第12話

 僕らは一睡もしないまま夜明けを迎えた。カナメの提案でテーブルゲームをすることで互いに意識を保ってはいたが、考案者本人は頭を左右に揺らしていた。


「カナメ、大丈夫か?」

「うん、もぉ朝になったね……」


 鬼月さんは一切あくびもせずにボードゲームを真剣にやっていた。


「お、鬼月さん? そろそろ……」

「まだです。もう少しで勝てそうなんです……」


 この一晩で鬼月さんが嘘を付けないのと、僕らの嘘を面白いくらい信じてしまうことが分かった。結果、鬼月さんが勝利することは無く、やけになった鬼月さんに付き合わされる形で夜を明かしたのだった。


「いやいや、もう朝だし。ひとまず伊勢先生に連絡しようよ」

「む……それもそうですね。それが終わったらもう一戦やりましょう」

「楓彩ちゃん、元気すぎー」


 カナメは眠そうな目で僕の肩に身を寄せてきた。


「おいカナメ、しっかりしろよ」

「うん……」


 カナメの声が薄い。いかにも限界といったところだ。

 僕かカナメの腕を引っ張り上げ、無理やり立たせることで眠気を何とか振り払おうとした。

 だが、眠いのは僕も同じだ。


「……」


 魔が差したというか、眠い頭で必死に考え付いた眠気覚まし方法がカナメの胸を触る事だった。この瞬間は亮平への罪悪感も、カナメがどんな反応をするのかも何も考えていなかったと思う。

 結果、多少のスリルはあったものの、何も感じなかった。


「瑛太くん……どさくさに紛れてどこ触ってんの~」

「胸」

「ならいいか~」


 僕の性欲が無くて本当に良かったと心の底から思う。

 普段の僕が今の無防備なカナメを相手にしたら昨晩のいい話がすべて台無しになる所だ。

 友情は性欲には敵わないからこそ友情なのだ。


「しっかりしてくれ、ビンタでもするか?」

「モデルの顔~。それはやめて」


 などと、腑抜けたやり取りをしている傍で、鬼月さんが何やら焦った声を出している。


「どうしましょう、真さんが電話に出ません」

「……え、それって」


 寝るなと言ってきた本人が寝落ちしたとなると、この状況の終わりが見えなくなってくる。


「非常にマズい状態です……これでは現在の街の状況や夢路のタマホウシの被害範囲が分かりません」


 取り合えず外に出て様子を見ようにも、鬼月さんが動けない以上、昨晩と同じ状況に陥ったらその時点でゲームオーバーだ。


「……取り合えずこの家から離れすぎない程度で偵察でもしてこようか?」

「危険なので、私も同行します。申し訳ありませんが背負っていただくことは出来ますか?」

「まぁ、うんいいけど……カナメは―――」

「――上ヶ丘さん!」


 鬼月さんの逼迫した声に心臓が跳ねる。

 いつだって希望的観測が裏目となり、事態は良くない方向へ転がっていく。これは僕が悪いとか、鬼月さんが悪いとか、今まさに身体を乗っ取られたカナメが悪いとかではない。

 いつから里美沢が僕らを強制的に寝かせることは出来ないと思っていたのだろうか。


「――え」


 カナメの両手が僕の耳を塞いだ。途端に耳鳴りが聴覚を遮断し、暗く深い穴の様に漆黒に染まったカナメの瞳孔から目が離せなくなった。


「瑛太くん……おやすみ」


 後ろ髪を誰かに引っ張られるような感覚と共に視界が暗転する。数舜の内は意識を保つことが出来たが、すぐに頭の中を心地良い感覚が支配していく。

 遠いところから誰かが僕の名前を叫んでいる。

 うるさい……今は寝かせて欲しい。

 


 音が聞こえる。部屋の向こうから響く無数の話声。楽し気な雑音が僕の意識を浮上させた。

 目覚める時のようなハッキリしない感覚が全身に纏わりつく。

 やがて瞼を開けた。


「保健室?」


 見覚えのある天井に、僕の周囲を覆うように取り付けられたカーテンレール。

 上体を起こし、ハッキリしない頭を抱える。


「あれ……なんだっけ……」


 よく思い出せない。

 保健室に来る前の記憶が薄ぼんやりとしており靄が掛かったように不鮮明だ。


「ん?」


 ふと、カーテンの向こうに人の気配を感じた。

 影はカーテンに手を掛けゆっくりと引いた。


「あ、起きた~?」

「あれ……里美沢?」


 里美沢京香。

 黒髪ハーフロングの女子生徒は柔和な笑みを浮かべてベッドに腰かけた。


「酷い顔してる」

「うっ……頭が痛い」

「大丈夫?」


 頭を抱える僕の顔を里美沢は覗き込んでくる。


「里美沢……僕は、なんで保健室にいるんだ?」

「覚えてないの? お昼ご飯食べてたら急に倒れたんだよ?」

「急に?」

「うん、すっごくビックリした」


 里美沢は楽し気に笑う。


「ありがとう、里美沢。そろそろ授業に戻らないと……」

「もう放課後だよ?」


 里美沢はカーテンを広げてくれた。

 窓から差し込む光は橙色に代わっており、部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が聞こえる。


「もう帰ろうよ。あ、その前に病院に行く?」

「いや、帰るよ」


 僕はベッドから降りて、枕元に置いてあったカバンを持ち上げる。

 里美沢と並んで帰路を歩いた。未だに頭は浮ついていて思考が纏まらない感覚がしていた。

 外はヒグラシが鳴いており、肌にじんわりと温い空気が纏わりついてくる。

 毎年そうだが、気付かない内に夏になっている気がする。


「蒸し暑いねぇ」

「あれ、里美沢はこっちの方面だっけ?」

「もー何言ってんのー? アタシら一緒に住んでんじゃーん」

「あれ、そうだっけ」


 たしかに、ぼんやりとする記憶の中では誰かと住んでいた。


「こりゃ、相当だね。自分の彼女を忘れるとは」


 里美沢は少し恥ずかしそうに笑った。


「まぁいいや。でさ? お昼の続きなんだけど、今年の夏休みはどうする? 去年は海だったし、今年はキャンプでもいく?」

「海……だったっけ」

「……うーん、やっぱり病院行っとく?」

「大丈夫だって」


 里美沢は少し頬を膨らませた後、身を寄せてきた。

 程なくして僕の家に到着し、里美沢は何も遠慮することなく、制服を脱ぎ捨てっ下着姿になると、ソファへ倒れ込んだ。


「里美沢、ちゃんと服は着ろよ」

「んー? そんなこと言うなんて珍しいねぇ」


 僕は呆れのため息を吐いて、里美沢が脱ぎ捨てた制服を回収してソファの背もたれに掛ける。

 次いで里美沢の脚をずらして、ソファに腰掛ける。


「あれれ、今日はそう言う気分じゃない感じ?」

「何が」

「……まぁいいけどさ。晩御飯は何がいい? 出前取ろうよ」


 里美沢の問いかけに、僕はすぐに反応が出来なかった。

 何というか、慣れないのだ。自分の行動一つ一つがいつも通りじゃない気がして落ち着かない。自分の家、自分の慣れ親しんだ空間なのにまるで誰かの家にいるような気分だ。

 里美沢と囲んだピザも、ゴールデンタイムのお笑い番組も、それを見て横で笑っている里美沢も……いつも見ている光景なのに、なんか新鮮だ。

 だが、不思議と夜はぐっすり眠れた。

 隣で里美沢がほぼ全裸に近い恰好で眠っているのにも関わらず、目を閉じれば一瞬で暗闇の中に引き込まれてしまう。


 翌朝になっても僕の違和感が消失することは無かった。

 巡る日、僕はその日も里美沢と席を向かい合って昼食を摂っていた。


「でさー? 学年順位八位なのに補修を受けろって言われたの」

「そう」

「もうマジで最悪じゃない? アタシだって暇じゃないんだけどなぁ」


 いつも通りの里美沢。いつも通りか怪しい僕。何をしても、何を言っても、何もしなくても里美沢は首を傾げて目を向けてくる。まるで何かが気に入らないかのように僕の何かを正そうとするように。

 だが、里美沢以外はただの背景の様に見えた。何も違和感なんて無い。これが日常であり。これが僕、上ヶ丘瑛太の毎日だ。


「里美沢」

「んーー?」

「夏休み、二人だけで遊びに行くのか?」

「え? うんそうだけど」

「誰か誘ったりは……」


 言いかけてやめた。

 理由は特にない。ただ、他の誰かの話をすれば里美沢の機嫌が崩れる気がしたのだ。


「楽しみだよね? キャンプ飯とか作ってみようかな」

「うん」


 不意に、誰かに呼ばれた気がした。視線を教室のそとの雑踏へ向ける。


「どうかした? 上ヶ丘くん」

「いや……なんか今日、人多くないか?」

「そう? いつも通りじゃん」


 何かを、誰かを探していたような気がした。一人や二人じゃない。もっと不特定多数の人の行方を探っていたような……。


「全員いるんだよな」

「それがどうかした?」


 里美沢はタコさんをウィンナーを食べながら言った。


「……ちょっとトイレ行ってくる」


 僕は里美沢との会話を切って、立ち上がる。

 なんだか、教室の中に居辛さを覚えた。

 教室の外もいつもと同じような喧騒に満ちていた。

 頭がぼんやりする。自分がまっすぐ進めているのかも怪しい。


「――」


 背後でまたしても誰かが僕を呼んだ気がした。だけどそれはあり得ない。僕の友達は里美沢だけだ。この世に僕のことを気に掛けてくれる人は里美沢しかいない。


 だけど、何だこの違和感は。

 里美沢と僕が同棲している?

 里美沢と僕が付き合っている?

 去年は海に行った? 二人で?

 いやいやいや……おかしい。


 だって、僕には――性欲が無いのだから。


 誰かに興味を持つことすら間違っている。『あの子』以外の誰かに固執するなんてありえない。


「――上ヶ丘くん」


 背後からの纏わりつくような一声。


「どうかした? なんか顔色悪いよ?」

「里美沢……僕は……何か違う気がするんだ」

「え? な、何が?」

「分からない、けど違う。何か足りない気がするんだ。みんないるのに、いなきゃいけない人がいない……」


 里美沢の口角が上がった。

 だが、目は全く笑っていない。むしろ怒りの気配を感じた。

 僕は自ずと一歩身を引いた。


「足りないって? 何が? え? 何が足りないの? アタシじゃ何が足りないの?」


 里美沢はこちらに歩み寄ってくる。一歩、また一歩と里美沢の笑顔が近づいてくる。


「ねぇ、教えて? アタシ、何でも持ってるんだよ? 上ヶ丘くんは何が欲しいの? 行って見て?」

「ぼ、僕は……」

「いや、だめ。やっぱりダメ。上ヶ丘くんは何も欲しがっちゃダメ。


 里美沢の長袖から伸びた細い指が首元へ伸びてくる。この手に触れたら駄目な気がしたが、僕に避けるほどの反射神経は無かった。


「もっと深くへ……おやすみなさい」


 指がツルのように首へ絡まってくる。


「さと――」


 コンセントが抜かれたテレビのように視界が暗闇へ落ちた。

 自分を構築していたものすべてが一気に崩れ落ちていくような錯覚に陥る。


 

 目を開けると、そこは僕のベッドの上だった。

 ただ、僕一人じゃない。互いの息遣いが分かる距離に里美沢の顔をがあった。


「ねぇ……アタシだけを見てよ……」

「……」


 一糸まとわぬ彼女の肢体は有体に言えば美しかった。仄暗い中でも浮き出る白い柔肌に、黄金律を思わせるボディライン。艶めかしく僕の肩を撫でる細い指……。


「里美沢……?」

「んー?」


 僕は里美沢から目を離して、上体を起こした。


「あれ、どうかしたの?」

「……いや……何か良くない夢を見ていた気がするんだ……」


 顔を覆って頭の中に居座るノイズを感じる。


「とても寂しくて……怖くて……理解できない夢……」

「ねぇ、上ヶ丘くん? アタシは――」

「確か……里美沢に殺される夢だ――」


 

 セミの鳴き声によって目を覚ます。

 不鮮明な意識を強い日差しと熱さが刺激する。

 目の前に広がる白い砂の校庭には誰もおらず、何とも不毛な光景が広がっていた。


「……ここは」


 学校だ。学校の校庭に隣接しているベンチだ。体育館が影になり昼休みを過ごすなら静けさも相まってかなりの穴場だ。


「ごめんね~。遅れちゃって」

「里美沢……」


 背後から現れたのは黒髪ハーフセミロングの少女、里美沢京香だった。夏の制服を身に纏い、白い素足をふんだんに見せびらかしている。

 蠱惑するかのように胸元のボタンが一つ余計に開いていた。


「ご飯食べよっか」


 僕は弁当箱を膝の上で開けた。今日のメニューはオムライスだった。


「どぉ? おいしそうに出来たでしょ」

「うん」


 誰かが。


「ケチャップかける?」

「うん」


 誰かが呼んでいる。


「あーんもしてあげようか?」


 里美沢はわざとらしく僕の腕に胸を押しあててきた。でも僕の意識は別の場所にあった。


「てかさー? どうよアタシの夏服、似合ってる?」

「里美沢」

「え、な、何? あ、スプーンだよね」

「違う」


 里美沢は焦ったように僕の手首を掴んできた。

 だが、僕は咄嗟に振り払って立ち上がる。

 オムライスは僕の足元でひっくり返ってしまったが、そんな物を気にしている余裕は無かった。いや、今何をすべきか全てが明瞭になったわけでは無い。

 でも一つだけ得た答えがある。


「何度やっても無駄だと思う」

「――っ」


 里美沢はベンチに座ったまま項垂れた。彼女がどんな反応を示しているのかよく見えない。


「もう何回目か知らないけど、多分、僕には里美沢の誘惑は効かない。性欲が無いから里美沢がどんなに魅力的だろうと満足することは無い」


 言葉の全てに「多分」が付くが、現状を言語化してみた。


「……して」

「え?」

「どうして!」


 顔を上げた里美沢は怒り、苛立ちを露わにしていた。


「アタシじゃダメなの⁉ なんでよ! 上ヶ丘くんが欲しい物は全部ここにある!」

「違う! 里美沢だけじゃダメなんだよ! もっと他に大事な人がたくさんいるんだ!」

「……!」

「里美沢……返してくれ」


 里美沢は何も言わなくなった。


「そっか……じゃあ」

「里美沢?」

「もういいや。上ヶ丘くんの意識、焼き落せば全部アタシの物になるね」


 少し反応が遅れた。再び彼女の指が首元へ迫る。

 次は無い。

 もう一度電源を落とされたらもう僕が目覚めることは無いのが容易に想像できた。

 その時、僕の脳裏に過ったのはとある人物の名前、苗字だった。


「鬼月さ――」

「――」


 刹那、鋭い風が里美沢の右手首を切り飛ばした。

 更なる刹那、切り飛ばされた里美沢の手首から無数の茨が生え始め僕の視界を埋め尽くす。


 目の前に現れた疾風は荒れ狂いながらも僕の体に纏わりつき、優しく光の方へ逃がしてくれた。

 蠢く茨が里美沢の右腕の中に戻っていく現実離れした光景よりも、僕の意識は里美沢と僕の間に立つ少女へと向いていた。


「……え?」


 少しボサついた髪の毛は腰辺りで揺れ、細く白い手には物騒な刀が握られている。刀さえなければどこにでも良そうな普通の女の子の後ろ姿だ。


「お怪我はありませんか? 


 少女は振り向いて笑った。長く伸びきった髪の毛が彼女の顔を見え隠れさせる。


「き、君は……」


 あの子が笑ったらこんな顔をするのだろうと、勝手な妄想が膨らむ。


「もぉー酷いですね。忘れちゃったんですか?」


 忘れていない。そう否定したかったが、目の前にいる少女はどうしても記憶の中の女の子と容姿がかけ離れていたのだ。


「楓彩です。鬼月楓彩! 瑛太さんのピンチにズババっと参上しました!」


 ……キャラもかけ離れている。

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