詰まり、後はクライマックスを残すのみといった展開だ。それはミステリ小説の一番の醍醐味。探偵役がトリックを明らかにし、犯人を高らかに指名するシーン。ずっとずっと書きたくてたまらなかった場面。これを書きたいがために、数ある中からミステリというジャンルを選んで執筆したと言っても過言ではない。本来ならば書くのに一番熱が入るはずだ。それなのに――

 奏は奇妙な違和感を感じていた。もしくは予感、とも言い換えられるかもしれない。コツコツと時間をかけて積み重ねてきたものが一瞬にして壊れるんじゃないか。自分の地道な歩みは、端から見当はずれだったのでは。そんな不吉な予感。そのせいでイマイチ執筆にも熱が入らず、集中できないのだった。

 奏はひどく動転した。これは、この胸にできた妙なしこりのようなものは何なのだろう。どうも釈然としない。何も心配すべきことはなかったはずだ。物語を終わらせる筋道は見えている。特に物語上の大きな矛盾とかはないはずだ。幾度となくプロットを読みかえしたし、そのたびに微調整を加えてきた。問題ない。気がかりなことなどない。そのはずなのに、奏の胸は言いようのない不安で満たされているのだった。

 気持ちを落ち着けようとして、てのひらで胸をおだやかに上下にさする。手と布が擦れ合う耳障りな音が、てのひらを往復させている間中生まれていた。しんと静まり返った部屋ではその音はやけに大きく響いてしまう。落ち着け、何考えてるんだよ俺。こんなことでいちいち立ち止まっては駄目だ。書くのに集中しなくては。そう自分自身に言い聞かせる。それにこんなの今までにも何度かあったじゃないか。根詰めて書いたプロットが全然面白いと思えなくて、もしくは自分の文章の質や表現力にちっとも満足がいかなくて、筆が止まってしまったこと。どうすればもっと良い小説になるのかと考えても、まるっきり改善策は浮かばずに時間だけが流れた経験。きっと今もそういう時期なんだ。定期的に訪れる「小説書けません期」。自分の作品が信用できなくなり、執筆を辞めたくてたまらなくなる瞬間。全部放り出して逃げ出したい。中途半端だけど、もう続きを書きたくない。そういう気持ちに駆られるが、いざ本当に逃げ出そうとすると、途端に心臓をチクりと刺すような罪悪感が浮かぶ。本気で逃げ出していいのか。せっかく寝る時間を削ってまで書いていたのに、今書くのを辞めたら費やした時間が無駄になるじゃないか。自分なりに一生懸命考え出したプロットも、アイデアも、キャラクターも、全部が水泡に帰してしまう。第一文芸部の皆のことはどうなる。自分はもうすでに皆に小説を見せてしまっている。いきなり「書くのをやめた」だなんて言ったら、皆はきっと困惑するだろう。そして自分にいろいろと訳を聞きたがるだろう。そうなったら、俺は一体どう答えられるだろうか。「書くのが辛いから辞めました」。自分が執筆から離れたい理由を端的にまとめると、それだけなのだ。それではあまりにもあんまりだ。ひとしきり悩んだ後、結局はまた執筆ソフトを立ち上げてしまう。そして仏頂面でタイピングを再開する。それが「小説書けません期」。今度もそれが来ただけなんだ。最後の最後、いざ完結に向かって頑張ろうという時期に来たのは厄介だが、自分が冷静でいられる限りなんてことはない。こういう場合は気分転換が効果的だ。めんどくさいけど、少し表でも散歩してくるか。沈んだ気持ちも、胸いっぱいに冷たい空気を詰め込めばいくらかましになる。奏は窓から外を眺めた。外はかなり暗くなっていた。遠出は危ないから、近くの自販機に行くだけにしよう。奏はポケットに財布を突っ込んでから家を出た。

 冬の澄んだ冷たい空気が肌に触れる。呼吸をすると肺が痛いほどだ。もう一枚羽織ってくるんだった、と奏は小声で愚痴をついた。服の襟に顎をうずめるようにして住宅地を歩く。すでに寝ている人も多いのだろう。住宅地は空恐ろしいほどの静謐さが保たれていた。

 自販機は家から三百メートルも行かないところにあった。迷わず百二十円を投入し、お目当てのココアを手に入れる。人っ子一人見当たらない夜の街路に、缶が落下するがじゃこんという音が響く。

 帰り道、奏はそれを飲みながら先ほどのこと――執筆中に感じたあの強烈な違和感――について思い返していた。やっぱりどこか釈然どしない。さっきは「小説書きたくない期」だと自己診断した。が、それは本当に正しいのか。一つ腑に落ちない点がある。「小説書きたくない期」は普通、執筆に行き詰ったときや、小説の出来栄えに満足できなかったときにあらわれる。しかし今回は違う。奏は今の小説の出来に何の不満も持っていない。出せる力は全部出した。現時点の奏にできる最高の作品だと思っている。それに結末までの流れもはっきりイメージできるし、次に書くべきシーンも決まっている。続きが書けないわけではない。

 とすると、ちょっと見方を変えて考えたほうがいいかもしれない。即ち、もしこれが「小説書きたくない期」の症状でないとしたら、どんな可能性があり得るだろうか。こういう可能性もあるかもしれない。「自分は無意識のうちに設定などの誤りを感じていて、それが不思議な違和感となって意識の表層に滲み出ている」。確かにこういうこともよくある。作品への思い入れが強いほど、その作品の問題点や改善点は見つけにくい。表面上は何にも気づかないことだってある。でもそういうときでも、往々にして頭の片隅では無意識に作品の欠点を突き止めてしまっているものだ。そしてその気づきは直接意識に上るのではなく、「なんか違う」「ちょっと微妙かも」と言った薄ぼんやりとした気持ちとして現れる。今の自分がこれに陥っている可能性も否定できない。言語化できない無意識レベルでも、人間はしっかりと作品を分析している。これまでにも、そういう無意識の気づきに助けられたことは幾度もあった。というか、細々したプロットの修正点には大方そんな感じで気づく。ストーリー上のよほど大きな穴以外、なかなかそういうのには気が付きにくいものだ。霞がかかったような違和感を言語化して突き詰めていくことで、ようやっとその正体にたどり着くことができる。

 従って、その意識せずに感じている作品の欠点を見つけ出すにはかなり骨が折れるだろう。いつにもまして注意深く自分を分析しなきゃいけない。どこから考えればいいのか。何か、取っ掛かりのようなものがあればいいんだが。奏は悩んだのち、事件のトリックから突き詰めて考えることにした。なんてったってミステリ小説の目玉だ。これに不首尾があるなんて絶対に許されない。もう何度も何度もプロットを読み返したが、やっぱりまだ見つけられていないミスがあるのかもしれない。

 奏は集中の世界に入りながら、寒空の下をずんずん歩いていく。口寂しくなると片手に持っているココア缶を流し込む。ココアはほんのりとした温かみと、あまり強すぎない甘味を残して喉に流れていく。もうそろそろ家に着く頃合いだ、と奏は歩きながら思った。それまでにほんのちょっとでもいいから、この違和感の手がかりを整理しておかないと。

 奏の小説のトリックはいわば密室トリックだ。明らかな他殺体が発見されるものの、それがあった部屋の出入り口には内側から鍵がかかっている。普通に考えれば部屋の中から外へは出られない。それなのに、犯人は部屋のどこを探しても見つからない。さてこの場合、犯人はどうやって被害者を殺し、その後どうやって部屋から出たでしょう?大雑把に概要をまとめるとこんな感じだろうか。奏はもう一度深く考えてみる。これのどこに奏の感じている違和感の正体があるんだろうか。うまく言えないが、なんだか微かに引っかかるものがある気がする。

 そういえば、その密室を作り上げたトリックは、奏がこの自作小説で一番気に入っている部分だ。奏は最初密室トリックをやるつもりなど毛頭なかった。ミステリを書くのは初めてだし、無難にアリバイトリックを使おうと考えていた。それなのにある日突然、何の脈絡もなく密室トリックのインスピレーションが降ってきたのだ。まさに天啓と言うしかない。この閃きがなければ、奏の小説はこれほど完成度の高いものにならなかっただろう。ある意味では偶然に助けられたとも言える。本当に奇跡のような瞬間だった。トリックの出来栄えだけなら、プロの作家が書いた小説にも劣らないと思う。奏は好きな作家の名前を思い浮かべてみる。アリバイトリックならこの人、叙述トリックならこの人、物理トリックならこの人、密室トリックなら・・・

 奏はハッとしてその場に立ち止まった。密室トリックなら・・・?嫌な予感がする。それも生半可なものではなく、体の芯から悪寒が走るような、とてつもなく巨大で、絶望的な予感。密室トリックに優れた作家。その人の名前って、何て言うんだっけ。奏は記憶の底からすくい上げるようにその名前を探す。しかしすぐには見つからなかった。頭の中で色んな作家の名前がごちゃになり、よく思い出せない。こんなにも思い出せないことから察するに、もしかすると最近読んだ作家ではないのかもしれない。奏はもっと広い範囲で探してみることにした。確か本格的に読書に嵌ったのは高校受験後。その時に読んだ本がすごく面白くて、それがきっかけで小説を書いてみようと思ったんだよな。その本のジャンルも多分ミステリだったはず。具体的な内容を想起する。舞台は館で、犯人はこいつで、トリックは――

 ふいに周囲に影が落ちた。あたり一面、全くの宵闇である。奏の手も足も暗闇に溶けて消えていく。奏は一瞬身を竦ませたが、状況をなんとなく把握すると、意を決したように近くに建っている電灯を見上げた。強い風が吹いたわけでも、ごみが絡みついていることもないのに、その電灯の明かりはなぜか消えていた。固まったようにそれを見上げ続ける。しばらくぼうっと見ていると、まるで何事もなかったかのように唐突にそれに明かりが戻った。今まで通り平然と周りを照らしている。奏の手足にも光が戻りはっきり視認できるようになる。ココア缶を握る手がきらりと光った。いつの間にか大量に手汗をかいていて、それが電灯の光を反射しているようだ。奏はそれを服にこすりつけて拭うと、残りのココアを一気に飲み干した。立ち止まって電灯を見上げていただけなのに、心臓が大きく脈打って体中に熱い血液を巡らせている。奏はいてもたってもいられずに一目散に家へと駆け出した。下唇を痛いほど噛みしめる。内心、すでに奏は泣きそうだった。手の施しようがないほどの圧倒的な挫折感が胸を埋め尽くし、転がっている石ころにすら気づかず踏みつけてしまうくらいの焦燥をつくづく身に染みて感じながら、それでもなお懸命に涙をこらえて走っていた。またその一方で「実は全部自分の勘違い」という、そんな僅かな可能性を本気で願ってもいた。そうであったらどれほど良いか。まさに藁にも縋る思いだった。「全部が夢であればいい」とこれほど強く望んだ日は他にはない。奏は自宅までの道のりを戦々恐々たる思いで駆け抜けた。一度だって立ち止まることはせず、文字通り奏の全速力で走り切った。

 奏は家に入るなり、脇目も降らず二階にある奏自身の部屋へと向かった。とにかく早く部屋につきたい一心で階段を駆け上る。相当大きな足音が響いているはずだが、そんなもの気にしちゃいられない。奏は部屋のドアを開けると壁際に寄せてある本棚に直行した。そこには奏が古本屋巡りなどでコツコツ買いそろえたお気に入りの本が勢ぞろいしている。奏はその棚を凝視した。全体を隅々まで念入りに見回す。その内の一冊に奏の視線はくぎ付けになった。

 ――見つけた。

 幸か不幸か、探している一冊はすぐに見つかった。すかさず手を伸ばして本棚から抜き取ると、本の終盤の方のページを開く。そしてまるで壊れてしまったアンドロイドのように一心不乱に本を読み進める。真実を知ってしまうことへの恐怖と、何かの間違いであることを願う期待とで、奏の胸は破裂しそうなほど高鳴っていた。冬だというのに汗が止まらない。手汗で本が濡れてしまうのもいとわずに奏は文字を追い続けた。

 探していた本。それは、奏が再び読書に舞い戻る契機となったあのミステリ小説。外からの連絡手段や移動手段が一切断たれた中世ヨーロッパ風の城を舞台に、その中で起こる連続殺人事件を鮮やかに描き切った大作。自然美の本質を突くような卓越した情景描写と、常に読者の予想外へと転がっていく綿密に寝られたストーリーライン。もしこの本がなければ奏は作家という職業に興味を持たなかっただろうし、ましてや自分で小説を書いてみようなどとは絶対に思わなかっただろう。ある意味では奏の人生の転機ともなった本。奏の持つ作家への憧憬は、ひとえにこの本から始まっている。それなのに――

 奏は凄まじい勢いでページを捲っていく。もう二、三度は読んだ本なので、熟読しなくてもある程度の内容までは読み取れる。昔読んだときの記憶と照らし合わせながら、記憶を掘り起こしながら目を通していく。そして読み進めれば読み進めるほど、奏の感じている疑惑は確信へと変わっていった。

 ――どうして忘れていたんだろう。

 ページを繰りながら、奏は激しく動揺していた。本当にどうして今まで気づかなかったのか。確かにここ半年くらいはこの本を読み返したりはしなかった。それは事実だ。でもそれにしたって不自然だ。「好きな本は?」と聞かれたら真っ先にこの本を挙げるくらい、奏はこの本が大好きだった。それなのに、こんなことってあるのかよ。奏は目頭がじんと熱くなるのを感じた。。

 コツコツと時間をかけて積み重ねてきたものが一瞬にして壊れるんじゃないか。自分の地道な歩みは、端から見当はずれだったのでは。それらのかつて感じた疑念は概ね正しかった。一つ間違いがあるとすれば、そもそも奏は地道に歩んだりなどしていなかった。努力した*気分になっていただけ*だ。ろくでもない文章を書いて、それを周りに読んでもらって、それでお門違いな満足を得ていただけだ。奏は自分を責めた。このまま誰とも顔を合わせずに消えてしまいたいとも思った。

 本の物語はいよいよ最後の場面だ。トリックの全貌が明かされ、散らばっていた謎が一つにまとまるシーン。本の中で、探偵役の男が滔々と真相を語りだす。奏はそれを冷え切った気持ちで眺めていた。この物語の最大の謎。それは「犯人はどうやって密室殺人を成し遂げたのか?」ということ。

 「言葉で言っても信じられないと思います。なので実際に密室を作って見せましょうか。それが一番手っ取り早い」

探偵役の男はそういうと、密室作りの準備に取り掛かった。奏はもう我慢の限界だった。大きくしゃくりあげるのと同時に、一粒の涙が頬を伝って落ちる。それが本に大きな丸い染みを作った。

 「ええと、まずは窓にこんな風にロープを巻き付けてですね・・・」

探偵役はせっせと密室づくりに励んでいる。涙で目がぼやけて、続きを読むことができない。奏は袖で目をこすると、探偵役の言葉に耳を傾けた。胸にぽっかりと穴が開いたような虚脱感を覚えていた。

 探偵役はその後も密室を作り続けた。奏はその密室づくりの手順を、諳んじられるほどよく知っていた。何度も何度も繰り返し読み、推敲し、丁寧に執筆していたからだ。続きを読むのが辛かった。この場から逃げ出してしまいたいとさえ思った。それでも途中で読むのを辞めるわけにはいかなかった。例えどんな気持ちになろうと、どんなにズタボロにされようと、最後まで読み切る義務がある気がした。

 誰かを頼ることもできないと思った。もし奏が陥っている状況を皆に説明したとして、奏の気持ちを汲んでくれる人はいても、奏を擁護してくれる人はいないだろうと思った。これは奏の側に一方的な落ち度がある。女々しく泣いてみたところで、それを慰めてくれる人などいない。奏は歯を食いしばって泣き声を堪えた。声を出すことで、家族に泣いているとばれるのだけは嫌だった。必死に感情を抑えようとする。それでも痙攣のようなしゃくりあげは止まらない。涙が泉のように湧いては零れていく。本が手汗と涙とでぐっしょりと濡れているのを見て、奏はますます自分が惨めになった。

 「・・・と、ここに何か細い棒を差し込んで・・・。よし、これで完璧です」

探偵役はついに密室を完成させた。

 奏の小説と、全く同じ手順。まったく同じトリック。まったく同じ仕掛けで。


 それから半年ほどが経った。ココア缶で暖とっていたそのころとは違い、今はもうすっかり夏である。目一杯開かれた窓からはうるさいくらいの蝉の鳴き声が入っていて、夜だというのにその声は一向に衰えない。奏は部屋の隅に置いてある扇風機を見た。強風モードに設定したはずだが、風は奏に届くころにはとっくに温まってしまっていて、ひたすらに温風のみが送られてくる。ちっとも涼しくない。こいつは頑張ってくれてはいるが、これからもますます上がっていくであろう気温を考えると、この扇風機一台じゃ心もとない。じっとりと嫌な汗が流れる。その内の一滴が目の前の白紙のノートに落ちた。それが奏の中で、あの日の苦々しい光景と重なる。

 目の前に開かれたハードカバーの本。それに落ちる汗と涙。手汗でぐっしょりと濡れたページ。奏はあの日から一度も執筆ソフトを立ち上げていない。熱心に書いていたあのミステリ小説も、最終章を残したまま未完成だ。でもそれも当然だ。自分のしたことに気づいてしまった以上、それを無視していけしゃあしゃあと続きを書くことなどできない。

 奏はあの自作小説にそれなりの自信があった。例えプロが書いたものには及ばなくとも、奏なりのオリジナリティが出せた作品になると思っていた。それだけにあの件は衝撃だった。自分の作品が、意図していなかったとはいえ他人の猿真似に過ぎなかったという衝撃。自分で生み出したと思っているアイデアが実は他人の盗作で、しかも本人はそれには気が付かずに悪気なくそのアイデアを盗用しているという、救いようもないほどの間抜けな話。オリジナリティなど全くの幻想だった。ある日突然神がかったように思いついたあの密室トリックは、実は奏のオリジナルなどではなく、所詮他人の劣化コピーにしか過ぎなかった。

 でも、確かに考えてみればおかしな話だと奏は思った。自分のような特別ミステリの知識が豊富なわけでも、創作経験が豊富なわけでもない高校生が、商業作家と並ぶレベルのトリックを考え付くなどありえない。思い上がりも甚だしい。自分はそれに早く気が付くべきだったのだ。少し冷静になって自分のアイデアを見つめなおせば、これが他人の猿真似だとわかったかもしれない。そうなればプロットの段階から書き直せただろうし、こんなに後悔することは――

 いいや、それも違う気がする。ふいにアイデアを思い付いたときのあのとてつもない高揚感。それは決して抑えようとして抑えられるものではないだろう。自己陶酔とまではいかないけれど、少なくともある程度の時間を経ないと、思いついたそのアイデアを冷静に見ることはできない。だから自分のアイデアを客観視することなどできないし、当然「もしかしたらこのアイデアは誰かの模倣かもしれない。無意識に誰かのアイデアを盗んでしまったかもしれない」などと思うこともない。

 たとえもう一度高校入学からやり直せるとしても、自分は再び盗作をしてしまうだろうし、それをしてしまったことを深く悩むだろう。それらは自分が何をしようと変えられない定めのような気がした。

 奏はもう一度ため息をついてから、目の前の白紙のノートを勢い良く閉じた。これは奏のアイデアノートだ。本来であれば、その名の通り創作に使えそうなアイデアや、次回作の構想などが書き込まれているはずだった。けれども奏はあの件以降、次回作のプロットどころか、その初期設定すら考えられていないのだった。ノートを開き、何も書けないまま時間だけが過ぎ、結局諦めてノートを閉じる。自分は一体何度これを繰り返したんだろうと奏は思った。

 決して創作への意欲を失ってしまったわけではない。小説を書くことは好きだし、今でも次の作品を書いてみたいという意思はある。日頃の何気ない瞬間からふと小説の題材を思いついて、急いでそれをメモに書き留めることもある。でもそれを一本の物語にしようとすると、つまりその題材を元に小説のプロットを作ろうとすると、途端に何から書き始めればいいかわからなくなってしまう。

 小説を書くにあたって決めなきゃいけないことはたくさんある。舞台をどこにするかだったり、主人公を誰にするかだったり。やっぱり自分と同じ高校生を主人公にするのが無難なのかな。主人公の設定から固めてみようか・・・。それとも、まず小説の長さを決めたほうがいいかもしれない。三万字程度の短編にするか、それとも十万字を超えるくらいの長編にするか。それによってプロットも全然違ってくるし。でも小説の文字数って事前に考えていたよりも伸びるっていう意見もあるよな。だったら今それを考えるのは無意味かもしれない・・・。もしくは小説のもっと根幹の部分、例えば一人称で書くか三人称で書くかとか、そういうのを先に決めたほうがいいんじゃないか。それが決まらないと書き始められないんだし。でも一人称が似合う主人公と三人称が似合う主人公って違うよな。やっぱり主人公から決めたほうがいいのかも・・・。となると、結局は堂々巡りだ。ぐるぐると同じところを回っているだけで、決めるべきことは何も決まっていない。

 調子のいい日にはストーリーの枠組みくらいなら書けることがある。自分でもよくわからないけれど、時折勢いのままにすらすらとノートを書き進められる時期というのが来る。でもそうやって書いた文章を読み返してみても、もちろん面白いと思えないし、むしろ誰かの二番煎じであるような気さえしてくる。自分は今までいろいろな作品に触れてきた。ドラマやアニメにはまっていた時もあったし、小学校から数えれば本だってそれなりの量を読んでいるはずだ。自分の小説がそれらの作品のパクリになっている可能性。それは大方どれくらいのものなんだろうか。以前書いていた、あの未完に終わったミステリ小説。あのように無意識に模倣をしてしまうことはよくあることなんだろうか。あの例だけがたまたま?それともあれは自分の実力?自分は他人を真似ることでしか小説を書けないんだろうか?疑心暗鬼が蜘蛛の糸のように絡みついてくる。考えすぎかもしれない。どっちにしろ世の中に完全なオリジナル作品なんてないんだ。どの作品にも必ず「元ネタ」と呼ばれるものは存在する。だからあまり考えすぎず、好きなように執筆をしたほうがいいのかもしれない。それでも・・・。

 ひとしきり考えた後、最後にはその文章を消してしまう。ノートは再び白紙に戻る。そして自分は、自分自身の満足するプロットを書けないことがもどかしくなり、やりきれない気分になってしまう。

 そういうときにいつも考えるのは、例のミステリ小説の初期を書いていたとき。つまり、自分がまだ楽しく小説を書けていた時のことだ。あれはどういう風に書いていたっけ。そうだ、思い出した。最初に決めたのは小説の長さだ。当時の自分は短めの小説しか書いていなかった。だから、今度は長編を書いてみたいと思って書き始めたのだ。そこからはトントン拍子だった気がする。自分が一番好きなジャンルであるミステリを書くことに決めて、キャラクターを作って、プロットを書いて。今みたいに細かいことは考えなかった。書きたい要素は自然に思いつくから、あとはそれらを調和の取れた感じにまとめるだけでよかった。無論、それは楽に執筆ができたということではない。当時にもいろいろな苦労があった。プロットは幾度となく書き直したし。キャラクターが思い通りに動いてくれないこともあった。でも書き続けられた。「書くのが辛い。辞めたい」と思ったことはあるが、「次の展開が思いつかない」と思ったことはない。いつも書きたいシーンが頭に浮かんでいた。だから書くスピードが落ちることはあっても、完全に止まってしまうことはなかった。毎日の執筆ノルマも達成できていた。

 それに当時は今と違って、自分の書いた小説に満足ができていた。自分で書いた展開に「我ながら面白い」と思うこともあった。そのように思えることもあった。だから挫けずに書き続けられたのかもしれない。書けば書くほど、考えれば考えるほど、自分の小説が良くなっていくという実感があった。きわめてゆっくりだけれど、それでも少しずつ前へ進んでいる感覚。それが楽しかったのだ。楽しいからこそ書き続けられたし、どんどんのめりこんでいった。ほとんど最後まで書き上げることもできた。皆に小説を読んでもらうこともできた。万事順調とまでは言えないが、楽しく、そして気楽に創作をすることができていた。

 いや、

 でもこれじゃあ、思い出を美化しすぎている気がする。現実は全然そんなものではなかった。

 ミステリ小説の根底となる部分。トリック。自分も含め、世の中多くの人はこれを味わうためにミステリ小説を読んでいる。その部分で自分は許されないことをした。そのことを思い出すと、今でも心が痛み、わびしい気持ちになる。自分さえも信じられなくなり、自分の全く知らない町に置いてけぼりにされてしまったような、頼りの綱を失ってしまったような、心細い感覚。もし誰かに盗作を見破られていたら。もしそれをしたことを厳しく追及されでもしたら。考えるだけで身震いする。

 でもだからといって自己弁護の気持ちが全くないかといわれると、それも違う気がする。自分にも言い分はある。確かに自分は他人のアイデアを盗んだ。でもそれは狙ってそうしたわけじゃない。無意識に、自分でも気づかないうちにそうなってしまっただけで、そこに「あいつの作品をパクってやろう」といった悪意はない。それにトリックこそまんま同じだが、作品の舞台やキャラクターは別物だ。当然ストーリーも異なっている。物語の最終局面、探偵役がトリック見破る場面こそ酷似しているが、それ以外は似ても似つかない。いくら最後が似ていたって、そのシーン以外の展開に独自性を見せられているなら、それはもう別の作品を名乗っていいんじゃないか。試行錯誤をしながら書いたあのプロットは、間違いなく自分の物だ。自らの積み重ねの産物だ。そうに違いない。そう思いたい。そう信じたい。

 しかし心の奥底ではそれを信じられない。やはり根本的なところが誤っている気がする。さっきも考えた通り、ミステリ小説の基盤となるのはトリックだ。初めにトリックありき。物語やキャラクターはトリックと矛盾しないように、そしてトリックを最大限引き立たせるように計算して作っていく。それならば、物語を支える土台となっているトリックが模造品にすぎなかった場合、そのトリックから逆算して作った物語はオリジナルだと言えるのだろうか。例えるなら、倒木に寄生する茸のようなものだと思う。仮に成長して立派な茸になれたとしても、それはひとえに倒木に含まれた栄養素のおかげだ。決して茸だけの力ではない。自分にもそれと同じことが言えるのではないだろうか。自作小説の一部に盗作の要素が入っていると気が付くまでは、自分はその小説に満足を感じていた。自分に出せる目いっぱいの力が出せたと思っていた。でもそれは本当に自分の実力なのだろうか。物語の根底ともいえるトリック。その部分で人気作品をトレースしていたから、素人の自分でもまずまずの小説が書けたのではないだろうか。上等な出汁さえあれば、それにどんな種類の味付けをしようが、コンソメを入れようがトマト缶をいれようが、それなりに味わい深いスープが完成する。自分は具材を決めただけ。元のお出汁が良いのだから、自分に特別な能力がなくても面白い作品が書けるのは当たり前だ。そう思えてならなかった。

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一人コツコツ書き溜めてた自信作の小説が、実は他人のを無意識にパクッてたらしいと判明して発狂www @punitapunipuni

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