獣の空拳

藤田直巳

序章

大きな背中が、一定のリズムで上下している。

広がった広背筋、横に張り出した三角筋、盛り上がった僧帽筋。ひとつひとつの筋肉が、この男の強さを静かに、しかし雄弁に物語っている。


ロードワーク。

走ることで体力や脚力を養うトレーニングの一つだ。練習前のアップとして取り入れている格闘家も多い。

ほとんど街灯のない夜道、この男の他に人影はない。


やがて前方に鳥居が浮かんでくると、男は変わらぬペースでそれをくぐり、足を止めることなく、長い石段を一歩一歩登っていく。

その足取りは、この男の巨体からは想像もできないほど軽やかである。

やがて、最後の一段を踏み越えた男は開けた境内へと足を踏み入れ、そのまま足を止めた。


もともと往来の少ないこの神社は、日中でも参拝客は数えるほどしかいない。

近所の人が年末年始などの折に、時々参拝に来る程度である。

境内に立つ古びた社殿は、長い年月を感じさせる。木造の柱や屋根は老朽化が進み、苔が生え、雨風にさらされて色あせている。汚れた賽銭箱もどこか忘れ去られたような印象を与える。

静まり返った境内で聞こえるのは、虫の声と木々の葉が風に揺られて擦れ合う音のみである。

静寂が支配するその空間で、男は夜の空気を感じていた。

春の冷たい夜風が、熱を帯びた体を優しく冷ます。


背中の大きな男――武藤健志むとうけんし――は、試合が近くなると、この神社を訪れることがルーティンとなっていた。

だが、武藤がこの神社で祈りを捧げたことは一度もなかった。

ただ一つのルーティンとして、高ぶる気持ちを鎮め精神を落ち着かせるために、ここに来る。

武藤は、神の存在を信じてはいない。

しかし、この場所には神秘的な、心を落ち着かせる何かがある。

それはひとえに、この神社の静謐さがもたらすものであるかもしれなかった。


ついにここまできた。

格闘技で頂点を極めるために東京に出てきてから、1日たりともトレーニングを怠ったことはない。

ベルトはもう目の前にある。

勝てる。

並み居る強豪を退け、ついにここまできたのだ。

勝つ。

武藤は確信していた。


武藤の所属するSHOGUN FIGHTING ARENAは、国内最大の総合格闘技団体である。

通称SFAと呼ばれるこの日本発の団体は、発足以来、国内外問わず有力な選手を集め、特に重量級にも力を入れていることで知られている。

日本人選手が少ないヘビー級においても、世界トップクラスの選手を招聘し、見応えのあるハイレベルな試合を提供してきた。

SFAは、その躍動感あふれる試合や国際的な選手層で、日本の格闘技ブームを牽引してきた存在でもある。

そのため、SFAのチャンピオンベルトは、国内のみならず、世界的に高い価値を持つとされている。

ここでチャンピオンとなることは、ただのタイトル獲得にとどまらず、日本格闘技界の頂点に立つことを意味していた。


日本で最強になること、これこそが武藤の当面の目標であった。

学生時代、ボクシングでインターハイに出場した武藤は高校卒業後、ボクシングの道を選ばず、総合格闘技の世界に飛び込んだ。

武藤は、総合格闘技こそが最強の格闘技であると確信していた。

そしてその中でも、最も大きな団体のチャンピオンこそが、最強と名乗るにふさわしいと信じていたのだ。

SFAヘビー級王座を取った後は、さらなる強さを求めて、アメリカへ渡ることも考えている。

無論、次なる目標は、世界最強の座である。


彼は確信していた。自らの拳、体、そして精神――そのすべてが、勝つために磨き上げられてきたのだと。

6年前、初めて東京に出てきた時、彼はまだ無名の存在だった。

しかし今は違う。

彼の名前はSFAのリングで轟き、その強さを疑うものは誰もいない。

そして何よりも――彼自身が、自分の強さを信じていた。


「最強は、俺だ。」


その時だった。

静かな境内に、微かに響く足音がした。

誰かが石段を上がってくる。


ただでさえ参拝客の少ないこの神社である、今の時間であれば、誰かがここに来ることなどまずありえない。

武藤は息を止め、その音に耳を澄ます。

石段を踏む靴音――スニーカーだろうか、軽やかだが確かな音が、静寂を満たしていく。


闇の中から浮かび上がるように、巨大なシルエットが姿を現した。

男だ。

一人の男が石段を登ってきたのである。

石段を登り切ると、男はまるで自分の庭を歩くかのように、悠然とした足取りで歩を進める。

そしてそのまま、武藤から5mほど離れたところで立ち止まった。


肉の厚みが尋常ではない。

全体的にごろりとした印象の肉体はしかし、肥満などではなく、鍛え上げられていることは一目瞭然である。

武藤に引けを取らないどころか、188cmの武藤よりも一回りほど大きく見える。

異常なまでの存在感が、まるで空気そのものを圧迫しているようであった。


「武藤健志だな。」

「…」

「俺と立ち合え。」


武藤は応えない。

男もそれ以上は言葉を発さず、武藤を見据えている。


「俺のこと知ってて、喧嘩売ろうってのかい。」

次に口を開いたのは武藤であった。


「アーロン・ジョーンズとのヘビー級タイトルマッチを控えている。多分、あんたが勝つだろうな。」


「じゃあわかるだろ。お前みたいなわけのわからんやつと、喧嘩してる場合じゃないんだよ。」


「でも、俺が今あんたに襲い掛かったら、あんた闘わざるをえない。」

「あんたに選択肢はないんじゃないかな。」


男の言う通りであった。

武藤は、男の接近を許しすぎた。

石段を降りるには、男の横を抜けていく必要がある。

今はまだ互いに間合いの外であるが、互いに一歩踏み込めば、それはもう蹴りの間合いになる。

もし背中を見せて走れば、後ろから攻撃を受ける。

無傷でこの状況を切り抜ける方法は、存在しない。

闘う以外には。


「それに」

男が口を開く。

「あんたはこっち側の人間だ。」


お互い、それ以上何も言わなかった。


緊張の糸が次第に張り詰めていく。

2人の周囲でぱんぱんに膨らんだ空気は、ほんの少しの衝撃で破裂してしまいそうである。

武藤の耳には、自分の体を流れる血の音しか聞こえていなかった。


刹那、男の巨体が、武藤目掛けて浮かび上がった――右の跳び膝蹴り。

武藤はすかさず右へとステップを踏み、男の膝をわずかに回り込むようにしてかわす。距離を取らず、着地に合わせて武藤はパンチを繰り出す。

「しっ」

ジャブ・ストレート・ジャブ・ストレート・ジャブ・ジャブ・ストレート・フック・アッパー・ジャブ・ストレート・ストレート・フック…

一発一発が重い。

空気を切り裂く音が聞こえる。

完成された打撃。


絶え間なく迫りくる武藤の拳を、男は落ち着いた様子で捌いてゆく。ダッキングで身を沈めることで、パーリングを用いることで、時には腕でブロックすることで。極めて冷静に、流れ作業のようにいなされ、武藤の拳は届かない。まるで拳の影すら捉えられないかのように。

武藤は自らのボクシングテクニックに自信を持っていた。学生時代にはボクシングでインターハイ出場経験もある。その技術は、総合格闘技の試合でもおおきな武器となっていた。

その拳が、面白いほどまるで届かない。


しかし武藤は止まらない。反撃を許さず、ひたすらに拳を出していく。

「しぃっ」

ジャブ・ジャブ・フック・アッパー・ストレート・フック・アッパー・ジャブ・ストレート・アッパー・アッパー・ストレート…

武藤の動きはさらに鋭さを増し、また、速度も速くなっているようである。

そして、やがて訪れたその瞬間を、武藤は見逃さなかった。男の重心がわずかに移動し、後ろに下がって距離を取ろうとするその瞬間を。


「じゃっ」

男の動きに合わせて、武藤が左腕を伸ばし視界を遮ると、次の瞬間には左脚が跳ね上がる。

左ハイキック――武藤の体重から放たれた蹴りが頭に直撃した場合、その一撃だけで戦いは終わるだろう。最悪、命を落としてもおかしくはない。

武藤の真の狙いはこのハイキックであった。


しかし、その一撃が男に届くことはなかった。

先程までそこにあった男の頭は、すでにそこにはなく、放たれた左脚を空を切っていた。

男もまた、武藤と同じように、この瞬間を狙っていたのである。もしかしたら、男の方こそがこの状況をコントロールしているのかもしれなかった。


次の瞬間、武藤は背後から強烈に地面へと叩きつけられた。

武藤が蹴りを放った瞬間、男は体勢を極端に低くして両手を地面につけると、そのまま両足で武藤の軸足を絡め取った。

蟹挟み――武藤の巨体が地面に転がると、男は即座に足首を抱えてねじり上げた。


「ごぎょっ」


ぞっとするような音が、骨の中で反響する。

格闘家であっても、そう何度も耳にすることのない音。

靭帯の損傷する音。


激痛が足元から響く。

武藤は一呼吸で空気を吸い込むと、次の瞬間には肺をからっぽにする勢いで吐き出す。

「があああああああっ」

耐え難い激痛。


男はすでに技を解いて立ち上がっていた。

武藤を見下ろすその目は冷たく、何の感情も読み取ることができない。

やがて、武藤がもう立ち上がれないとわかると、男は無言で背を向けた。

「待てっ」

武藤の呼びかけには応えず、そのまま闇の中へと静かに姿を消していく。

その背中を、武藤は見送ることしかできなかった。

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