第32話

 たった一つで良かった。

 何もない人生で何か一つだけ成し遂げられればそれでいい。それこそが強欲であり、本望だった。

 その一つを奪われた今、僕の欲求は北条氏政が抱える天下への欲望、生への欲望と同等になった。いや、どっちの欲求が上かなんて分からないし、どうでもいい。負ける気がしないという気概だけで十分だ。


「一時の盲目で己が命を無駄にするとは下らないな……小僧」


 ふと、足元の砂利に黒く焦げた見覚えのあるブレスレッドが落ちていることに気が付いた。

 僕は何も考えず、本能に従ってブレスレッドを拾い上げて右の手首に装着する。

 あの時、彼女の誕生日を理由に僕から送った唯一の物だ。今になってもっと良いものを上げれば良かった、とか、もっと気の利いた言葉を送ってあげればよかったと、後悔が胸に満ちる。


「まぁいい、タマホウシになったなら話は別だ。ここで死ね、上ヶ丘」


 北条氏政はこれまでとは日にならない憎悪を剥き出しにて再生した右腕で再度手刀を生成した。

 互いの呼吸が重なった瞬間、同じ足前に出し、同じ腕を振り上げ、互いの斬撃が衝突した。

 火花が散るように僕の脳裏に存在しない記憶が駆け巡った。

 泥臭い戦の光景、共に勝鬨を上げた友が伏せていく惨状、誰を憎めばいいか分からないまま、自分が栄華を誇った時代が暴力によって終わりを告げていく。

 行き場のない悔しさや無念は荒れ狂う獣となって移ろう時代に陰る。

 生きているのが辛くなるほどの憎しみの業火が胸を焼き尽くしていた。


「――下らねぇ!」「――下らん!」


 互いに互いの欲求なんて理解なんてできない。

 ここにいるのは共感性に乏しい貪欲な獣が二匹。

 己が欲求のために争う、原始的で低俗で最低な戦争なのだ。


「女を求めて何になる! ただ愚かな肉欲を果たすためにわが覇道へ阻まんとするか! 一時の人生で終わる無意味な人間ごときが!」


「あの子のいない世界がどれだけ続いたって僕にとっちゃ意味なんて微塵もない! あの子がそうだったように! あの子がそうしてくれたように!」


 彼の手刀と打ち合うたび、満たされることのない欲求が抑圧され、自分の中で大きく膨らんでいくのを感じる。


 より強く、より速く、より鋭く。五感が研ぎ澄まされていく。


 だが、それは北条氏政も同じこと。僕が求め、阻む度に彼の征服欲、いや、生存欲求が膨れ上がっていく。

 辺りの景色が目まぐるしく変化していく。


 辺りに残存していた微かな色が滲むように視界の外側へと広がっていき、強烈な空気の壁が僕の動きを制限しようとする。

 だが、一心不乱に風を追い抜いて北条氏政を切り捨てることだけを考えた。


「ははははっ! 下らん! 実に滑稽だ! お前が命を持って求め続けるそれを俺は永遠に否定し続けよう! お前が無駄だったと折れる瞬間を心待ちにしていよう!」


 途方のない旅になるかもしれない。

 この世の果てで全てを見た後でも、僕の空いた胸が満たされることは無いのかもしれない。


「俺を斃したところで楓彩が帰ることはないとなぜ理解できん! 不毛だ!」

「元々無意味なら進価値はある! お前が教えてくれたことだろ!」


 だからこそ僕は進み続ける。この先に何があるかなんてどうでもいい。全身の血液が煮え立つような辛い戦いが小さな一歩だとしても、僕の欲求は止まらない。

 この欲求こそが、あの子が、鬼月楓彩がくれた僕の半分なのだから。

 進み続ける。


 より速く。速く。速く。もっと速く。何よりも速く。


「―――」


 振り下ろした渾身の一振りが北条氏政の左肩から右わき腹へ抜け、小田原城内の地面へと叩伏せた。


 僕は小田原の街を俯瞰していた。


 自分が今どういう状態にあるのか、全身を支配する高揚感が阻害して良く分からない。

 ただ、哀れな男は化け物を見るような目付きで僕を睨み上げている。

 風が心地いい。

 頭上の空はまるで夕焼け空に穴が空いたように星空が広がっていた。


「あぁ……そういうことか」


 意図せず腹が減る。意図せず眠くなる。心のどこかで人とのつながりを求める。

 僕も北条氏政と同じように、ただ欲求に支配され動くただの人間だったのかもしれない。

 ただ、彼女に会うために進み続けた。この欲求を果たすために大地を割り、空を裂いた。

 今なら、彼女に会うために何をどうすればいいか分かる。不思議なほど単純で明確だった。

 心の至る所からただ「進め」と本能の声が聞こえる。


「もっと……もっと……もっと……」


 国王丸を宇宙そら高く掲げる。

 ふと、僕の両肩に誰かの手が触れていることに気がついた。


「……あ」

『ただ一点を見極めろ』


 左肩に触れる男の名を僕は知っていた。


「隼人……さん?」


 だが、右肩に触れる優しい手を僕は知らなかった。だけどどこか胸が温かくなるような、安心するような心地よさがあった。


『お願い、私たちのの願いを……』


 願うような、心の籠った言葉が震える国王丸の切っ先を止める。

 誰かを慈しみ、自分の命なんて擲ってでも守りたい小さな物を守るような、僕なんかよりもずっと強く、儚い欲求だ。

 顔も声も知らない強い女性だ。だけど、目指す場所は同じらしい。


「隼人さん、僕をあの子の彼氏として認めてくれますか?」

『……』


 隼人さんは僕の問いに答えてくれなかった。


『多分大丈夫だと思うよ? 隼人は素直じゃないけど、君はあの子が、楓彩が出会ったどんな人よりも真っ直ぐで素敵な人だから……私は君たちの恋を全力で応援します』


 なぜだろう。

 嬉しくて口角が上がってしまうのに、目から零れ出る涙が抑えられない。

 許されただけなのに、進む僕の背中を押してもらっただけなのに、これまで感じてきた希望なんて全部ちっぽけだと思えるくらいの希望を見た気がした。


『行け、上ヶ丘瑛太』

『お願いします、上ヶ丘瑛太さん――』


「―――はい!」


 空気を蹴り出して不敵な笑みを浮かべる北条氏政を目指す。

 迫りくる夕焼けの小田原の街。

 懐かしい思い出が車窓のように左右を流れていく。

 空き教室で泣き出しそうな君の顔が胸に突き刺さる。

 自信ありげに酷い料理を持たせてくれた君の笑顔が愛おしい。

 夜に囁く君の声がまた聞きたい。

 今度は君の傷も背負ってきた物も全部受け入れたい。


 だから―――。


「――――――――――――――――」


 背後から暗闇が迫り、辺りの景色が北条氏政を中心に集中していく。

 肌が裂けそうだ。意識以外のすべてが置き去りになりそうになりながらも、一点を目指す。


 もっと、もっとだ。


 前方が青白く輝き、背後からは赤い光輪が追いかけてくる。


 もっと、もっと、もっと……。


 奴が死の気配を感じるよりも速く。

 空気を裂いた。

 空間を裂いた。

 時間を裂いた。

 北条氏政はまだ遠い。まるで時が止まっているかのように僕の体は進んでいない。物理法則が僕を阻んでいる。


 まだ足りない。

 まだ届かない。


 喉が裂けんばかりの雄叫びを上げても音が遅すぎて何も聞こえない。


 もっと速く。光よりも速く―――。


 視界のすべてが黒くなっていく中、目指すべき場所は光となって僕を導いてくれた。

 型なんて知らない、素人の一閃。

 ただ力任せに振り抜いた国王丸は何かを叫ぶ北条氏政の腹を捉えていた。


「こんなところで死ねるかああああああ――――」


 内臓が飛び出そうになるほど声を張り上げて、国王丸をもっと先へ、僕が目指す場所へ押し込む。


「退ぉけええええ――――」


 前に進む。

 国王丸を振り抜き、僕は前に進んだ。



「―――え」


 まるで何かクッションの様な物で動きを止められたかのような不思議な感覚を前に、僕の足と思考は停止した。

 何もない白い空間。

 見渡す限りの地平線。いや水平線だ。

 僕の足元にはどこからか波が押し寄せていた。


「……死んだ?」


 身体の感覚は全ていつも通りに戻っている。

 受けた傷も潰れた喉や耳も全て何事も無かったかのように治っていた。

 死んだ経験が無いから、真偽は不確かだが、これがあの世なら殺風景にも程がある。何より、僕の心はまだ鬼月さんを求めている。


「死んでねぇよ、バカ」

「――っ!」

「ったく、どんな無茶だよ」


 白衣を着た伊勢真、いや北条氏政が僕の背後に立っていた。

 咄嗟に国王丸を構えようとするが、僕の手元には何もなく、いつの間にか丸腰にされていた。


「もうやり合う気は無い。俺の負けだ」

「え」

「着いてこい……話しながら歩こう」

「何を」

「なにって……これまでとこれからの話だ」

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