第27話


 鬼月さんの料理は吐き気がするほど嫌いだ。

 鬼月さんがいようと、夜はゆっくり眠れない。

 鬼月さんの裸はエロいより心配が勝つ。

 鬼月さんじゃ何も感じない。何も満たされない。

 きっと僕が壊れているせいだと思う。いや、彼女にも理由はある。半々だろう。


「……はぁ」


 僕はリビングの入り口で固まったままどのくらいの時間を無駄にしたのだろう。

 いや、時間が無駄になっているかどうかは分からない。どうすればいいのか分からない今は時間の価値なんて分からない。

 何をしているのだろう。何をしてしまったのだろう。

 鬼月さんがいなくなった部屋の中は酷く広く感じた。

 片づけられていないカップ麺の容器も、脱ぎ捨てられたYシャツとキャミソールも彼女がいたという根席に変わりが無いのに、なぜこうも存在感が無いのだろうか。


「呆れた……」


 頑張って人であろうとした。

 カナメに吐いた暴言の後悔から僕が僕でなくなるのを必死になって取り繕っていた。

 なのに僕は心の底から鬼月さんに対して興味を抱いていなかったのだ。

 短絡的で、鬼月さんの気持ちなんて一切考えなかった。

 そりゃあ……嫌われるよな。

 何も答えなかったのだから。

 鬼月さんがあれほど真っ直ぐ気持ちを伝えてきたのに、僕は何も答えなかったのだから。

 とんだクズ野郎だ。

 僕が鬼月さんの隣にいる資格なんて無い。誰かと一緒にいる資格も無い。

 ソファに座って項垂れる。

 何もする気になれない。

 何もかもどうでも良くなった。

 今から追いかけたところで鬼月さんは許してくれない。

 雨の音が僕を囲う。

 出てくるな。ずっと死ぬまでそうしてろ、と。

 全身から力が抜けていく。

 どうせ立つ意味もないから気にもならない。


 ――それじゃダメだ。


 僕の中で知らない誰かが声を上げた。

 胸の淵から叩き上げるように煩わしい声が胸の中に響く。


 ――諦めるのか。


 うるさい。

 諦めるも何も、僕は初めから何も努力していない。

 ここまで運が良かっただけだ。鬼月さんがいなくなって終わるなら、僕は受け入れる気だ。


 ――何物にも慣れないまま、ただの無機物として死ぬ気か。


 元から何者でもない。ただの人間だ。生まれてから何の功績も望まず時が流れるまま死に向かうただの人間だ。

 生きたいとすら願わない、中身の無い肉の塊だ。


 ――あの子にとっての願いはお前だろ。


「……っ」


 ――こんなところで人間を辞める気か。


 僕は果たして人間なのか。

 まだ……人間なのだろうか。

 暗いテレビの画面に反射している自分は人の形をしていた。


「僕は……」


 中身なんて無いのに、なぜ胸が熱くなるのだろう。

 生きる意味なんて無いのに心臓が激しく脈打つのはなぜなのだろう。


「……行かなきゃ」


 膝に力を込めてゆっくりと立ち上がる。まるで他人の身体を持ち上げているかのように重く感じた。

 一歩ずつと踏み込む意味を脳裏に過らせながら玄関へと向かう。

 決して自分から動いているわけでは無い。ただこうした方が良いという冷淡な思考にけん引されて家の外に出た。

 視界が悪化するほどの大雨の中、誰一人として傘を差していない。

 タマホウシと化した人間が闊歩する中、どの個体も僕へ一瞥を寄越すも教務を示さなかった。

 どうやら仲間だと思われているらしい。

 だが、数いるタマホウシの中には地面に横たわって動かなくなっている個体もいた。


「……」


 身体を切り刻まれ、完全に死んでしまっている。

 タマホウシの亡骸は未知のように連なっており、彼女が通った痕跡が丸わかりだった。

 動いているかいないかの違いだけで、僕や歩き回っているタマホウシと大差ない。

 目印を拾うように雨の中を進んでいくと、先の戦闘で廃墟になった傍ら、小田原のシンボルである小田原城がそびえ立つ小田原城址公園にたどり着く。


「っ!」


 僕が敷地内に一歩踏み入れると、突風が僕の体を乱暴に押し戻す。

 次いで、バスケットボール大の岩が弾丸のように降りそそいだ。

 脳裏に超人同士が戦う光景が過る。

 岩が地面に敷き詰められた砂利を弾き飛ばし、鋭く僕の頬を掠めていく。

 痛い。

 怖い。

 生きたくはないけど、死ぬのは怖い。

 何で僕はこんな気持ちで足を踏み入れてしまったのだろう。

 一歩下がり、もう一歩下がろうとしたその時、粉塵の向こうに見えた光景が僕の足を縫い留めた。


「……あ」


 土と雨で汚れたボロ雑巾が砂利に赤色を滲ませていく。


「鬼……月さん?」

「……あ……っ……」


 微かに掠れた吐息が聞こえた。

 ズタズタになった隻腕の体が動き、ゆっくりと持ち上がる。

 身体の各所から大量の血液が砂利の上にばら撒かれ、赤い絨毯が広がっていく。


「かはっ……う……く……」


 刀を杖代わりに立ち上がった鬼月さんの体は少しでも風が吹けば倒れてしまいそうな程フラフラだった。


「いやーすまんすまん、最近どうも鼻の調子が悪くて……くしゃみが止まらないんだよ」


 砂塵の向こうから姿を現したのは、半身の骨格を剥き出しにしたタマホウシ、伊勢真だった。

 不思議と圧は少なかった。

 話し方のせいなのか、僕が知る伊勢真の表情が脳裏に焼き付いているせいなのかは判然としない。


「お、まだまだ立っているな?」


 伊勢真は鬼月さんを見て嘲笑を浮かべる。


「くしゃみで死んだら笑い種だ……んーー? 上ヶ丘も来ていたのか」


 伊勢真の言葉に、鬼月さんは目を見開いて僕の方へ振り返ってくる。


「あ……え……いた……さん」


 改めて見えた鬼月さんの顔に息が詰まった。

 顔の上半分が鮮血に染まっており、幼げな顔は見る影もなかった。


「なんで……来ちゃうかなぁ……ゴホっ」


 この状況で鬼月さんが浮かべた笑顔はとてつもなく空虚だった。


「なんだよ、楓彩……大好きな上ヶ丘が駆けつけてくれたんだぞ? もっと嬉しそうにしたらどうだ? あぁ?」


 鬼月さんは笑顔を仕舞いこんで、伊勢真の方へ視線を向けた。


「……ん? あぁそうかそうか、振られたのか……そりゃ残念だ。小さい時からずーっと応援していたんだがなぁ……ぶはっ! やっと失恋したかぁ!」


 伊勢真は大口を開けて人間とは思えない邪悪な笑い声を響かせた。


「いやー長かったなぁ! 蜘蛛を必死に掴もうと片腕をバタつかせるお前の姿は実に愉快だったよ! ……実のところな? 俺は楓彩を殺すのは惜しいと思っていたんだ。お前みたいな道化はこの先も必要になる。どうだ? 俺と一緒に永遠に生きてみないか? これからも傍で俺を楽しませてくれ!」


 鬼月さんは「お断りです」と言わんばかりに刀を上段へ構える。だが、その切っ先は震えており、重心も定まっていない。


「……そうか、俺も振られたか」


 伊勢真は一瞬だけ落胆したような表情を浮かべるとすぐに笑顔に戻る。


「じゃあ、最後にもう少しだけ遊ばせてもらおうかな」


 嫌な声が耳を舐めるように纏わりつく。


「なぁ、上ヶ丘……鬼月家を滅ぼした本当の犯人、知っているか?」

「……え」


 本当の犯人……鬼月家が衰退したのは鬼月隼人が犯人だと本人が自白している。

 だが、伊勢真の笑みを見る限り、何か裏があると伺える。


「楓彩はな、正当な鬼月家の後継者じゃないんだよ。本来、鬼月家と交配が許されているのは伊勢家の人間だけだ。鬼月隼人は許嫁がいるにもかかわらず、どこの馬の骨とも知らない女と交わった」


 鬼月さんが手にしている国王丸が少し下がった。


「そうして生まれたのがこの出来損ないだ。いやー、長年鉄壁を誇っていた鬼月家に憑りつきやすい綻びが生れたのは実に好都合だった」

「……ま、まさか……」


 鬼月さんが微かに声を上げた。


「そのまさかだ、楓彩……鬼月家の人間を惨殺していったのは他ならないお前だよ」

「――っ」


 国王丸の切っ先が地面に落ちた。


「その劣情を持ちながらも鬼月の名を冠する半端なお前は、哀れにも俺の手に堕ち、親戚一同を欲望の渦に陥れた。お前が鬼月家を敗北へ導いたんだよ。まぁ記憶は無いと思うが」

「そ、そんな……はずは……」

「安心しろ、楓彩。お前に罪は無い……悪いのはお前を産み落としたバカな両親なんだからな……あ、いやでも待てよ? 隼人と上ヶ丘が死ぬのはお前のせいだ」


 瞬間、刀が持ち上がり、鬼月さんは言葉にならない大声を上げて砂利を蹴り上げた。

 辺りに血を撒き散らしながら猛進する鬼月さんから放たれた一刀は伊勢真の左首筋を捉える。

 確実に国王丸の刃は伊勢真の肌へ切り込んだはずなのに、鬼月さんが刀を振り抜くことは無かった。


「くっ……あ、あああああっ!」

「おいおい、マジか。やっとお前を泣かせられると思ったんだがな……涙一つ流さないとは……お前のメンタルには昔から驚かされてばかりだ」


 鬼月さんは何度も伊勢真の首筋へ国王丸を叩きつけた。だが、伊勢真の肌には傷一つつかず、当人も平然としている。

 伊勢真は国王丸を素手で掴み、腕の力だけで鬼月さんを押し返した。

 力を入れていないように見えたが、鬼月さんの痩躯は軽々と吹き飛ばされ、再度僕の足元へぼろ雑巾のように転がってくる。


「鬼月さん……!」

「まだまだ戦えそうだな。もしかしてこれに耐えられたりすんのか?」


 伊勢真は下劣な笑みを浮かべて右手の指を鳴らした。

 直後、伊勢真の頭上に小さな火の玉が出現する。

 すぐに消えそうな小さな火なのに、触れた雨を次々と蒸発させていく。

 次第に、火の玉は大きく膨れ上がり、伊勢真と共に上空へと登り始める。


「な、なんだ……これ」


 曇り空を巨大な熱球が覆っている。

 肌を焼くような熱気は周囲の水分を蒸発させ、僕らへ降り注いだ。

 思わず、僕は両手で身体を守るように丸まり、伏せた。


「隼人から受けた攻撃をお前らに少し返してやるよ――避けたら上ヶ丘が死ぬぜ?」


 鬼月さんは全身を震わせながらも国王丸を構えて立ち上がる。

 だが、ジリジリと迫る巨大な死の気配に鬼月さんは後退った。


「お、鬼月さん……!」

「……っ」


 鬼月さんは一瞥を寄越すと一呼吸を置いて全身の震えを抑え込む。


「へぇ? 狂ってるな鬼月家の血ってやつは―――」


 伊勢真が指を鳴らすと、熱球は形状崩壊を起こした。

 バケツをひっくり返したように火炎の塊が僕らへと注がれる。

 目を焼かれないために僕は顔を伏せて頭を抱えた。

 すぐに凄まじい衝撃が音となって聴覚を塞がれる。露出した肌が熱い。


「―――」


 とてつもない重圧に骨が軋み、全身が押しつぶされそうになる。だが、まだ意識がある。

 まるで熱が何かに阻まれ裂かれているかのように、想像した熱さが襲ってこない。

 数秒間続いた嵐が過ぎ去り、僕は顔を上げた。

 真っ白だった視界が次第に晴れていくが、未だに耳鳴りがして何も聞こえない。

 辺りは灰と煙に覆われ、色という色を失っていた。僕がいる地面だけは不思議と元の色を保っている。


「……あ……何が……」


 背後から吹き荒れる風が辺りに立ち込めた煙を晴らしていく。

 前方。

 濃煙の向こう見えたのは立ち尽くす隻腕の少女の背中だった。

 さらに背中の向こう、少女に相対しているのは心底詰まらなさそうに少女を見下ろす伊勢真の姿が見える。


「あ……鬼……月さん……」


 僕は全身に走る痛みに耐え、地面を這うように少女の背中を目指した。


「すごいじゃないか、楓彩……上ヶ丘を守り切るなんて」

「……」

「? どうした? もう少し嬉しそうに……あぁ、その目と耳じゃ何も感じないか」


 砂利が熱い。

 手のひらを火傷しながらも、僕は灼熱の上を這った。

 まだ出来ていないことがある。空っぽだった僕の胸にたった一つ活力を与えてくれた欲求を晴らさなければいけない。


「壊れたならもういい。休め、楓彩――」

「鬼月さ――!」


 僕は鬼月さんを全身に浴びた。

 何も見えない。すべてが真っ赤に見える。


「え、鬼月さん?」


 目元を拭って視界を確保するが、赤が消えない。

 僕が這っていた一帯に広がる血、血、血、指、髪、血、血―――。


「あ……あぁ……!」

「あぁ、すまん上ヶ丘。汚してしまったな」


 何かが、僕の頭の後ろで音を立てて壊れた。


「楓彩が向かってくるのは分かっていたが、上ヶ丘が来たのはなぜなんだ? もう楓彩の事なんてどうでもよかっただろ? 誰かに言われたのか?」


 言葉が出ない。

 何も感じない。

 僕はなぜこんな所で這いつくばっているのだろう。


「まぁいいか。空っぽなお前からは何も得られない」


 こうなることは分かっていなのに。


「死んどくか? 意味無いだろ、お前」


 何に希望を抱いていたのだろう。

 何に縋っていたのだろう。

 僕は鬼月さんに何も答えなかったのに。

 僕は鬼月さんを拒絶したのに。


「……あ?」


 今さら謝ったところで鬼月さんはこれまでもずっと苦しい想いをしてきたんだ。


「なぜお前がここにいる」


 僕がトドメを刺してしまった。


「どうして動けるんだ? 里美沢」


 鬼月さんが悪いんじゃない。僕が全部悪い。


「いやー、そりゃ人の頭上でドンパチやられたら、嫌でも起きるっつうかさ」

「というかなぜ意思を持っている」


「だってまだタマホウシだし……やり残したことがまだあるからかな」

「まったく……想定外な事ばかりだ」


「……あのさ、先生?」

「なんだ」


「見逃してくんない?」

「……」


「お願い」

「いいぞ、上ヶ丘だけな。生かす価値もないし殺す価値もない」


「えーじゃあアタシは?」

「脅威になるからここで死ね」

「それは勘弁――」


 あれ……なんで僕は空を飛んでいるんだ。


「上ヶ丘くん、生きてるんでしょ! しっかりして! 逃げるから!」


 誰だ。


「ったく、起きて早々男子担いで運ぶとか何者だよアタシ!」


 どうでもいい。嫌なら下ろせばいいのに。

 これ以上、僕のせいで誰かが傷つくくらいなら僕はもう居なくていい。

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