第2話

夜の帷につつまれた公園。

遊歩道が木々の間を縫うように続き、横を流れる川のせせらぎが静かに響いている。昼間は子どもや散歩を楽しむ人々で賑わうが、住宅街からやや離れていることもあり、深夜になると人影もなく、しんとした空気が漂う。


点々と配置された街灯が、淡い光を投げかける。木々の影が地面に不規則な模様を刻み、夜風が葉を揺らす音だけがかすかに耳に届く。

この場所にいると、街の喧騒が遠く、まるで現実から切り離されたような錯覚に陥る。


公園内に遊具らしい遊具は見られない。

整然と並んだベンチと一本の桜の樹があるだけだ。桜は樹齢五十年近い古木であり、春には満開の花を咲かせる。時期になると桜の元は花見客で賑わうが、今は葉を風に揺らし、静かに夜を見守っている。


その木の下で、一つの影が動いていた。


ーーシャドーボクシング。


少し見るだけで、その動きが付け焼き刃のそれではないとわかる。

動きの一つ一つが洗練されており、鋭くしなやかである。

それでいて、発達した筋肉から繰り出される拳や蹴りは重厚で、力強い。

放たれる熱気が、周囲の空気を押し返す。

大きく力強い体に反して、その顔は少年らしいあどけなさを残している。


各務雄一である。


上下グレーのスポーツウェアには、すでに大量の汗が滲んでいた。

シャドーボクシングを始めてから、かいた汗ではない。その前にも、かなりの運動をしていたらしい。


夜、雄一はスポーツウェアに着替えると、ロードワークに出かける。

特に決まったコースは、ない。

時には自然の中を、時には住宅街を、時には坂道を、またある時には下り坂を走る。

合わせて1時間ほど。

体を温めることも目的ではあるが、決してゆったりとしたペースではない。

一般的なランニングよりもはるかに速いペースで、なおかつ一度もスピードを落とすことなく走り切る。


体が十分に温まると、自宅から縄跳びを持ち出し、決まってこの川沿いの公園に向かう。

縄跳びといっても、一般的なものではない。

タイロープと呼ばれているものである。

ムエタイの選手が練習で使うことから、そう呼ばれている。

ロープが太く、重い。

裸足の指に当たると爪が剥がれ、飛ぶ。

雄一はこともなげに、様々な跳び方を器用にこなしていく。

合間にはスクワットやランジといった一般的な筋力トレーニングを挟む。種目は下半身に集中している。

これを1時間ほど繰り返したところで、トレーニングは終わりを迎える。


格闘家にとって、下半身のトレーニングは必要不可欠である。足を満足に使うことができなければ、相手を倒すことは難しい。

基礎体力を養うこの一連の流れは、雄一の日常にすっかり溶け込み、1日の終わりの習慣として定着していた。

一般的なトレーニングとしては、取り立ててハードなものではない。

しめて2時間ほどのメニューであるし、プロ格闘家の中にはこの程度は練習前のウォーミングアップとして、問題なくこなすことができる者も少なくない。

しかし、これを毎日となると、並外れた意志と体力を必要とする。

高校生になり、日中どれだけ疲れても、どれだけ帰りが遅くなろうとも、雄一は決してトレーニングを欠かすことはなかった。


今夜の雄一はこれらのルーティンをすでに終えていた。普段ならばそこで切り上げるところを、今日はそれに加えてシャドーボクシングに打ち込んでいる。

拳を振るうたび、彼の中に燻る何かが熱を帯びていくような感覚があった。


格闘技を始めたのは、雄一が6歳の時、小学校に入学した春のことだった。

空手をやっていた父の影響で、雄一にとって格闘技は幼い頃から身近なものであった。

家のテレビではよく格闘技の試合が流れており、父に連れられて実際の試合会場へ足を運んだことも一度や二度ではなかった。


当時、立ち上がったばかりの立技系格闘技団体「STRIKE ONE」が、格闘技ブームを牽引していた。

ゴールデンタイムに地上波で放送される試合は、どれも高い視聴率を叩き出す。

世間的にも、格闘技といえばキックボクシングという風潮が広がりつつあった。

そのような背景の中で幼い雄一が、キックボクシングをやってみたいと言い出したのも、ごく自然な流れであったと言えるだろう。


父は内心、自分と同じ一誠空手いっせいからてをやってほしいと思っていたが、格闘技を自分からやりたいと言い出した息子に反対することはなかった。

息子を連れて札幌市内のジムに見学に行くと、その日のうちに入会手続きを済ませた。

こうして雄一は、キックボクシングの道を歩み始めた。


学校が終わると週3回、多い週では土日を含めて5回以上ジムに通った。

日々の練習は楽しかった。

新しい技を学ぶ、コンビネーションをつなげる、その一つ一つが新しい発見に満ちていた。

そこには確実に、今までに感じたことのない喜びがあった。


大きなジムではなかったが、アマチュアやプロ含め数名の選手が在籍しており、全体のレベルも高かった。

ジムの会員は大人ばかりで、自分と同じ年頃の子供はいなかった。

しかし、会員たちは皆、時に厳しく、時に優しく、雄一と対等に接してくれた。


恵まれた環境の中で、雄一は持ち前の集中力と吸収力を発揮し、すぐに上達していった。

日々の汗は結果として現れる。

やがて試合に出場するようになると、雄一はいくつもの好成績を修めた。

U-15の全日本大会で優勝した時など、父は息子以上に喜んだ。


もし試合に負けたとしても、雄一が涙を見せることはなかった。

改善点を見つけ、すぐに練習を始める。

繰り返し繰り返し、覚えるまで体に動きを染み込ませるーーまるで、自分に弱点があることを極端に恐れているかのように。

その姿は、子供ながらに鬼気迫るものがあった。


それは東京に引っ越して、あらたにムエタイのジムに通うようになってからも変わっていない。

しかし、まるで取り憑かれたように、暗闇の中で一人練習を繰り返す雄一の背中からは、今までとは明らかに異質なものーー焦燥感のようなものが立ち昇っていた。


足を止め、一度全身を脱力させると、雄一は再び構える。

重心が前。

スタンスも、ムエタイにしては広めに取られている。


シャドーボクシングは、型やコンビネーションの練習とは違って、明確な相手を思い浮かべながら行うものである。それにより実戦さながらの経験を積むことができるのだ。

そして、優れた格闘家のシャドーボクシングは、見る者にすら仮想の相手を浮かび上がらせる。

目線、重心、ポジショニング…動作の一つ一つが、相手の姿を、まるで本当にそこにいるかのように、ありありと描き出す。

雄一のシャドーボクシングも、例外ではなかった。


構えた拳の間から、両の目が相手を見据えている。

目線が低い。

相手が、雄一よりも体勢を低くしているからだ。

腰を落とした前傾姿勢ーータックルを狙う構え。


動かない。


その状態のまま、互いに固まっている。

やがて、静寂が空間を満たす。


次の瞬間、相手の後ろ足が地面を蹴る。

それに続いて体全体が動き出していた。

前足を取りに行くシングルレッグ・テイクダウン。

しかし、雄一は、タイミングを完全に支配していた。

相手の初動に合わせて、骨盤ごと腰を大きく前に出すと、雄一の膝が正確に相手の顔面を捉える。

そのまま仰向けに倒れ込んだ相手の頭めがけて、踵を真っ直ぐに落とした。

スニーカーの靴底が地面を踏みしめる音が響くーーすでに相手は消えており、雄一だけが一人残されていた。


おもむろに、公園に設置されている大時計に目を向ける。

短針と長針はともに12を指していた。

深夜0時。

その場で軽く屈伸運動をすると、ベンチに置いていたタイロープを手に取り、公園の入り口に向かって歩き出す。


その時であった。


公園の入り口付近、街灯の薄灯の中に、黒く長い影が伸びている。

それが人影であると理解するのに、それほど時間はかからなかった。

そして、気付いた時にはすでに、影は動き出していた。

幽鬼のように妖しく、しかし、確かな足取りでーー

影は雄一に向かって、静かに歩みを進めていた。

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獣の空拳 藤田直巳 @NaomiFujita

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