第6話

「――え、上ヶ丘さん⁉」


 自由落下する僕を見た瞬間、疲弊していた鬼月さんは目の色を変えて走り出した。

 地面直前、僕の体を温かな感触と衝撃が襲う。

 しばらく地面を転がり、止まった時には全身が痛みを襲い、口の中で土の味がした。


「はぁ……はぁ……上ヶ丘さん」

「や、やぁ……ナイスキャッチだね。鬼月さん」


 毅然を装う僕のことを鬼月さんは悲し気な表情で見つめていた。


「ごめんなさい、私……上ヶ丘さんを守れなかった……」

「あ、その点については大丈夫。僕は自分の意思でタマホウシに食われたんだ」

「え?」

「僕は、鬼月さんを信じてここまで来たんだよ」


 鬼月さんは目を丸くして僕の服を強く掴んだ。唇を震わせて何かを言いたげにした後、うつむいた。


「……しいなぁ」

「え? 今なんて?」

「何でもないです。それより! こんなところに居たら食欲を吸われてしまいます! 直ぐに身体が痩せて……痩せて……あれ?」


 鬼月さんは僕の体をまじまじと見つめて首を傾げた。


「何ともないんですか?」

「えっと……まぁ、うん」

 

 タマホウシに食われた人間は食欲を貪られる。今周りで右往左往している人々は悪食のタマホウシに魅入られて飢餓に苦しんでいる状態だと思われる。身体に骨が浮き上がり、死して尚歩き続ける地獄。

 僕がこの地獄で平然を保っていられる理由はとある秘密兵器を使用したからだ。



 話は数分前に遡る。

 伊勢先生の無茶振りに思える打開策を成功させるにあたって、僕はとある提案をした。


「楓彩の料理?」

「はい、これなんですけど」


 僕は台所に置いてあった黒い物体が乗った皿を持ってきた。


「うっ! なんだそれ、早く捨ててこい」

「いや、これオムライスらしいです」


 オムライスかどうかは知らないが、僕が以前食べた弁当の中身と形状が酷似していたため、オムライスと呼称した。


「昨日、これのせいで卒倒したんで」

「なるほど、午後の授業をサボった理由はそれか」

「これを食べれば、食欲が失せるんじゃないかと」

「た、食べるのか……これを。臭いを嗅ぎ続けるのではなく、食べるのか……」


 確かに、伊勢先生がドン引きするように、食べるのは少々やり過ぎかもしれない。


「まぁ、せっかく作ってくれたわけですし、食べますよ」



 結果、見事食欲を喪失させることに成功し、今もこうしてタマホウシの中で生きられているわけだが。


「おえっ……」


 正直、こっちもこっちで生き地獄だ。

 胃の中の物が無限に逆流してくる。


「いったいどうやって……というか顔色悪くないですか?」


 純粋な疑問の視線を向けてくる鬼月さんだが、絶対に言えない。鬼月さんの料理がゲロ不味いお陰で助かってます。なんて言ったらタマホウシより先に鬼月さんに殺される。


「ぼ、僕は大丈夫だよ……それよりも、鬼月さんの方は」


 鬼月さんの額から流れる血は既に乾いてはいるが、タマホウシに食われた時よりも更にボロボロになっている。


「……大丈夫です」

「鬼月さんはやっぱ強い人だ……」

「え?」


 僕だったら少し手を切っただけで騒ぎ散らす自信がある。

 だが、鬼月さんをほめちぎるのは後だ。


「鬼月さん、一つ聞かせて欲しい。今この瞬間で僕に出来ることを教えて欲しい。鬼月さんが僕にどんな可能性を見出していたのか、教えて欲しい」

「そ、それは……」


 鬼月さんは何か都合が悪いのか、視線を逸らした。


「頼むよ鬼月さん、このままじゃ――」


 次の瞬間、鬼月さんは掴んでいた僕の服を強く引っ張り投げ飛ばすと、地面に刺していた刀を抜き取って自身も飛び退く。

 紙一重なタイミングで巨大なゴリラが僕らがいた場所へ拳を振り下ろし、地面が大きく陥没する。

 気が付けば、先ほどまで僕の吐瀉物でもがき苦しんでいた野獣たちが辺りを取り囲んでいた。

 鬼月さんは刀を上段へ構え、辺りの敵影を確認する最中、尻もちをついている僕を一瞥した。


「仕方ない……か」

「鬼月さん?」


 鬼月さんは刀を地面に突き刺し、野獣たちへ背を向けた。

 瞬間、野獣たちは姿勢を低くするも、何かを警戒して足を踏み入れてこない。きっと困惑しているのだ。僕も鬼月さんの行動には困惑している。


「上ヶ丘さん、一つだけ、お願いがあります」


 鬼月さんはしゃがみ込んで僕の目をまっすぐ見つめてきた。


「逃げろ、なんて言わないでくれよ」


 鬼月さんは微笑みながら首を横に振った。そして頬を赤らめて僕の肩に手を置いた。


「上ヶ丘さん、お願いです、五秒……いえ、二秒で構いません」


 まるで慈しむような、優しくも強い瞳孔の奥に僕は囚われた。


「――ハグをしてください」

「……分かった」


 意味なんて分からない。だけど僕は鬼月さんの両肩を抱き寄せ、胸と胸を腹と腹を、耳と耳を密着させた。彼女の小さな背中に両手を回し、ほんの少し力を込める。


「あっ」


 鬼月さんは小さい悲鳴を上げながらも、右腕を背中へ、二の腕の半分で途切れた左腕を僕の肩に当てた。

 一秒。

 彼女の鼓動が振動して伝わってくる。息使いや全身が脈打つ振動さえ、密接に感じる。

 二秒。

 彼女の小さく、柔らかく、そして強い身体つきを感じた。僕が力を入れようとも彼女は決して折れない。だから少し力を込める。

 プラス半秒。

 鬼月さんは僕の体を手で撫でてから離れて立ち上がった。


「鬼月さん?」

「……ありがとうございます。これで―――」


 刀を地面から抜き、少女は怪物たちと対峙した。

 満足したような笑みを浮かべて、満たされたような気配を纏って。


「――勝ち確です!」


 跳躍の瞬間、土煙と衝撃波が視界を覆った。瞬きの隙に見えたのはほぼ同時に周囲を囲っていた野獣たちの首が刎ねられる光景だった。

 鬼月さんの姿を捉えることが出来ない。まるで風が野獣たちを切り刻んでいるかの様だった。


「すごい……」


 疾風は野獣たちを細切れにしていくと、原始世界の壁へと向かっていく。岩のように見えた壁に風が触れると汚泥のような血が噴き出す。

 直後、まるで悲鳴を上げているかのように地面が揺れ、直立するのも難しくなった。


「これ、ヤバくない?」


 鬼月さんは僕の目の前に着地し、身体を寄せてきた。


「上ヶ丘さん、掴まってください。吐き出されます」

「吐き……なに?」


 僕は鬼月さんの右腕に掴まり、迫りくる何かに備えた。


「来ます、深く息を吸ってください!」


 木々をなぎ倒し、生態系を洗い流す赤黒い津波が地面を張って迫り、やがて僕らを飲み込んだ。

 激流に流される中でも、僕は鬼月さんの腕にしがみつき、決して離さないよう力み続けた。呼吸が続かなくなったところで鼻に空気が触れた。


「――ぷはぁ!」


 流れ着いたのは、記憶に新しい鬼月邸地下の空洞だった。


「大丈夫ですか! 上ヶ丘さん!」

「あぁ……でも」


 鬼月さんの向こう、部屋の中央で獣のようなうめき声をあげる少女が立っていた。


「あぁぁっ……があぁぁ! 腹が……減った……母上……」


 磯崎さんの声には思えない老若男女が入り乱れたような奇怪な声が至極単純な欲求を哭する。


「鬼月さん、磯崎さんは」

「手遅れです。今すぐ楽に……っ!」


 鬼月さんは刀を握り直して、磯崎さんへと進むが、半ばで膝をついてしまう。

 彼女が無茶をしたのは明白だったが、ついに限界を迎えたのだろう。これ以上彼女の手を煩わせるわけにはいかない。


「くっ……あと一太刀なのに……」


 悔いる鬼月さんの下へ歩み寄り、肩に手を添える。


「大丈夫だよ、鬼月さん。後は僕に任せてほしい」

「上ヶ丘さん……?」


 僕はポケットの中に手を入れてもがき苦しむ磯崎さんへゆっくりと歩みだす。

 こちらの存在に気が付いた磯崎さんは憎しみに満ちた眼光を刺してきた。


「――わたしだって頑張ってるのに!」


 磯崎さんは顔を悲痛に歪めながら叫んだ。胸の中に隠していた本音を。


「……」

「わたしだって皆みたいに遊びたいよ!」

「……」

「友達とも遊びたいし、美味しい物だって食べたい!」

「……」

「部活だって! 全力でやってみたい!」


 あと三歩。


「なんで……なんでわたしばっかり我慢しなきゃいけないの……!」

「そんなになるまで溜め込んで」


 僕は臆することなく歩み続ける。ポケットの中の物をしっかりと握りしめ取り出す。

 磯崎さんの全てを知っているわけでは無い。ただ、彼女が抱えていた欲求への不満と自身への碇を考えると誰もが陥ったかもしれない事態なのだ。

 僕に出来ることは少ない。もはや無いのかもしれない。だが、今この瞬間だけ、僕だけが磯崎さんが自身を縛り付けている鎖から解き放つことが出来る。

 そう思えた僕は暗黒物質を包んでいるラップを剥し、磯崎さんの口元へ突き伸ばした。


「――これでも食って落ち着け!」


 暗黒物質を磯崎さんの口の中へ押し込み、無理やり飲み込ませる。いつ腕を噛みちぎられるかとヒヤヒヤしたが、鬼月さんの料理の破壊力はすさまじかった。


「が、が……あ、あああああああっ!」


 凄まじい断末魔と共に、真っ黒な吐瀉物を撒き散らし始めた磯崎さんから、少しばかり距離を取った。


「な、なにが起こって……」


 背後で鬼月さんが困惑しているのに気が付いたが、事情を説明する勇気が僕には無かった。


「ま、まぁ企業秘密ってやつで」

「む……」


 しばらくもがき苦しみ続けた磯崎さんは力尽きたように仰向けで倒れた。辺りには磯崎さんが吐き散らした黒い液体が広がっており、何とも醜悪な光景だった。

 僕は鬼月さんに肩を貸し、静まり返った磯崎さんの生死を確認しに向かう。


「い、生きていますね」


 白目を剥いてはいるが、浅い呼吸をしている。どうやら気絶してしまっているらしい。


「タマホウシは?」

「……か、完全に剥離しています。信じられません」


 というのも、近くの地面には既に虫の息となった子猫が横たわっていた。

 あまりにもか弱く、儚げな見た目をしている。


「この猫は……」

「もちろん始末します」


 鬼月さんはキッパリと答えた。

 僕に彼女のタマホウシ討伐を止める理由は無い。ただ、鬼月さんが子猫を斬る瞬間を見たくないと思ってしまったのだ。無論こんなのは楽観的で悠長だ。

 鬼月さんは僕の気持ちを知る由もなく僕の肩から離れて刀を子猫の首元に突き立てた。


『お腹……空いた……』


 小さな子供のような声が子猫から聞こえた。

 食欲という生物にとって至極真っ当で健全な欲求。求めることは罪ではない。食欲を否定することは決してできない。

 どちらかと言えば、僕や鬼月さんの方がか弱い生物を斃す巨悪なのかもしれない。

 鬼月さんが子猫の首を切断する時、どんな顔をしていたのかは知らない。ただ、これまで僕らを苦しめたタマホウシの最期がこんなにも晴れないものだとは思わなかった。

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