第29話

『私の名は国王丸だ……上ヶ丘瑛太、君に見せるものがある』

「見せるもの?」


 国王丸と名乗る男は僕の背後を指さした。

 振り返ると、夜色の景色にスクリーンのような柔らかい白色が浮かび上がった。

 次第に光は僕を包み込み、視界の中に様々な色がネオンのように滲んでいく。


『私が見てきた鬼月楓彩を君にも共有したい』

「……何のために」

『あの子のために』


 意味なんて無い。僕は鬼月さんを見てきた。

 それでも僕の空っぽな心は音一つ鳴らさなかったのだ。

 僕が目を伏せたにもかかわらず、国王丸は背中に手を置いてきた。

 すると、僕の意思とは裏腹に、意識がぼんやりとしてくる。妙に眠い。

 全身を温かい毛布でくるまれているような心地の良い感覚だ。



 懐かしい匂い、懐かしい空気、懐かしい静寂が辺りを包み込む。

 僕が性欲と共に失った、忘れてしまった記憶。

 小学校二年生の夏休み。僕は友達と一緒に小田原市内の市民図書館に訪れていた。

 課題図書をぼんやりと差がいている僕の耳に微かな泣き声が聞こえたのだ。

 身に余る絵本を胸に抱えて涙しながら本棚の迷路を歩く少女が世界で一番かわいそうな女子に見えた。

 頭の奥底へ消えていた記憶が、なぜか昨日のことのように思い出せる。

 少女と出会った本棚の番号も、少女が持っていた絵本も、少女がどんな表情だったのかも。


「お母さぁん……ひっく……」


 なぜこの顔を忘れてしまったのだろう。


「一緒にお母さん探してあげるから―――」


 そう、思い出した。

 僕はあの夏、鬼月さんの左手を握って、一つの呪いをかけたのだ。


「――だからもう、泣かないで……約束できる?」


 ただの気休めのつもりだった。他愛のない子供のおまじないだった。


『でも、楓彩にとって、君の優しさは大きな希望になった……この世界には良い事がある。不安で仕方なく、泣くことしか出来なかった小さな命だった彼女を、君の小さな言葉が救った』


 結局、この後すぐに母親が見つかって、僕と鬼月さんは名乗り合う間もなく分かれてしまった。一時間にも満たない一夏の思い出だ。

 たった一回のキスで僕は大切な物を失っていた。



 血の匂いがする。

 まるで地獄のような赤色が庭園を濡らしていた。

 右を見ても左を見ても、死、死、死―――。

 僕と国王丸は飛び石を踏んで林の中に入り、庭園の奥底にある東屋に訪れた。


「か……楓彩……!」


 東屋の外壁に、血塗れになった幼い鬼月さんがもたれ掛るように座っていた。


「娘の命が惜しいか! 鬼月の化け物がぁ!」


 鬼月さんの声で内なる怪物が声を上げる。

 隼人さんの手に握られた国王丸は小刻みに震え、隼人さんの表情にも迷いや焦り、怒りが滲み出ていた。

 一太刀でこの地獄が終わる。

 自分の娘を殺めればこの連鎖も途切れる。隼人さんが一番良く分かっていることだろう。


「こんな半血の出来損ないを生かしたところで、再び我が同胞が喰らいつくすであろう……! 一思いにこのガキを殺せ!」


 隼人さんは一向に刀を持ち上げない。僕の知る容赦の無さが、覚悟が、今の彼には無かったのだろう。

 だが、


「……おと……さん」


 鬼月さんの今にも消えそうな声が父に顔を上げさせた。


「私……泣かない……よ?」

「くそっ! なんだこのガキ! 身体が……奪われ……!」


 ゆっくりと、左腕が隼人さんの方へ伸びていく。


「……だから……お願い……!」


 死臭が満ちる戦場。

 不毛な場へ滴り落ちたたった一つの願いだった。

 男は、とても小さな願いを叶えるために、愛する我が子の左腕を切り落とした。


『ただ、君への思いだけで、強力なタマホウシの力を左腕に押し込んだ……彼女の精神力はこれまでの鬼月家には無かった……』

 


 時が経ち、鬼月さんは高校生になった。

 姿鏡の前で、身だしなみを整え、不安に満ちながらも笑顔の仮面で隠す。


「楓彩、制服似合っているじゃないか」

「真さん……私……瑛太さんに嫌われないですかね」

「お前次第だ。頑張れよ」


 ところが、クラスの中で飛び交っているのは鬼月さんに対する奇怪な視線。


 ――なんであの子、左手無いの?


 高校生活に対する不安は残酷にも現実となり、鬼月さんはクラスの中でも浮いた存在となってしまった。


 ――やっぱり、変だよね。


 彼女の心の声がポツリと僕の中へ降ってくる。

 不安が波のように鬼月さんの小さな胸の中を乱した。


 ――瑛太さんはどう思うかな……。

 ――私の事……覚えてくれているかな……。

 ――でも、きっと変って思われるよね。


 鬼月さんの不安が雨のように降り始める。

 同じような不安が何度も何度も鬼月さんの中で回り続け、次第に大きくなっていく。


「楓彩、上ヶ丘なんだが……」


 悲報は舞い込んだ。

 ある日の夕方、鬼月さんは必死になって三階の空き教室を目指した。

 心の中で何度も何度も僕の名前を叫びながら。


「――瑛太さ――」


 ドアを開け、目の前に広がっていた残酷な光景に、鬼月さんの中で何かが音を立てて割れた。

 ずっと目標にしていた。ずっと憧れていた。ずっとその人の事だけを考えていた。

 胸を裂かれるような、辛い感情が鬼月さんの幼くも無邪気だった心を押しつぶした。

 彼女の気も知らない男は、先輩女子とのキスに恍惚とし、心を壊された幼気な少女に気づく気配もない。

 少女は哀しみの逃がし方を知っていた。だが、悲しみの消し方は知らない。胸に深く突き刺さった棘を抜かないまま、ただ怒りを露わに敵を討つ。

 律する。


 ――私が戦うのはあなたのためだから……。


「上ヶ丘瑛太さんですよね―――」


 ――例えあなたが覚えてくれていなくても、私はあなたに救われたから。

 ――何もない人生かもしれない。

 ――だけど、あなたさえいてくれたら、私はどんな敵とも戦える。

 ――あなたさえいてくれたら、私は絶対に泣かない。



 私は凄く悪い子だ。

 瑛太さんと離れたくないからって、変な理由で家に留めて。

 でも、瑛太さんの顔を見るたび、心が弾んで、どうしようもなく好きになっちゃって……行けないことだってわかってるのに。


 初めて信じてるって言われた時は夜も眠れなかった。


 不本意だけど私の本音が伝わった時、心臓が破裂しそうだった。


 瑛太さんに裸を見られて、恥ずかしかったけど、瑛太さんは何も反応しなかった。

 やっぱり魅力が無いんだなぁ……。でも瑛太さんがこんな醜い身体で興奮するような変態さんじゃなくてよかったです。


 それでも、瑛太さんのことが大好き。


 瑛太さんと初めて繋いだ左手が無くなっても、瑛太さんが私のことを覚えてくれていなくても、瑛太さんが私のことを嫌いになっても……あなたに助けられたこの心は消えないから。


 だから……。


「――私があなたを助け出して見せます」

 


 夜空を映す水面に一滴、また一滴と僕の目から涙が滴り落ちていく。


『あの子はずっと泣くのを我慢していた。母の死を受け入れた時も、恋い慕う男に拒絶されても、死に際の恐怖が襲ってきても……』


 息が苦しい。


『あの子は君との約束を守ったんだ』

「僕は……! あの子に、何もしてあげられない……! 僕は性欲を失って、全部そのせいだと思ってた……! だげど! 怖っただけなんだ! あの子を認めることが! あの子を受け入れて、あの子が背負ってきたものを見ることが!」


 どうしようもなくダメで、情けなくて、弱い男だ。


「ごめん……ごめん、鬼月さん……!」

『まだ……まだ遅くない』

「……遅いよ……だって鬼月さんはもう居ないじゃないか!」

『君は後悔をしている。後悔は時に最も強い欲求になる……君に中身があるなら、私は力を貸そう……』


 顔を上げて、国王丸を見る。


『上ヶ丘瑛太、君は何を求む』

「僕は……」


 何でもできるなら。もし神がいて僕の後悔を取り戻させてくれるのであれば。

 都合が良すぎるかもしれない。だけど、何も望まなかった、のうのうと生きていた僕が何か一つだけ望めるのだとしたら。


「僕は……鬼月さんに、会いたい」


 死ねない。いや、終われない。


「鬼月さんに会って、答えなきゃいけない事があるんだ……!」


『いい答えだ』

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