第5話

 どれくらいの間、鉄の扉を見つめていただろうか。

 気が付くと中にいるであろうタマホウシは扉を叩くのをやめ、低い唸り声をあげて僕が入ってくるのを待ち構えていた。

 僕の大事な危機感が麻痺しているのを自覚しながら、「この扉を開ける」ことが最善の選択だと思えて仕方が無かった。


「――上ヶ丘?」


 男の声。

 どこかで聞いたことのある声だ。それも一度や二度ではない。毎朝同じタイミングで聞く声。


「こんなところで何をしてる」


 見上げた階段の先からこちらを照らす白衣の男はゆっくりと下ってくる。


「い、伊勢いせ……先生?」


 パーマが掛かった重い前髪と無精髭が目立つこの男は伊勢いせまこと。僕のクラスの担任の教師だ。

 普段から気だるげな雰囲気を纏っており、何かと覇気のない教師だという印象が根強い。


「伊勢先生こそ何でこんなところに……」

「なんでって……あぁー。そー言うことか。楓彩が言ってた男ってのはお前か」

「鬼月さんが?」

「その感じだと、事態は芳しくないらしいな」


 僕は伊勢先生に連れられて地上へと戻ってきた。

 いつにもまして鬼月邸は静けさに満ちており、今はこの静寂が不気味に思えた。


「で、楓彩はタマホウシに喰われたと……一歩間に合わなかったな」

「……すみません。僕が磯崎さんの傍に居ようと言い出したばかりに」


 居間でこれまでの経緯を伊勢先生に説明すると、先生は頬杖を突きながらため息を吐いた。

 我が物顔でくつろいでいる伊勢先生を見る限り、鬼月さんとの付き合いは昨日今日に始まったことでは無いらしい。


「まずい状況なのは承知していると思うが、楓彩は優秀だったな」

「え?」

「上ヶ丘、お前が悪食のタマホウシ討伐の鍵らしいぞ?」

「は、はい?」


 伊勢先生はスマホを取り出し机の上に置いた。


「楓彩が送ってきた作戦はこれだ」


 スマホに表示されたメッセージは「私と上ヶ丘さんで討伐します。伊勢先生にはバックアップをお願いしたいです」というものだった。


「ど、どういうことです?」

「なんだ、お前も聞かされていないのか……。まったくあのバカは」


 伊勢先生は苛立ちを表情に出した。


「伊勢先生は何か知っているんですか? 僕があの化け物相手に何かできることは無いと思うんですけど……」

「俺も同感だ」


 伊勢先生は飄々とした態度で鬼月さんが残した希望を展開せずに鼻で笑った。


「詳しい作戦については本人に聞くしかないな」


 伊勢先生の反応に僕は疑問符を浮かべた。


「本人って言ったって……鬼月さんはもう」


 言葉に詰まった。頭では分かっているのに体が実感していないのだ。


「……お前、何か勘違いしているな」

「え?」

「楓彩からどこまで聞いたか知らんがな、

「人を殺さない?」


 伊勢先生の言葉をすぐに信じることは出来なかった。僕が見てきたタマホウシというのは直感的に人を殺す形をしていたからだ。


「よく考えてもみろ。タマホウシの栄養源は生物の欲求だ」

「……それは知っています。僕も性欲を吸われているみたいですし……あ」


 自分が置かれている状況を考えてみてピンときた。


「気付いたか? 死んだ生物から欲求は生まれない。奴らが大切な栄養源を自ら断つような真似をすると思うか?」

「じゃ、じゃあ鬼月さんも!」


 興奮気味に身を乗り出した僕を宥めるように手を挙げると、伊勢先生は深刻そうな顔をした。


「生きてはいる……だが、時間の問題だ」

「なんで! 殺されないならひとまずは安心なんじゃ」

「普通の人間なら成体になりかけたタマホウシに捕まっても一週間は持つだろうな。結局は餓死するが。鬼月家の人間は例外だ。楓彩たちはな、タマホウシに欲を与えないための訓練を受けている」


 欲を与えない。すなわち自身に湧く欲求を抑える行為だと心得た。


「そんなことできるんですか」

「あぁ、常人では考えられない過酷な訓練の果てにな」


 僕が固唾を飲んだのをよそに「話を戻すが」と続けた。


「楓彩から欲が吸えないと気づいたタマホウシは白血球を差し向ける。いわば自浄作用ってやつだ。楓彩は今頃、無数のタマホウシに殺されかけているはずだ。そう意味で、時間が無い」


 鬼月さんが生きている。まだ僕に何かが出来るかもしれないと理解した途端、肩に重く圧し掛かっていた悔恨が緊張へと変わった。

 思わず振りかかった二度目のチャンスを前に僕は立ち尽くすことしか出来ない。


「仕方ない。フラッシュアイデアでも実践するぞ」

「……は、はい」

「上ヶ丘、お前タマホウシに喰われてこい」

「……はい……はい?」

「どっちにしろ、俺らみたいな一般人は鬼月楓彩に賭けるしかない。あいつの言葉を信じるしかない」


 伊勢先生の言葉は正しい。タマホウシという怪物に対して僕らは隻腕の少女に頼るしかないのだ。

 鬼月さんと連絡が取れない以上、実際に鬼月さんに会いに行くしか手段がない。すなわち、鬼月さんが生きていることと、タマホウシが定説通り僕を殺さずに飲み込むことに賭けるしかない……。


「お前はどうする。上ヶ丘」

「……僕は……」


 タマホウシに喰われる。それは僕の食欲が失われることを意味する。

 例え食欲を失ってタマホウシを倒せても、僕が助かる保証はない。磯崎さんが助かる保証はない。

 ふと、恐怖と責任に揺らされる僕の鼻孔を懐かしい匂いが刺激した。

 緊張でこの部屋の匂いに気が付かなっかったが、この部屋に入ってから漂っているがあった。 


「……ん? 先生?」

「?」

「僕に食欲が無ければ、少しは望みがあるってことですよね?」

「お前に欲求のコントロールが出来るとは思えないが」

「いや、一つだけあるんですよ。一歩間違えれば自殺行為ですけど」


 以前はあれほど絶望した匂いが、この場に限っては希望への道しるべに思えた。

 僕のトラウマを抉る行為ではあるが、背に腹は代えられない。鬼月さんが胸に抱えていた覚悟に比べれば安いものだ。



 僕と伊勢先生は再び地下の扉まで戻ってきた。

 相変わらず部屋の中でタマホウシは唸り声をあげている。


「おい、本当に大丈夫か?」

「だ、大丈夫……です」

「いや、お前がぶっ倒れないか心配しているんだが」


 僕は口元を抑えて吐き気を我慢しながら必死になって頷いた。


「そ、それじゃあ行ってきます」


 伊勢先生は僕と視線を合わせると、ゆっくりと扉を引っ張った。

 重々しく開く地獄の門を目の前にして、自然と肩に力が入ってしまう。

 暗闇の中へ一歩、また一歩と、足を踏み入れる。もう後戻りはできない。


「……来いよ」


 猛獣と目が合った。

 野生動物と視線を合わせること即ち喧嘩を売る行為に等しいと何かで読んだ気がする。

 恐怖のあまりこの場では役に立たないことを考え始める始末だ。こんな情けない奴をなぜ鬼月さんが守ろうとしたのか、今でも答えは出てない。

 だから、聞きに行く。


「―――」


 ―――迫る。

 猛獣の醜悪で鋭利な歯牙が己が欲を満たすために迫った。

 僕は恐怖で身体を硬直させながらも視界を覆いつくす闇からは決して目を逸らさなかった。

 視界がふさがれる。聴覚がふさがれる。嗅覚や触覚までもが生温かく不快な気配に遮られる。


「落ち――!」


 次に僕を襲ったのは浮遊感だった。

 先の見えない暗闇に吸い込まれていくような、否、堕ちていくような感覚。

 ――喰わせろ。――食わせろ。―――クワセロ。

 欲求であり生への恩讐。生存競争を生き抜くための原始的で野蛮な感情が頭の中へ流れ込んでくる。

 あぁ、吐き気がする。

 食欲の嵐を抜け、僕の視界に光が差す。

 緑が生い茂る原始的な空間が広がっていた。生物の腹の中だとは到底思えない景色に頭が混乱した。

 木々には痩せこけた人間らしき物が括りつけられており、その根元では生気を全く感じない人々が何かを貪っている。

 だが、この空間の主役は僕ら人間ではない。

 多種多様な野生動物たちが力尽きた人間たちを次々と喰らっていく。

 生物たちが生を謳歌する楽園の様であり、人間が駆逐される地獄でもある。

 そして、一際騒めく箇所を見つけた。


「――鬼月さん!」


 ゴリラ、象、ハイエナ……漆黒に染まる野獣たちが隻腕の少女を襲っている。

 落ちる。着地手段なんて無い。だけど今は、目の前で死にかけている命の恩人を助けたい。


「鬼月さぁぁ――うぷっ! オエェェェェェ!」


 腹の中をグルグルと回っていた不快感が叫びに釣られて吐き出された。

 原始世界に掛かる一本のミルキーウェイ。

 野獣たちは僕が生み出したミルキーウェイに掛かった途端、もがき苦しみ始めた。

 涙で滲む視界の中、鬼月さんと目が合う。


「――え、上ヶ丘さん⁉」

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