第1話

真夏の太陽が照りつける校庭には、体育の授業を受ける生徒たちの声が響いている。

汗ばんだシャツは風に揺れ、乾く間もなくまたすぐ湿っていく。うるさいほど響く蝉の鳴き声が、この暑さを一層際立たせているようだ。

グラウンド上に引かれたコースを走る生徒たちが砂ぼこりを巻き上げ、強い日差しが照り返し、体育の授業は終わりを迎えつつある。

まもなく、授業の終わりを報せる無機質なチャイムが校庭に響いた。


高校の教室。

窓際の一番後ろの席で、1人の男子生徒が机に伏している。

目はぼんやりと開いているが、視線は定まらず、どこか宙を彷徨っているようだ。

Yシャツに汗が滲んでいる。

机には、教科書とノートが無造作に広げられていた。


眠っていた。

チャイムが鳴って、ようやく目が覚めたのだ。

いつから眠っていたのかも、わからない。

時間の感覚がない。

思考に靄がかかっている。


目立たない席であるから、教師に咎められなかったのだろうか。

もしくは、普段から眠っているから、いつものことだと気に留めなかったのかもしれない。


やがて、耳が周囲の喧騒を徐々に捉えだすと、少しずつ状況が飲み込めてきた。


池田の古文。

月曜の四限。


それが終わったのだから、今は昼休みである。


前の席では、栗色の髪の男子生徒が背筋を伸ばしたままの姿勢で席に座っている。

授業内容をまとめていたのだろうか、チャイムが鳴った後もしばらく真剣な表情でノートに向き合っていた。やがて、右手に握っていた赤いボールペンで、「助動詞」という単語を四角で囲うと、ペンをカチカチカチと三度鳴らし、布製のペンケースに放り込んだ。

そして、座っていた椅子を軽く引き、左に90度回転させると、窓の外に目を向けたまま、寝起きの生徒に声をかけた。


「見た?試合。」


明るい声。

栗色の髪の生徒は一般的に見て、整っていると言って差し支えのない容姿をしていた。

鼻が高い。

くりくりと丸い大きな目には、人に親近感を抱かせるものがある。


「試合?」


明らかに眠そうな声で、もう1人の生徒が答える。


「あれ、遅くまで試合見てたから、そんなにお疲れなのかと。」


窓の外に向けられていた視線が、後ろの席に向けられる。


「すごかったぜ、めちゃくちゃ綺麗なアッパーでさ。あれは避けらんないね。」

「やっぱり、パワーが違うんだろうなあ。」

「組みだけじゃなく打撃もできるなんて、まさに敵なしって感じ。」


前の席の生徒が一方的に捲し立てる。

目を閉じ腕を組みながら、自分で発した言葉にうんうんと頷いている。


試合というのは、昨日ニューヨークで行われたUltimate Combat League、通称UCLの興業のことである。

ミドル級絶対王者タイラー・カーソンとムサ・タガエフのタイトルマッチがメインとして組まれていた。


典型的なストライカーであるタイラーに対し、サンボをバックボーンとするムサがいかにして組むか、という試合展開が予想されていた。

今まで、タイラーは何人ものグラップラーを、打撃で退けている。ゆえに今回も、タイラーの勝利だという声は強かった。


しかし、試合は予想外の結末を迎えた。


1R、組み技を警戒するタイラーは距離を取りつつ、ジャブとローキックを中心にプレッシャーをかけ続けた。

ムサはその間もじりじりと前進を続け、タイラーのリズムを崩そうとする。


試合が決したのは、2Rの序盤であった。

打撃の隙間を縫って、ムサが一瞬タックルのモーションを見せたのだ。

反応したタイラーが腰を落としたその瞬間、束の間見えたタックルは消えていた。

代わりに繰り出されたのは、顎に向かってまっすぐ伸びた、突き上げるような左のアッパー。

次の瞬間には、タイラーは八角形のリングに沈んでいた。

意識を刈り取るかのような完璧な一撃――新たなUCLミドル級王者の誕生であった。


「お前は見たの、試合?」

「さっきね。SNSで切り抜きがバズってたよ、見てないの?」


一瞬何かを思案する表情を見せたが、問いかけに答えず、男はむっくりと立ち上がる。


「購買行こうぜ、腹減った。」

「えー、俺今日弁当なんだけど。」

「いいじゃん、ジュース買えば。」


廊下には学生達が散らばっていた。

購買に向かう者、運動場に向かう者、廊下で取りとめもない話に花を咲かせる者、おのおのが小さな流れを作っている。

2人は1-Bというプレートの掲げられた教室を出ると、そのまま連れ立って階段を降りていく。


旭光高等学院きょっこうこうとうがくいん、通称キョッコー。


池袋駅から徒歩20分、街の喧騒から少し離れた住宅街に、その私立高校は位置している。

50年の歴史を持つこの学校は、自由でのびやかな校風を特徴としており、約850人の学生が在籍している。

偏差値や規模は、平均的な公立のそれとさほど変わらない。生徒達は、格別に優秀というわけではないが、都内の私立大学を中心に進学率は高い。

部活動では美術部が有名で、展覧会では毎年必ず複数の賞を受賞するほどの腕前を持っている。

運動部は個人競技の部活でたまに全国大会に出場する者が出る以外、目立った成績を残してはいない。

取り立てて目立つところのない、一般的な進学校と言えるだろう。


各務雄一かがみゆういちは、旭光高等学院に通う一年生である。


北海道札幌市で生まれ育った雄一は、高校入学と同時に上京し一人暮らしを始めた。

誰に薦められるわけでもなく、雄一は父の通っていた高校への進学を選んだ。

新天地での生活はゼロからのスタートとなる。しかし、若いうちに、より都会へと出て見識を広げるという意味でも、両親は反対しなかった。

かくして雄一は、学費と家賃は実家に頼り、その他の費用はバイトで稼ぎつつ、東京での学生生活を送ることになった。


「でもさあ、お前なら勝てるんじゃね?」


弁当に入っていたアスパラのベーコン巻きを口に放り込みながら、栗色の髪の生徒ーー二階堂忍にかいどうしのぶは尋ねた。


「ピストルを使えばね。」


購買で買った焼きそばパンを片手に、雄一はそっけなく答える。


「いや、そりゃあそうかもしれないけどさあ…」

「そもそも俺はキック、あっちは総合だろ。競技が違う。」

「うーん、じゃあ…」


二階堂は一瞬残念そうな表情を浮かべたが、すぐに明るい表情に戻り言葉を続ける。


「なんでもありのノールールだったら?」

「だから言ったろ、ピストル使えば勝てるよ。」

「もう格闘技じゃないじゃないか。」

「ノールールだから。」


雄一と二階堂は席が前後ということもあり、入学以来何かと話す機会が多かった。

東京生まれ東京育ちのお坊ちゃん、裕福な家庭で何不自由なくのびのびと育ったーーこの優しい性格の人懐っこい男は、言動の端々から育ちの良さが滲んでいた。

雄一とはお互い特に共通点が多いわけでも、趣味が合うというわけでもないが、いつの間にか行動を共にすることが多くなっていた。

なんとなく気が合うーー

もしかしたら、友人とは往々にして、そういうものなのかもしれない。


「そういえば」


二階堂がふと思い出したように口を開いた。


「格闘家狩りの話なんだけどさ。」

「…」


その単語が耳に届いた瞬間、雄一のまぶたがぴくりと、わずかに動いた。本人も意識していなかったが、その動きは本能的な反応だった。一瞬であったが、その言葉――「格闘家狩り」――に、体が無意識に反応していたのだ。

心臓の鼓動が少しだけ早くなる。

怒り、屈辱、焦燥感、失望…体の奥底から、ごちゃ混ぜになった、形容し難く不快な感覚が浮上しようとしていた。


今年の春頃から、国内の著名な格闘家への襲撃が相次いでいる。

柔道の三好慎介、ボクシングの佐山祐也、キックボクシングの林拳吾…。

いずれも国内外で活躍する一流の格闘家たちだ。

そんな彼らが、喧嘩で負けた――そう噂されていた。

そして犯人は、いつしか「格闘家狩り」と、そう呼ばれるようになった。


「SFAの武藤、実はあの人もやられたんじゃないかって。」


試合の1週間前、武藤健志は練習中の怪我ーー右膝の前十字靭帯損傷を公表し、組まれていたタイトルマッチは中止となった。

その出来事は4月のことだったが、もしこれが本当に「格闘家狩り」の仕業だとすれば、武藤はその最初のターゲットだった可能性もある。


実際に、襲撃を受けたと公表している格闘家はいない。

武藤がそうであったように、一様に練習中の怪我として処理されている。

格闘家としてのプライドがそうさせたのか、それともスポンサーに影響が出ることや、今後のキャリアに傷がつくことを恐れたのか、正確な理由はわからない。


そもそも、本当に「格闘家狩り」が実在するのか、実在したとして、全て同一人物の仕業なのか、確かなことは何もわかっていないのだ。


ただ、噂として肥大化していく「格闘家狩り」は、もはや格闘技業界の枠を超えて広がっていた。

今では一般の人々の耳にも届き、ちょっとした話題として取り沙汰されるほどにまでなっている。


購買で買ったペットボトルのコーラを一口飲むと、雄一はぼんやりと校庭を眺めた。

二階堂は、その後も楽しげに別の話題を振っているが、雄一の頭の片隅には、さっきの「格闘家狩り」という言葉がこびりついて離れない。

一つの単語が確かな質量を伴って、頭の中で反響する。


「どうした?今日はいつにも増してぼーっとしてんね。」

「大丈夫、なんでもない。」


そう返したものの、雄一はその単語を再び噛み締めていた。

何もできなかったあの日の自分、そして今も心の奥で燻る感覚…。


再び一口、コーラの冷たさが喉を通り過ぎる。しかし弾けるような炭酸でさえも、ついに雄一の気持ちを晴らすことは叶わなかった。

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獣の空拳 藤田直巳 @NaomiFujita

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