第17話

 

 僕は見知った木目の天井へ手を伸ばした。


「……!」


 目覚めたのだと、一瞬で理解できた。

 口の中に嫌な味が広がっている。身体も少し重い。

 だが、頭だけはハッキリとしていて思考も滞りなく巡っている。


「あ、瑛太くん……」


 視線を天井から横に倒すと僕の顔を覗き込むカナメの姿があった。

 夢の中で見たカナメと違ってメイクをしており、学校ではなくモデルモードであることが伺える。


「大丈夫か? 瑛太」


 遅れて、カナメの後ろから亮平が顔を出す。

 僕は上体を起こしてここが鬼月邸の一室であることを確認し、もう一度亮平とカナメへ視線を戻した。


「……なんで二人がここに?」

「お見舞いに決まってんだろ」

「お見舞い?」


 怪訝な顔をする僕に対して二人からは心配する表情が返ってきた。


「瑛太くん、ウチらが起きてから二週間も寝てたんだよ?」

「二週間……」


 正直言って、実感はわかなかったが、亮平がすかさずスマホの画面に表示されている日付を見せてきた。


「六月二十日……」


 既に六月下旬に差し掛かろうとしていた。

 確かに、よく耳をすませば雨音が聞こえてくる。


「大丈夫? どこか痛いところとか無い?」


 僕の体に異常はない。今から走り回ることが出来るくらいには感覚もはっきりしている。


「あぁ……里美沢は?」


 里美沢の名前にカナメは分かりやすく視線を逸らして芳しくない表情を浮かべた。


「ごめん、京ちゃんのことは分からない……楓彩ちゃんにも聞いてみてるんだけど、なかなか教えてくれなくて……」


 嬉々としてカナメに伝えていない以上、僕が夢の中で見た最後の光景が現実世界に良くない影響を出しているらしい。


「その、鬼月さんは?」

「んーさっきまでここに居たんだけど……」


 僕は立ち上がって、部屋の出入り口へ向かって歩き出す。


「瑛太くん? 安静にしてた方が……」

「大丈夫……」


 二人の心配をよそに僕は廊下へ出た。相変わらず鬼月邸は自然の静寂に満ちている。

 自然の照明に照らされた廊下を歩いていくと、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。


「あれ、瑛太先輩?」

「磯崎さん……」


 茶髪をポニーテールにまとめた後輩女子、磯崎臨だ。

 手には割烹着を下げており、磯崎さんからは何やら香ばしい匂いがする。


「何してんの? 磯崎さんまで」

「バイトっす。この家の給仕をするバイト」


 磯崎さんは自信ありげに五本指を立てた。


「へぇ、結構貰えるんだ」

「うす。瑛太先輩の方こそ、もう歩いてて大丈夫なんすか?」

「うん、磯崎さんにも迷惑かけちゃった感じ?」

「そうっすね、この家まで瑛太先輩とカナメ先輩を運んだの、わたしっす」


 想像以上に迷惑を掛けていた。


「ごめん……」

「いいっすよ、これで貸し借りチャラってことで。それにもう友達じゃないっすか、気にしなくていいっす」


 磯崎さんは笑って見せた。


「ありがとう、磯崎さん」

「あ、そうだ、瑛太先輩に提案があるんすけど」

「ん?」

「カナメ先輩と亮平先輩、それとわたし……あと見つけたら里美沢先輩もっすね。タマホウシの被害に遭った人たちで楓彩さんに感謝しようの会を発足しました」

「そのままだね」


 もう少し名前を捻っても良かったんじゃないか。いや、直球の方が分かりやすいか。感謝を伝えたいわけだし。


「瑛太先輩も一緒にどうっすか?」

「もちろん、断わる理由もないし」


 話を終え、僕が踵を返すと、磯崎さんは楽し気な声を背中に掛けてきた。


「楓彩さんなら中庭に向かったっすよ」

「……ありがとう。磯崎さん」


 磯崎さんと別れて行こうとしていた廊下を進んでいくと右側から昼光が差し込んだ。

 昼間にしてはどんよりとした空模様の庭園が現れる。


「紫陽花……」


 紫色の花々や椿、名前の知らない黄色の花……前は目にも止まらなかった景色が今は色濃く映る。

 その茂みの中へ黄色い傘が入っていくのが見えた。


「鬼月さん……」


 中庭に面した窓を開けて、足元に用意されていたサンダルを履いて黄色い傘を追いかける。

 梅雨の雨が冷たく僕の肩を濡らした。

 小石が川の流れのように模様を作っている。

 僕は流れを乱さないように飛び石を踏んで茂みへと向かう。


「……すごい」


 茂みに入ると、そこには緑のトンネルが広がっていた。

 傘を差さずとも緑の屋根が僕を雨から守ってくれる。

 茂みの中に敷かれた石畳の道を進んでいくと黄色い傘が地面に落ちているのに気が付く。


「おにつ……」

 鬼月さんの姿が見えた。なんだか小さく思える。

 鬼月さんは上体を俯かせて右腕で身体を抱きしめるように左肩を握りしめていた。

 まるで無い左腕を痛がっているように見える。


「はぁ……はぁ……うっ……く……」


 肩を上下させ、苦しそうに呻く鬼月さんの背中へ僕は咄嗟に声を掛けることが出来なかった。

 苦痛に歪む鬼月さんの顔は見ていて胸が締め付けられた。

 泣きたいのはきっと鬼月さんの方なのになぜか僕の目の奥が熱くなった。


「お、おに……」


 茂みの奥、誰かが、黒い傘を持った男が鬼月さんの傍に現れた。紺色の着物を身に纏い、下駄を鳴らして鬼月さんの体へ傘を傾ける。


「楓彩」

「……!」


 身長で言うなら僕の方が高い。傘で顔はよく見えないが、着物の上からでも分かる体格の良さがただ者ではない気配を醸し出していた。


「お父……さん」


 鬼月さんは男へ向かって弱々しい声を上げた。


「痛むのか?」

「だ、大丈夫です……」

「薬を飲みなさい」


 男は懐に手を入れて錠剤ケースを取り出して鬼月さんに差し出した。


「持ち歩かなくても大丈夫って……言いましたよね」

「お陰で助かってる」

「……か、敵わないなぁ……」


 傘の向こうで男と鬼月さんがどんな表情で、どんな感情で会話をしているのか分からない。

 ただ、僕は夢の中で五体満足の鬼月さんと話した「お父さん」の存在が目の前に現れ、僕の心と体は酷く動揺している。


「お父さん……私……上手くやれているでしょうか」

「上手くやれていなければ、今ごろ生きていないさ。俺も、楓彩も、彼も」

「よかった……少しは気が楽になった……かな」


 僕は一歩下がった。

 踏み入ってはいけない空間だと肌で悟ったのだ。


「……そんなところにいないで、こっちに来たらどうだ?」


 踵を返そうとしたその時、男の声が僕の方へ飛んできた。


「え」

「楓彩に用があるのだろう?」


 二人を隠していた黒い傘が退き、男の姿が露わになった。

 第一印象。お父さんと呼ばれるにはかなり若い顔立ちだと思った。

 鬼月さんとは似ても似つかない鋭い目つきに、鬼月さんよりも色の濃い漆黒の髪の毛。

 全体的に攻撃的な気配が漂っている。


「え、えっと……」

「申し遅れた、鬼月隼人はやとだ。似てないと言われるが、これでも楓彩の父親だよ」


 隙が無い。

 隼人さんの動き一つひとつが肌を切るような緊張感を押し付けてくる。

 なぜか不安になる。


「上ヶ丘さん? 起きてたんですね」

「え、あ、あぁ……うん」

「では俺は消えよう。父親の前では話しづらいだろうし」


 隼人さんは落ちていたい黄色い傘を鬼月さんに渡して、僕の方へ歩いてきた。

 近づくにつれて鼓動が早くなる。

 今になって、夢の中で鬼月さんがどんなに大変なことを僕に頼んできたのか理解した。

 僕がこの男と話す? 無理だ。

 言葉を交わそうものなら僕の気力は持たない。圧倒的な覇気にやられる。

 ぼやける視界から隼人さんが消え、僕の背後へ離れていく。


「か、上ヶ丘さん?」


 鬼月さんの声が耳に届いた。鬼月さんのあどけない顔立ちが目に入った。

 途端に僕の心臓は落ち着きを取り戻し、呼吸を再開する。


「あ、あの!」


 僕は咄嗟に踵を返して、幾分か離れた隼人さんの背中へ声を掛けた。


「何かな?」

「え、えっと、今度、お話しませんか?」


 言ってしまった。

 ここで声を掛けなければ二度とこの人と会うことは無い。いや、会いたくない。そう思った勢いに任せてしまった。

 今僕の頬を流れているのは恐らく雨ではなく汗だ。


「あぁ、時間を作ろう」


 隼人さんは軽く微笑むと僕から視線を外して邸宅の方へ歩き出した。

 気配が遠ざかっていくにつれて、僕の胸を締め付けていた重圧が消えていく。


「上ヶ丘さん?」


 詰まった息を吐きだすと同時に、背後の鬼月さんが改めて声を掛けてきた。


「大丈夫ですか?」


 鬼月さんは心配する視線と共に僕を黄色い傘の中へ入れてくれた。


「え、うん、何が?」

「随分とお父さんに怯えていたようですけど」

「い、いやそんな事ないと思うけど」


 なぜか咄嗟に強がりが出てしまった。


「それよりも若いね、お父さん」

「そうですか? もう五十歳ですよ?」

「え」


 嘘つけ、五十なら僕の父親と同じだ。もっと皺だらけのはずだ。と言いたかったが、堪えて飲み込む。


「そ、そうなんだ……」

「あの、私にお話しですよね?」


 隼人さんの登場で、僕が鬼月さんを探し回っていたことを失念していた。と言っても、元から鬼月さんを探していたのは単なる無意識だが。

 混乱した頭を鬼月さんなら何とかしてくれるのではないかと希望を抱いてきたわけだ。


「鬼月さん、どこか具合でも悪いの?」

「あ、見られてましたか……た、ただの幻肢痛です」

「げんしつう?」

「はい、腕や足を失った方に見られる疾患です。普通なら失った直後とかに発症するものなんですけど……」


 鬼月さんが左腕を失ってから随分と時間が経っていると認識している。

 その幻肢痛というものに詳しいわけでは無いが、鬼月さん自身、違和感を感じているのは表情から見て取れた。


「あ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ? 直ぐに治まりますし、発症するのも極稀です」

「本当に?」

「ええ!」


 やはり、夢の中で見た鬼月さんとは違う。身体の満ち欠けだけではない。今の鬼月さんが笑っても空元気にしか見えないのだ。

 だが、僕が深堀りしていい事ではない。


「上ヶ丘さんの方こそ、本当にお身体は大丈夫なんですか?」

「うん」

「本当ですか? 痛みはありませんか?」


 執拗に僕の体を心配してくる鬼月さんの視線は顔ではなく僕の腹へと向かっていた。


「ん?」


 視線を受けて初めて、腹に何か違和感があることに気が付く。

 起きた時には気が付かなかったが、腹の辺りに服とは別の締め付けを感じた。


「え、なんだこれ」


 服をめくると、僕の腹には包帯が巻き付けてあった。


「こんな怪我……いつ?」

「えっと……事情を説明しますね」


 鬼月さんは何やら緊張した面持ちで話し始める。


「上ヶ丘さんが昏睡してしまった時、私は上ヶ丘さんの体内に入り込んだタマホウシをどうにかする必要がありました……」

「まさか腹を裂いたと?」

「そ、そこまではしてません……ただ、国王丸を……その、お腹に……」

「刺したの⁉」


 途端に血の気が引いてきた。


「ごごごごごめんなさい! 咄嗟の事だったので……荒療治になってしまって」

 驚きはしたが、鬼月さんを責めるつもりは微塵もない。今こうして生きていることが、鬼月さんの行動の正しさを裏付けている。

 それに、


「……だからかな、夢の中に鬼月さんが出てきた」


 国王丸に残された鬼月さんの左腕の意思。

 僕が出会ったもう一人の鬼月さん。


「へ、え? 私?」

「でも普段とは姿が違ったかな……髪の毛が長かったし、それに」


 僕は左腕があったと言いかけてやめた。


「それに? なんです?」

「いや……メチャクチャ浮かれてた」

「浮かれ? はい?」

「何というか、テンションが高いって言うか本音を躊躇うことなくぶちまけてくるというか……」

「ほ、本音……ですか……」


 鬼月さんは分かりやすく視線を泳がせ始める。

 これは揶揄うチャンスなのか、それとも地雷なのか。


「あの……何か変な事言ってませんでした? 私……」

「あーうん。死ぬほど言ってたな。例えば瑛太さんのことが―――」

「うわあああああ! 待って待って待って! お願いだから口に出さないでください!」


 鬼月さんは傘の内側を僕の顔面へ押し付けた。

 器用な攻撃に思わず面を喰らてしまった。


「ごめん! ごめんて!」

「忘れてください!」

「それはちょっとムリ……」

「むーーー……!」

「はい、忘れます」


 僕の顔面に押し当てられていた傘が退き、一息ついて落ち着きを取り戻した鬼月さんが話を戻した。


「……ところで上ヶ丘さん? 何か身体や、それこそ欲求に変化はありませんか?」

「え? うーん、あまり実感は湧かないけど、いつも通りだと思うよ?」

「……いつも通り、ですか」


 鬼月さんは何か思いつめるように視線を下げた。


「どうかしたの?」

「上ヶ丘さんを刺した時、上ヶ丘さんの中にいるタマホウシが何かしらのリアクションをすると思っていたのですが」


 欲を吸い取る妖刀、国王丸。そんな物が体内に入ってきたならタマホウシはひとたまりもない。だが、鬼月さんの語尾は僕らの予想とは違う事態が起こっていることを想起させた。


「もしかしたら、上ヶ丘さんの中にタマホウシは居ないのかもしれません」

「え?」

「何というか、上ヶ丘さんから国王丸を介して感情が伝わってこなかったというか……上ヶ丘さんの中から欲求を感じられなかったんです」

「そ、そんなことある……か?」


 僕は突き刺された腹に触れた。

 おかしい。何かがおかしい。

 隼人さんに怯えたのも。

 昏睡状態から目覚めて混乱すべき状況に落ち着いているのも。


「これまで例外のことは何度か起こりましたが、タマホウシが国王丸の攻撃を受けて無反応というのは……考えづらいです。もし国王丸が効かないタマホウシが出てきた時、

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