第26話

 

 たくさんの人が死んだ。

 いや、もっと正確に言うなら人間ではなくなった。

 どの人も生きながら死んでいるような虚ろな目をして雨の中を徘徊している。

 僕は街が代わってしまった様子を自宅のカーテンの隙間から眺めていた。


「……襲ってくる様子は無いか」


 僕と鬼月さんをここまで運んできたのは国王丸だ。

 先ほどまでは宙に浮いていた国王丸も、役目を終えたのか鬼月さんが据わるソファの傍らに突き刺さったまま動かなくなった。


「鬼月さん、そろそろ身体を拭いた方が良い」


 僕の呼びかけに、鬼月さんは反応しない。

 ただ、真っ黒なテレビの画面に映るぼやけた自分を見つめていた。


「……何か食べる?」


 鬼月さんは小さく頷いた。

 久しぶりにコミュニケーションを取れたので少し驚きつつも、僕は窓から離れて台所へ向かう。

 片手間にスマホを取り出して、今の街がどんな状況なのか調べることにした。

 今分かっていることだと、街では停電が起こっており、僕の家でも電気系統はダウンしており、お湯なども出せない。幸い水道はまだ生きているため、水とカセットコンロで何かしら作れるだろう。


 だが、この状況も長く続くのであれば辛い状況だろう。

 もっとグローバルな状況だと、小田原市のことは一切語られていない。

 ただ、突如として現れた巨大な地割れは関東を横断し、遠く東北の地にまで及んでおり、その被害が甚大だという話題ばかり。


 だれもこの自然災害が人為的に、しかもたった一人の父親が起こしたことだとは思いもしないだろう。

 現状、日本中の人々が自分の明日を考えるだけで手一杯となっており、小田原市が化け物に占拠されたことなど知る由もない。


「……」


 僕はとある事実に気が付きながらカセットコンロを取り出し、ガス缶をはめ込む。

 街が占拠された。すなわち、鬼月隼人は伊勢先生に敗れたことになる。

 僕らが小田原駅前を離脱してから既に三時間ほどが経過していた。

 鬼月さんが自分の父親の死を気にしているのか、今の横顔からは分からない。


「鬼月さん? 味噌ラーメンかきつねうどん、どっちがいい?」

「……きつね」

「了解」


 僕はガスコンロでお湯を作り、先にきつねうどんのインスタント麺にお湯を入れる。

 鬼月さんの前にあるテーブルに箸ときつねうどんを置いた。


「五分ね」


 直ぐに僕の味噌ラーメンにもお湯を入れ、きつねうどんの隣に置く。

 その足で別室からタオルを持ってきてソファの背もたれに掛けた。

 しばらくの間、僕らの沈黙を雨音が埋める。


 タイマーが鳴り、鬼月さんのきつねうどんが完成したことが知らされる。だが、鬼月さんは微動だにせず一点を見つめたままだ。


「伸びるよ?」

「……私……」


 雫が落ちるような声音が静寂を乱した。


「私……何もできませんでした」

「……」

「こんな身体じゃ……お父さんも街も、上ヶ丘さんだってろくに守れない……」


 鬼月さんは歯を食いしばって左袖を握りしめた。


「私がもっと強ければ……真さんを止められたのかな……お父さんも犠牲にならずに済んだのかな」


 もっとこうしてれば、ああしてれば、なんて考えるだけ自分の心しか救わないのは彼女も分かっているだろう。

 鬼月さんは悪くない。十分頑張っている。そんな言葉を涙一つ流さずに悔いる彼女へ掛けて良いのだろうか。


「鬼月さんは強い」

「……」

「鬼月さんはこんな状況でも涙を流さずに戦える……だから強いよ」


 僕の言葉は何の解決にもならないだろう。僕も意味は無いと分かっていながら言葉にした。

 だけど、僕の空っぽな心の中に浮かんだ精一杯の励ましだったのだ。


「そう、ですよね……」

「鬼月さん?」


 鬼月さんは肩から力を抜き、天井へ向けて息を吹き出した。


「……こうしちゃいれないですね……」


 鬼月さんは自分の頬を叩いて、何かを飲み込んだ後、テーブルの上に置いてある割りばしを手に取って口を使って割る。

 椀を持ち上げられない彼女はソファから降りて、テーブルの上できつねうどんを啜り始めた。


「大丈夫?」

「……はい。打開策を考えましょうか」


 鬼月さんはそう言って僕へ笑顔を向けてきた。

 さすがのメンタルだ。これまで幾度となく挫けそうな場面をこうして乗り越えてきたのだろう。とは言え、彼女の精神状態はかなり危ないだろう。あと一つ何かあれば壊れてしまう予感が絶えなかった。

 互いにインスタント麺を食べ終えた後、話は伊勢真をどう打倒するかに移り変わった。


「街を徘徊しているタマホウシたちの様子を見る限りですと、私たちの位置は把握されていないと思います」

「……そう?」


 と疑問を投げかけた理由は、僕の中で伊勢先生の言動が引っかかっていたからだ。


 彼なら僕らを即刻殺すのではなく、少し泳がせるのではないだろうか。伊勢先生が戦うのは脅威となる相手が出てきた時だ。僕らは脅威となりうる力は持ち合わせていない。


「気付かれていない今が好機です」


 僕の疑問を無視して鬼月さんは話題を進める。


「お父さんが言っていた真さんの攻略法、意識外の死についてですが、簡単に言えば真さんには不意打ちしか通用しないのでしょう」


 鬼月さんの口が少し早くなる。


「幸い、こちらには国王丸があります。相手は強大ですが絶対に勝てないわけではありません」


 鬼月さんが見出す希望に対して、僕は同じような希望を感じることが出来なかった。

 理由は単純、前提としてお粗末すぎる。

 いつもの鬼月さんなら理屈を並べてマイナス思考から入るのに、今日だけは希望的観測が過ぎる。


「あとは如何にして注意を引くかですが、ここは比較的脅威である私が囮になり、真さんに殺されます。油断した真さんへの奇襲を瑛太さんにお願いしてもいいでしょうか」


「え?」


「あ、でも国王丸を直接触るのは危ないですね」

「ま、待って鬼月さん」

「何か長い物に括りつけて槍のように使いましょう」

「鬼月さん!」

「どうかされましたか?」

「いやいや、囮って? なんで」


 鬼月さんは目を丸くして僕の顔を見つめた。


「それが最善の策では? 上ヶ丘さんが囮になったところで私の姿が見えない以上、真さんは警戒します」


 鬼月さんの言っていることは理解できる。正しいとも思う。

 だが、この作戦は致命的に足りていない。


「い、一回落ち着こう……もっといい方法があるはず」

「……無いですよ」

「……」

「こちらの戦力は二人、片方は隻腕の役立たず、もう片方は一般人……奇跡に頼りましょう」


 僕は反論できなかった。

 だが、今の鬼月さんでは明確な打開策は出せないと思い、ソファから立ち上がる。


「どうかされましたか?」

「いや、少し休もう……他の案が出てくるまでさ」

「……」


 鬼月さんは無表情になり、ゆっくりと全身に入っていた力を抜いた。

 これ以上、いい案が出てくるかは運しだいだ。何せ、情報が圧倒的に少ない。

 僕は着替えを取りにリビングを後にした。


「はぁ……」


 満身創痍だ。

 こんなに辛いのなら鬼月さんの提案を飲んで僕だけでも生き残ることを選んでも良いかもしれない。

 だがそれもダメだろう。僕に伊勢先生を殺す勇気何てあるはずがない。超人同士の殺し合いを目の当たりにして関わろうなんて考えを抱く方がどうかしている。


「あった」


 姉貴のクローゼットからサイズが合いそうな下着や衣服を見つけ出し、今へと戻った。


「姉貴の服だから少し大きいかもしれないけど、濡れてるよりかは……」


 仄暗いリビング。

 ソファの前に立っていたのは自ら服を脱いでいる一つ下の少女。

 片腕で窮屈そうにYシャツを脱ぎ捨て、器用にスカートのホックを外して落とす。


「一つ……もう一つだけ可能性がありました」


 何の躊躇いも無く、下着を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった鬼月さんは静かに僕へと歩み寄ってくる。

 自由な右手を僕の右肩へ当てると、次に身体を密着させ、全体重で押し倒してきた。

 咄嗟のことで呆気に取られていた僕は固い床の上にあおむけになり、鬼月さんは僕の腹の上に跨ってくる。


「上ヶ丘さん……私と……」

「鬼月さん……」


「私と……セックス……してください」


 仄暗い空間で逆光となり、鬼月さんの細かな表情を読み取ることは出来なかった。だが、声音からかつてないほどの緊張が伺える。

 前回も、前々回も、鬼月さんは性欲を高めるために僕の肉体を求めてきた。今回もそのパターンだろう。

 だが、セックスをしたところで鬼月さんのパワーアップはたかが知れている。

 意味が無いとさえ思う。


「え、……」


 吐息交じりの声で僕の名を囁く鬼月さん。

 僕の意識は彼女の身体へと向かう。


 二の腕の半ばで途切れた左腕。

 左のあばらには痛々しい無数の傷跡。

 左乳房に目立つ切り傷の跡。

 他にも引き締まった身体の各所に生傷が散見できた。

 これが、少女の体と言えるだろうか。


「――」


 僕は無言で迫りくる鬼月さんの両肩を掴んで止める。


「え」

「……やめよう。こんなことに意味は無い」

「……っ」


 鬼月さんは上体を起こして俯き、僕の服を強く握りしめてきた。


「鬼月さん?」

「で、ですよね……こんな身体、気持ち悪いですよね」

「そんなことは……」


 言いかけたところで鬼月さんの手が僕の股間へ触れる。

 鬼月さんの体に対して何の感情も抱いていないことは、僕の股間が物語っていた。


「わ、分かってるんです……瑛太さんが私になんて興味が無いって……」

「それはタマホウシが……」

「もう居ないじゃないですか……瑛太さんはもう普通の人なんですよ」

「……」

「私、瑛太さんと一緒に暮らすことになって、私で性欲を感じちゃったらどうしようとか……あ、でも少し嬉しいかも、とか……瑛太さんは大変な状況なのに、そんなことを考えちゃう気持ち悪い人間なんです」


 自分で発した言葉のナイフが次々と鬼月さんの首へ刺さっていく。

 痛々しくて見るに堪えない。


「三階の空き教室で会った時も、私のことを覚えてくれてたらどうしようとか、瑛太さんが少しでも私のことを気にしてくれた日はよく眠れなくて……」


 自分で傷つけた傷口から感情が止めどなくあふれ出す。


「でもよかった……瑛太さんがこんな身体に興奮する変態じゃなくて」


 ようやく見えた鬼月さんの顔を笑っていた。


「ありがとうございます。ここまでで十分です」


 鬼月さんは僕の上から退いて、持ってきた姉貴の衣服を拾い上げた。


「お洋服、お借りしますね」


 手早く袖を通し、自ら脱いだスカートとパンツを履き直すと、床に刺さっている国王丸の柄に触れた。

 僕は鬼月さんの動向を追うようにして上体を起こした。


「……うん、今すっごく性欲が高まっています。めちゃくちゃムラムラしています!」


 浮かべた笑顔がハリボテなのは一瞬で見抜けた。


「これなら勝ち確ですね!」


 鬼月さんは国王丸を握りしめ、床から引き抜くと、大股で僕の横を通って玄関へと向かった。


「ま、待って鬼月さん!」


 特に掛けたい言葉なんて無い。

 だけど僕は反射的に立ち上がって玄関で靴ひもを結ぶ鬼月さんの背中へ声を掛けた。


「どうする気?」

「真さんを倒してきます」

「む、無理だろ」

「もぉー酷いですね。今の私、最高に調子が良いんです……それに―――」


 鬼月さんが顔の半分をこちらへ見せてくる。

 これまでにないほど哀愁に満ちた困り笑顔に僕の左足が一歩下がった。


「――もう耐えられそうにないですから」


 何かを言え。

 何か返事をしろ。

 何もないはずの僕の心の中で誰かが叫んでいる。

 だが、僕の唇は渇くばかりで温度を失っていく。


「大丈夫、上ヶ丘さんが言う通り、私、――」

「待って、おにつ……」


 玄関の戸が閉まる音が僕の言葉を遮った。

 外を歩いていく鬼月さんの足音を雨の音が上書きしていく。

 僕の伽藍な心に響かせるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る