第10話

『――瑛太くん助けて!』


 油断し切っていた僕の鼓膜を貫いたのはカナメの悲痛な叫びだった。

 危うくスマホを落としそうになったが、気を持ち直して、カナメを呼んだ。


「カナメ? どうした?」

『――……追われ――』


 走っているのか、カナメの息切れの音と風の音で彼女の言葉が良く聞こえない。


「カナメ! よく聞こえない!」

『――助けて』

「おい、カナメ! 今行くから学校へ向かえ!」

『う―――りがとう』


 僕は通話を終え、事情を知りたがっている鬼月さんを尻目に立ち上がった。


「ごめん、鬼月さん。カナメがピンチなんだ。今すぐ学校に行きたい」

「分かりました。ではすぐに向かいましょう」


 鬼月さんの承諾を得た僕は護身用にバットをバットケースに忍ばせ、家を飛び出した。

 片道三十分の道のりを走ることで十五分で学校に到着する。

 だが、すぐにカナメの姿を見つけることは出来なかった。


「カナメさん、いましたか?」

「いや、分からない。電話してみる」


 僕がスマホを取り出した瞬間。


「瑛太くん」


 背後からカナメに呼ばれた。


「カナメ、大丈夫か?」

「来てくれてありがとぉ!」


 振り向きざま、カナメは躊躇うことなく僕に抱きついてきた。


「分かった、分かったから離れろ!」


 カナメはラフな白いTシャツに裾の短い短パンを着て、長い髪の毛をポニーテールにまとめていた。学校では見ることのない姿だ。


「何があったんだ?」

「ちょっと散歩してたら、ストーカーに追われて……」


 カナメは照れくさそうに笑った。

 緊迫感の無い姿に安堵すると同時に微かな苛立ちを覚えた。


「まず第一に、なんでこんな夜更けに出歩いてんだよ」

「えっと……ま、まぁ話はさ、そこのコンビニでしない?」


 楽観的ではあるが今も仕切りに背後を気にしているカナメ。

 彼女の意思を尊重し、少しは人気のあるコンビニ前の明るい場所に移った。

 コンビニついでにカナメはペットボトルを僕と鬼月さんの分も合わせて三本購入し、店の外にあるガードパイプに腰かけて話を再開した。


「ウチの家にさ、幽霊が出たんだよ」

「幽霊?」


 また、現実離れした単語が飛び出たが、僕の脳は既に麻痺していた。

 だが、タマホウシを見たのであれば幽霊ではなく化け物と表現する方が一般的な物だと思い、鬼月さんの表情を伺った。

 鬼月さんがカナメの幽霊という単語に首を傾げているあたり、タマホウシとの関連性は怪しい。


「ウチの両親、海外出張中だしさ。コンビニでも行って時間潰してよーって思ったら、ストーカーに遭遇」


 カナメは肩を落として「もー最悪―」とコンビニで買ったミネラルウォーターを飲む。


「それは散々だな。てか、なんで僕なんだ?」

「だって亮平くん電話でないし、他の男子は、瑛太くんほど信用してないし」

「光栄だね」


 屈託の無い笑顔で嬉しいことを言ってくれるカナメ。

 この先、嫉妬に狂う男子に殺されようともダイイングメッセージにはカナメの文字を記そうと思う。


「で、まだストーカーは追ってきているのか?」

「分からない、無我夢中で走ってきたから」

「取り合えず、家まで送るから帰らないか?」

「嫌だ! 幽霊いるもん!」


 右を向いても左を向いてもだ。

 カナメはともかく、このままでは鬼月さんが不憫だ。

 ほらもう足元の小石を転がして遊んでいる。


「ごめんね、楓彩ちゃんまで付いてきてもらって」

「いえ、ご無事そうで何よりです」


 鬼月さんと言葉を交わしたカナメは嫌な笑顔を浮かべながら僕を見つめてきた。


「ねぇ、瑛太くん」

「……なんだよ」

「やっぱ付き合ってんじゃーん!」


 と、肩にワンパン。


「痛ぇよ!」

「なーんだ! 恥ずかしがって付き合ってないとか言っておきながらこんな真夜中に一緒にいるとかラブラブじゃん!」

「はぁ……帰ろうか、鬼月さん」

「は、はい」


 本気で帰ろうとすると、カナメは必死になって僕の両肩を捕まえてくる。


「ごめんって! お願いだから一人にしないでよ!」

「ふざけてるから大丈夫だろ! 一人で帰れ!」

「違うの! こうしてふざけてないと涙出てくるから!」


 カナメの発言に足を止める。

 今のはズルい。


「あのさ……お願いなんだけど、瑛太くんの家、泊めてくれない?」


 カナメがこの提案をしてくるのは時間の問題だった。僕は自分で答えを出さずに、鬼月さんを見た。


「……」


 だが、鬼月さんは僕とカナメではなく、別の場所を見ている。


「お願いだよ瑛太くん……一晩だけでいいからさ? このままだとウチ非行少女になっちゃうよ?」


 カナメが横で呑気なことを言っているが、先ほどから鬼月さんの様子がおかしい。

 まるで外敵を見つけた猫のように仕切りに周囲を見回している。


「鬼月さん?」

「しっ」

「?」


 僕は鬼月さんの視線の先を目で追った。

 コンビニから国道を挟んで向かいの歩道。見えたのは大人数の人影。


「なんだ……あれ」


 僕の肩を掴むカナメが背後で短い悲鳴を上げた。

 どうやら僕と鬼月さんが感じている異様な空気感をようやく察知したらしい。


「瑛太くん、後ろ……」


 カナメの言う背後を見ると、五、六人の男女がコンビニ店内の雑誌売り場からこちらを見つめていた。

 興味の視線ではない。まるで獲物を見つめているように微動だにせず、生きているのかも怪しい立ち姿だ。


「お、鬼月さん」

「囲まれています」

「タマホウシ?」

「だと思いますが、妙です」


 鬼月さんはバットケースから日本刀を取り出すも、抜刀はせずに構えた。

 日本刀を見たカナメは一瞬、困惑したような声を上げたが、この状況で質問をするような肝は持ち合わせていないらしい。

 だが、カナメは震える声でとあることを告げてきた。


「ごめん、瑛太くん……ストーカー、

「は?」


 僕は改めて周囲を見回した。


「まさか、これ全員?」

「全員かは分からないけど……さっき見た顔ばっかりだよ」


 僕は震える手でバットケースからバットを取り出し、カナメを鬼月さんの背中と僕の背中で挟むように入れ替わった。


「上ヶ丘さん、私が道を作ります。カナメさんを連れて逃げられますか?」

「どうだろ、あの人たちの足の速さによる」

「では、私が時間を――」


 一瞬の出来事だった。

 風を切る音と共に一人の男性が鬼月さんの姿を攫った。


「――え?」


 鬼月さんが男性に押さえつけられた瞬間、今まで微動だにしなかった周囲の人々が一斉に走り出した。

 地鳴りのような足音にカナメは悲鳴を上げ、僕の足は竦んだ。

 だが、人の津波は僕とカナメを避けていき、鬼月さんの姿を埋め尽くしてしまった。


「――鬼月さん!」


 僕は小鹿のように震える足を必死に動かして、鬼月さんを取り囲む人の壁へバットを振るう。

 鈍い音はしたが、叩いた背広の男性は痛がる素振を見せるどころか、ピクリともしない。文字通り肉で出来た壁を殴ったみたいな感覚だ。

 壁の向こうから微かに鬼月さんの苦悶の声が聞こえる。


「鬼月さんから離れろ!」


 肉壁をバットで何度も叩くが嫌な感覚が手のひらから伝わってくるだけで状況は少しも好転しない。


「上ヶ丘くん、ウケる」


 不意に、聞き知った声が背後から聞こえた。


「さ、里美沢……?」

「やっほー。こんな夜更けに何してんのー?」


 腑抜けた口調でこちらへ手を振ってくる里美沢。

 グレーのパーカーに黒のスウェットという部屋着姿で現れた彼女は状況にそぐわない笑顔を浮かべている。


「バットなんか振り回したら危ないじゃん」


 里美沢は鼻歌混じりに、僕の肩に触れて、人の壁の前に立った。


「ほーら、どいてどいてー」


 鬼月さんを取り囲んでいた人々は、里美沢を避けるように道を作り、右腕と両足にしがみつかれた鬼月さんの姿を露わにした。

 里美沢の行動と、先ほどまで固く閉ざされていた人の壁が開いた光景に僕の頭は酷く混乱してしまった。


「里美沢……お前、何をして……」

「んーー? 何って、害虫駆除?」


 里美沢は不敵な笑顔で鬼月さんの顔を覗き込んだ。


「あなた……」

「さすが、察しが良いね。キミが鬼月楓彩でしょ? 色んな意味で目障りだから消えてもらっても良いかな?」

「おい……里美沢……冗談はよせよ」


 僕は無意識にバットを強く握りしめた。


「さすがに悪戯にしてはやりすぎだろ……」

「上ヶ丘くーん」


 里美沢は語気を強めて振り向いてきた。街灯が照らす彼女の顔が今は恐ろしくてたまらなかった。


「ちょっとさ、静かに出来る? 後でゆっくりお話ししようよ」


 気が付けば僕の右足は一歩下がっていた。

 いつもの里美沢じゃない。いや、口調や表情はいつもの里美沢だ。だが、強面の大男を相手に話しているような気迫を感じた。


「はーい、お待たせ。鬼月楓彩ちゃん?」

「……っ」

「おぉ、こんな状況なのに強気な目付きだね。うっざ」


 里美沢が指を振ると鬼月さんの腕を掴んでいた男性が力を込めた。


「―――っ!」


 鬼月さんは押し殺すような悲鳴を上げた。

 激痛に顔を歪めながらも視線だけは里美沢だけを捉えており、鎖につながれている猛犬のような覇気を纏っている。

 だが、里美沢は嘲笑った。


「や、やめろ……里美沢……!」


 声が上手く出せなかった。

 こんな非人道的な光景を目の当たりにしようと、僕は里美沢の邪悪な笑みが信じられなかったのだ。僕の日常の一部であり、良き友人である彼女が……誰かの欲求を弄ぶような化け物なはずがない。


「おはははっ! 右手も捥いじゃえばバランス良くなるんじゃない?」

「――あぁっ!」


 まるで小さな子が逃げ惑う蟻を見て楽しむような、悪意のない愉悦が彼女を支配していた。

 今すぐ手にしたバットで里美沢に殴りかかることは出来る。だけど、殴ったところで何も変わらないことが分かるからこそ、一歩も動けなかった。


「京ちゃん」


 背後のカナメが声を上げた。

 里美沢は表情から色を消して僕の背後へ視線を向ける。


「ねぇ……京ちゃん、やめよう? な、なんでそんな酷いことするの?」

「カナちゃん……」

「京ちゃんはそんな事する子じゃ無かったじゃん! どうしちゃったの!」

「……てか、いたんだ」

「え?」


 里美沢の冷え切った言葉にカナメは言葉を詰まらせた。


「ごめんね。眼中になかったよ」

「京ちゃん……やめて」

「取り合えず、アンタ煩いから先に消すね」


 里美沢がカナメを指さした瞬間、得体の知れない悪寒が鳥肌となって全身を駆け巡った。

 あと数秒、いや一秒も無いかもしれないが、確実に命が消える。


「京ちゃ――」

「さよなら」

「国王丸――っ!」


 里美沢とカナメの冷たいやり取りを、鬼月さんの叫び声が両断した。

 次の瞬間、里美沢の視線が外れる隙を狙っていた鬼月さんは正体不明の風を巻き起こし、纏わりついていた人々を吹き飛ばした。


「マジで?」


 驚愕する里美沢の首を鬼月さんは容赦なく刎ね飛ばし、勢いをそのままに僕の胸へ飛び込んでくる。

 僕は結果的に鬼月さんのクッションになって地面へ倒れた。


「いっ……だ、大丈夫? 鬼月さん」


 鬼月さんからの返答はなく、僕の上で左足を抱えて悶えていた。


「鬼月さん、足が……!」

「も、問題ありません……」


 分かりやすい強がりを見せるも、立ち上がった鬼月さんの重心は大きく右に傾いていた。

 僕も立ち上がって鬼月さんが警視する方へ視線を送った。


「……びっくりしたぁ。やるじゃん」

「く、首が生えて……」


 もはや、僕は彼女が怪物になってしまったことを疑うことは出来なかった。今僕の目の前にいるのは首を刎ね飛ばしても死なない里美沢京香という怪物なのだ。

 首が完全に再生した里美沢は余裕そうな笑みで鬼月さんを見つめた。


「……おっけ、今キミを殺してもあんまり意味が無さそうだし、プラン変更ー」


 里美沢はフードを被って踵を返した。

 同時に、僕らを取り囲んでいた人々は里見沢を追いかけるように夜の闇へ続々と消えていく。


「ま、待って京ちゃん!」

「ばいばーい」


 一分もかからずにあれほどまで存在感を放っていた雑踏は一人残らず姿を消し、夜の静寂が訪れた。

 まるで何事も無かったように、夢からさめたように何の痕跡も残さずに里見沢京香は去っていった。

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