セイ欲/ム欲
第18話
夢路のタマホウシが巻き起こした小田原市大量昏睡事件は漏れだしたガスが原因だと報じられた。
事件の中心にいた里美沢京香という少女は鬼月邸の地下に拘束され、今も覚醒の兆しは見せない。以降、僕やカナメをはじめとした一般人には里美沢への不用意な干渉や詮索が固く禁じられてしまった。
タマホウシの事件が解決するたびに心に重石が掛かるような気分だった。
「楓彩さんに恩返ししようの会! 定例会議を始めるっす!」
磯崎さんが黒板の前で宣言したここは放課後の化学室。
メンバーである僕、カナメ、亮平は張り切った磯崎さんへ拍手を送ったり、送らなかったり。
「え、これ定例になるの?」
拍手をしなかった僕は困惑した視線を亮平へ向けた。
だが、亮平はカナメと一緒になって磯崎さんへ拍手を送っているあたり、乗り気なのだろう。
「まずは案を出して欲しいっす。とりあえず、わたしが考えてきたのは黒板に書いてある通りなんすけど、先輩方の知恵も貸してください」
磯崎さんの背後にある黒板には綺麗な丸字で、
「何かをプレゼント?」
「みんなで旅行!」
の二つが書かれていた。
「はいはーい、じゃあウチのファッションショー!」
カナメは元気な声で手を上げた。
里美沢の一件で少しは落ち込んでいると心配していたが、冗談を言う元気はあるようだ。
……いやこの顔本気だな。自己肯定感が高すぎる。
「いいなぁ! それ」
もう一人のバカ、いや色ボケバカがカナメのことを肯定してしまったため、カナメのファッションショーが案として形になってしまった。
亮平は夢から目覚めて、少し正直になった。里美沢がどんな夢を見せたのか知る由も無いが何か余計なことを吹き込んだのは間違いない。
盛り上がる美男美女の上級生に反論することも出来ず、磯崎さんは黒板に「カナメ先輩のファッションショー」を書き込む。
「待て待て待て」
三人の視線が僕へ集まった。
「鬼月さんに感謝する場だろ?」
「だからじゃん?」
「何がだから、なんだ。ハッキリ言って鬼月さんはカナメに興味ないぞ」
「「「―――っ!」」」
以降、カナメは机に突っ伏したまま静かになり、その背中を亮平が慰めている。
「え、えーっと……瑛太先輩は何かいい案とかあるっすか?」
「うーん」
と、僕が悩んだ素振を見せると、カナメは不服そうな表情で僕を見つめてきた。
「鬼月さんの事だから何かを一方的に貰うのは好まないと思う」
「確かにそうっすね。では何かを一緒に作る……例えばキャンプとか?」
確かにキャンプであれば施しというよりは互いに和気藹々と楽しむことが出来るだろう。
しかし、僕の視線は窓の外へと向かった。
「でも季節が季節だけにねぇ」
梅雨の雨が昨日から降り続けていた。明日も降る予報だ。
夏になるまるまで待つ、というのはこの場にいる誰もが考えもしないことだった。
タマホウシによる事件が相次ぎ、次は誰がどんな欲求を狩られてしまうか分からない状況。
正直、明日のことを考えるくらいなら楽しいことを考えていたいのだ。
「なら、楓彩の誕生日を祝ってやれ」
「伊勢先生⁉」
いつから居たのか、伊勢先生は教室の後方から声を上げた。
「なに驚いてんだ。この教室を貸したのは俺だぞ」
「あざーす……で、誕生日?」
「呆れた。お前ら楓彩の友達じゃないのかよ……今週末は楓彩の誕生日だ。鬼月家では特に祝ってやる習慣はない。絶好の機会だと思うがな」
伊勢先生のお陰で会議に光明が見えたところで、磯崎さんは「楓彩さんの誕生日会計画」を黒板に書き入れ三重の丸で囲う。
◇
各々が解散していく中で、僕は伊勢先生に呼び止められ、隣の化学準備室へ向かった。
伊勢先生は缶コーヒーを飲みながら自分の机に座り、僕を丸椅子へ促した。
「何です? 伊勢先生」
「その後の体調はどうだ?」
「別に良くも悪くもないですけど……」
「国王丸で刺されたんだってな」
「えぇ」
僕は腹を摩った。起きた時から痛みが再発することは無かった。だが、痛みではない違和感が腹の淵に居座り続けている。
まだ包帯は取れていない。
まぁ、強いて言うなら痒い。
「欲求はどうだ? いい女から目が離せなくなったりとかは?」
「いや、特にそんな気分になったりはしないですね」
伊勢先生は僕の回答対して伊勢先生は鬼月さんと同じく難しい顔をした。
「なら、本当にお前の中からタマホウシは消えたのかもな。多分だが、欲求もその内に戻る」
なんだか、僕の意思とは関係無しに事が進んでいく気がした。僕は何もしていない。
今日だってカナメを止めたこと以外はほとんど空気と化していた。
僕は一体どこにいるのだろう。
「なんだ、気分が悪そうだが」
「えぇ……じゃあ僕はもう日常に戻れるんですか?」
「そうだな、あと一日くらいは様子を見て、明後日にでも家に戻っていいだろうな」
嬉しい事のはずなのに、なぜか僕の胸にある感情は不安一色だった。
「戻って大丈夫でしょうか……もしまたタマホウシが襲ってきたら」
「その時は電話しろ……まさかとは思うが、楓彩を占有できるとでも思ってないだろうな」
「そんなことは……! 無いです」
「あぁ、楓彩はボランティアで戦っているわけじゃない。助けて欲しい人は神奈川県外にもたくさんいる」
今までが良すぎただけだ。
普通に戻る。ただそれだけ。
「これで俺もお前にとっては普通の教師に戻るわけだが、最後に聞いておきたいことはあるか? 少しは心の靄を晴れさせてやる」
「……」
咄嗟に浮かんだ名前はやはり鬼月隼人だった。
「あの、鬼月さんのお父さんと会ったんですけど」
「隼人に? 帰ってきているのか」
「先生は隼人さんについてどんなことを知っているんですか?」
「……あぁ、それなりにな」
「教えてください」
「なぜだ」
途端に、伊勢先生の目付きが鋭くなった。
「……夢の中で、鬼月さんに頼まれたんです。お父さんと話してほしいって……」
夢の中という抽象的な単語に対し、普段の伊勢先生なら小言を返してくるのだが、今回ばかりは険しい表情を崩さず、コーヒーを飲んでいる。
「お前から見た隼人はどうだった」
「……少し、いや、大分怖かったです。言葉を間違えれば殺されるんじゃないかって」
決して隼人さんの言動はそんなものでは無かった。だが、彼が放っていた覇気が僕の脳に恐ろしい想像をさせたに過ぎない。
「そうか……悪いが、これから部外者になる男に詳しいことは話せない。話してほしいならそれ相応の理由がいる」
伊勢先生の問いに僕は即答できた。
「鬼月さんのことを知りたいんです」
「……?」
伊勢先生は僕と目が合うと面倒くさそうにため息を吐いた。
「お前がそう言うなら俺に泊める義理はない。だがな上ヶ丘、それはどんな欲求だ。知った結果、お前は何をする?」
「……それについては分かりません……だけど、今の僕にはこれしかやることが無いんです」
他にしたいことが無い。暇だから。
違う。
そんな消去法的な理由じゃない。これは使命感だ。
「知った後に考えます」
「……少し甘い気がするが……仕方ないな。他言は絶対にするな」
「はい」
伊勢先生は空になった缶コーヒーを机の端に置き、僕の方へ身体を向けた。
「結論から言おう。隼人は楓彩の左腕を切断した張本人だ」
「え」
何かの間違いだと思いたかったが、伊勢先生はそのまま話を続けた。
「鬼月家が衰退した事件について、上ヶ丘はどこまで知っている?」
「えっと、一体のタマホウシがやったんですよね?」
「あぁ、そのタマホウシは鬼月家を淘汰することに特化した奴でな……人の生存欲を司るタマホウシだった」
「生存欲……」
「鬼月家は元来、欲求を生まないように厳しく躾けていたのが裏目に出てな、鬼月家の剣士たちがたちまち、魅入られてしまった。で、怒ったのが反乱だ」
以前、鬼月さんに語らせるには重かった話が伊勢先生の言葉で容赦なく詳細化されていく。
「中にはタマホウシに魅入られることなく、反乱に賛同した人物がいた」
「……まさか」
「あぁ、隼人だ」
「なんで……」
「これは憶測にすぎないが、楓彩のためじゃないかと思っている。タマホウシと戦うために鬼月家の上層部は剣士の命を物としない節があった。そんな残酷な戦いに娘が巻き込まれるくらいなら家ごと潰してしまおうって魂胆なのかもしれん」
「わ、分からないです……どうしてそれが鬼月さんの左腕を切り落とすことと繋がるんです?」
伊勢先生は新しい缶コーヒーを取り出してプルタブを起こした。
「さぁな、ここが謎だ。楓彩の腕を切り落としたのは隼人で間違いないんだが……動機が分からん」
「今度、隼人さんと話す約束をしているんです」
「マジか……だがおススメはしないな」
「どうしてです? 本人に聞い……」
「聞けるのか? 十年以上付き合いのある俺ですら質問を躊躇っているんだぞ?」
「……」
困っていると、伊勢先生は見透かしたように笑った。
「無理をするな一般人.。それにそろそろ気にならなくなる」
「どういう意味です?」
「それは―――」
伊勢先生が話しだそうとしたその時、準備室のドアがノックも無しに開いた。
「あ、ここにいたんですね、上ヶ丘さん」
現れたのはスクールバックとバットケースを右肩に背負った鬼月さんだった。
湿気のせいか、走っていたのか髪の毛がかなり乱れている。
「探しました。お話の途中でしたか?」
僕は鬼月さんに答える前に伊勢先生へ視線を送ったが、伊勢先生はもう話を続ける気は無いらしく、授業用のプリント作成を始めてしまった。
「いや、大丈夫だよ」
「そろそろ最終下校時刻が迫っていますし、帰りませんか?」
「うん……そうだね」
カバンを持ち上げ、鬼月さんの後へ付いて行こうとした。
「上ヶ丘」
「はい?」
「……お疲れ」
伊勢先生がどんな意図でこの言葉を放ったのか、僕は咄嗟に夢路の件についてだと思ったのだが、これは僕を取り巻いていたタマホウシの事件が終わりを告げたのではないかと後になってから気が付いた。
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