第4話
「うん……知ってる天井だ」
見覚えのある木目の天井。
僕は鬼月邸で目を覚ました。
「大丈夫ですか? 上ヶ丘さん」
すぐに鬼月さんの顔が視界を塞いだ。
「大丈夫……だけど、何がどうなってんの?」
「咄嗟のことだったので、ついKOしちゃいました……その、ごめんなさい」
「それは分かるんだけど……僕が聞きたいのはあの後、磯崎さんがどうなったのかとか……あと距離が近いこととか」
鬼月さんの顔も見ずらい距離だ。
「瞳孔の確認をしています……はい、大丈夫そうですね」
鬼月さんは満足したのか状態を起こした。
僕も釣られるように起き上がり、身体の調子を確認する。
少し眩暈がするのと胸が痛むが、動けない程ではない。
「状況の説明ですが結論から申しますと、臨さんはタマホウシに憑りつかれていました」
「っ! じゃあ僕のせいで!」
鬼月さんは首を横に振って僕の言葉を遮った。
「臨さんに憑りついているのは別のタマホウシ……“悪食”のタマホウシです」
「悪食……?」
「タマホウシに対して固有の名称が付くのはとても珍しい事ですが、同時に非常事態である事を示しています」
悪食のタマホウシ。
僕が性欲を奪われたのであれば、ニュアンスからして磯崎さんは食欲。
どちらも人間を代表する三大欲求ではあるが、食欲は日頃から無意識的に感じてしまう欲求だ。
「先ほどは、私の方が戦闘力が高かったため、タマホウシは臨さんの中へ還りました。しかし、倒せなかった以上、時間が経てば経つほどこちらが不利になっていきます」
鬼月さんは傍らに置いてあった刀を撫でながら言った。
「現在、磯崎さんは地下室に隔離しています。準備が整い次第、悪食のタマホウシ討伐作戦を決行する予定です」
「待って、タマホウシを討伐するのは分かったんだけど、磯崎さんはどうなるの?」
僕の質問に対して鬼月さんはすぐに答えなかった。
「……あの黒いライオンを倒せば磯崎さんは助かるん……だよね?」
何の説明もされなかったが、僕はタマホウシに対してそんな希望的認識を持っていた。
「あくまで経験談ですが、タマホウシが
鬼月さんは表情を一切揺らさずに話した。
口ぶりからして彼女はこれまでに何人もの被害者を処理してきたのだろう。
「鬼月さん……それは僕も例外じゃないってこと?」
「……はい。でも上ヶ丘さんは……その……」
鬼月さんの言葉が詰まり、妙な静寂が訪れた。
彼女が何かを隠しているのは明白だったが、同時にそれがとても言い辛い事なのだと悟った僕は話題を変えることにした。
「磯崎さんの様子を見ることは叶うのかな」
「可能ですが、上ヶ丘さんは磯崎さんとそこまで親しい仲なのですか?」
「初対面の僕に対してドロップキックを浴びせてくる子と仲いいわけないでしょ」
キョトンとする鬼月さんを尻目に布団の上に立ち上がる。
「ただ、このまま磯崎さんが死ぬのはモヤモヤするから」
というのも、僕の中で磯崎臨という短期間で痛烈な印象を残した彼女に引っかかる点があったのだ。
僕を容疑者扱いしたこともそうだが、もっとも、彼女の表面に滲み出る性格に対してだ。
「それに、磯崎さんがわざわざタマホウシを追いかけていた理由も知りたい」
「上ヶ丘さんがそう言うのであれば……」
◇
僕はバットケースを担いだ鬼月さんの後に付いて行き、屋敷の最奥の部屋に到着する。
照明は一切なく、外から届く光が微かに寂れた襖を浮かび上がらせていた。
「ここです」
「……幽霊が出そうだね」
鬼月さんは慣れた手つきで襖に掛けられていた錠を外し、ゆっくりと襖を引いた。
部屋の中は更に暗く、ひんやりとした空気が漂っている。
鬼月さんは躊躇うことなく部屋の中を進み、床にあった鉄製の扉を持ち上げるように開いた。
「この下です」
鬼月さんは懐中電灯を取り出し、石畳の階段を照らして進んでいった。
僕は息を呑んで鬼月さんの後を追う。
「お、鬼月さん、地下室って結構深い?」
「はい、本来はタマホウシを捕縛するための部屋ですので、いざとなれば屋敷事爆破して山の中に埋められるようになっています」
「へ、へぇ」
「まぁ、鬼月家の中でも都市伝説のようになっていますけどね。この屋敷のどこを探しても見つからないんですよね、爆破スイッチ」
「ば、爆破……」
野蛮なワードに虚を突かれたが、よく考えれば何かと戦う一族という肩書だけでもかなり物騒だったため、深く考えるのをやめた。
「着きました」
階段を下ること十分弱。
姿を現したのは城門の様な立派で巨大な開き扉だった。
「少し下がってください」
鬼月さんは門に括りつけられていた縄を握りしめると身体全体を使って引っ張った。
地響きのような重々しい音と共に一人分の隙間が開く。
「さぁ、行きましょう」
窮屈な隙間を通ると、現れたのは学校のサッカーコート二個分はあろう空間だった。
まるで洞窟の中のような自然の岩盤を削って作られたであろう四方の壁、最奥には鳥居と祠のような建物が見える。
「い、磯崎さん」
磯崎さんは身体に鎖を巻きつけられ、原始的な方法で部屋の中央に拘束されていた。
「彼女が意識を取り戻した瞬間、タマホウシも共に覚醒する可能性がありますので、あまり近づき過ぎないようお願いします」
「わ、分かった」
僕を制した鬼月さんは刀をバットケースから取り出して磯崎さんの近くへと歩み寄る。
再びタマホウシが襲い掛かってこようものなら磯崎さんごと切り伏せる気迫が背中に宿っていた。
「磯崎さん、磯崎さん」
纏っている覇気とは裏腹に鬼月さんは刀の柄で優しく磯崎さんの肩を揺らした。
「んあ……楓彩さん……と、上ヶ丘先輩?」
「ご気分はどうですか?」
「え……えっと……え! なにこれ! なんで縛られてるんすか!」
なぜか真っ先に僕のことを睨んでくる磯崎さん。
「安心してください、上ヶ丘さんの変態プレイではありません」
鬼月さんが弁明してくれたのはありがたいが、もう少し角を立てない言い方はできなかったのだろうか。
「じゃあ何で縛られるんすか!」
磯崎さんも磯崎さんで僕以外の要因が見当もつかないらしい。
「お、鬼月さん、状況の説明をお願いします……」
鬼月さんは思い出したように顔をハッとさせて、混乱している磯崎さんにタマホウシの存在や生態、磯崎さんが置かれている状況を掻い摘んで説明した。
やはりというか、磯崎さんはピンと来ていない様子だった。
僕が説明を受けた時よりは理解しやすい説明だったが、根本的に信じられないのは磯崎さんも同じだったらしい。
「え、普通に意味わかんないっす……こんなの飲み込める人いるんすか?」
僕は静かに挙手した。
「バカじゃないっすか」
やだこの子、言葉が鋭い。だが、腐りに縛られている以上、子犬が吠えているようにしか見えない。
「でも、臨さんも心当たりが無いわけではないですよね? 今話した内容で何か思うことはありませんか?」
鬼月さんは物腰柔らかな口調で混乱する磯崎さんを宥めた。
「……それは……まぁ、言われてみればそうだったのかなーって言うのはあるけど……」
「詳しく教えていただけませんか?」
磯崎さんは急にしおらしくなり、何度か鬼月さんの顔を見た後、ぎこちなく話し始めた。
「一ヶ月前の話なんすけど……バイト終わりに買い食いをしようとコンビニに寄ったら、手のひらサイズの可愛い黒猫が寄ってきて……ホント、興味本位で抱き上げたら……」
「食欲を失った……ですか?」
磯崎さんは「なんで分かるの?」という目付きで小さく頷いた。
「わたしの家、貧乏だし、弟たちを優先して食わせてたからいつも腹ペコで……最初の内は食欲が無いの最高って思ったすけどね」
磯崎さんは困り笑顔を浮かべた。すぐに「だけど」と口調を重くして続けた。
「その猫、わたしの前に現れるようになって……大きくなったな、とか思ってたら人を襲い始めて……」
「じゃあ、もしかして磯崎さんがタマホウシを追いかけていた理由って」
何となく話の先が読めた僕は口を挟んだ。
「まぁ……そう言うことっす。朝わたしの腹から出ていって、夕方になると帰ってくる……行動サイクルが分かれば何とか止められないかなって」
口調は荒いし、早合点するところもあるが、磯崎さんは人一倍責任感が強いのだろう。僕は彼女のそんなところを感じていたからこそ、放っておけなかったのだろう。
僕だったら、自分のタマホウシが他人を襲っていたとしても一人で行動出来ない。
「そ、そんな事より!」
磯崎さんは声を荒げて鬼月さんを見上げた。鬼月さんが手にしている刀を気にしながらも、気丈な態度は崩さなかった。
「いつ解放されるんすか? わたし、バイトがあるんすけど! それに弟たちの晩御飯も作らなきゃいけないし……」
磯崎さんは不安を露わにしたが、鬼月さんは立場を据えて同情を見せることは無かった。
僕はというと胸が張り裂けそうなくらい心苦しいが、鬼月さんの意見無しに磯崎さんの自由を決めることは出来ない。
「こんなことしてる暇ないんすよ……」
一転して今にも泣きそうに声を震わす磯崎さんに対して、僕は気の利いた言葉をかけることは出来ないだろう。だけど、何もしないのは僕の良心が許さなかった。
「まぁ、安心してよ、この鬼月さんはタマホウシ退治のエキスパートだからさ」
「ほ、本当なんすか? 楓彩さん……」
「え? まぁ……そう、なのかな? えへへ……エキスパートなんてそんな」
めちゃくちゃ嬉しそうに笑う鬼月さんだが、そんな能天気さが空気を少しだけ和らげてくれた。
「不安だろうけど、鬼月さんを信じてみてよ。今日は僕もここに居るからさ」
「で、でも……楓彩さんの話が本当ならいつわたしの中からあの猫が出てくるか分からないんすよね?」
「そうだけど……」
僕は鬼月さんに視線を送った。すると、鬼月さんは「任せてください」と言わんばかりに胸を張って得意げな顔をしていた。さっきの煽てが効いているらしい。
「これ以上、あの猫が誰かを傷つけるのはもう見たくないっす」
「大丈夫、もう誰も傷つかないよ。今は磯崎さんの心配をした方が良い」
「……」
「まぁ、飽きるまででいいから、磯崎さんの事聞かせてよ」
「え?」
「いや、変な意味じゃなくてさ……暇だし」
◇
ロウソクの火だけが光源の仄暗い部屋で適当な話題を見つけては暇をつぶすこと数時間。スマホの時計は午後十時を過ぎていた。
「じゃあ、磯崎さんは弟たちの食費を稼ぐためにバイトを三つも掛け持ちしてるんだ。えぐくない?」
「体力だけは自信あるんで。でも週九で働かないと家計が回らないし、お母さんばっかりに苦労かけてられないっすよ」
「大人だなぁ……後輩とは思えない」
「大人……かぁ」
「なんか複雑って顔してるな?」
「はい……だってわたしまだ高校一年っすよ? 大人になった覚えなんて無いっす」
「まぁ、余計なお世話だったら跳ねのけてもらって構わないんだけど、そんな焦る必要ないんじゃない? 少しは親の偉大さを信用して見れば?」
「偉大さ……すか」
磯崎さんの言葉が暗くなったのを察知し、咳ばらいをして会話の交換を試みる。
「ごめん、ちょっと踏み込み過ぎた」
「いえ……というか、楓彩さん、寝てないっすか?」
「え? いくら何でもそんな不用心な……寝てるし」
いつからかは分からないが、鬼月さんは体育座りをして寝ていた。さっきまでの頼もしい言葉を録音しておけばよかったと後悔する。
「ぱ、パンツ丸出しだし……先輩! 見ちゃダメっすからね!」
「はいはい……すみません」
パンツなんて気にもならなかったが、これ以上鬼月さんに視線を向けていると後が怖いので、わざとらしく視線を逸らした。
「というか、先輩も寝たらどうっすか?」
「磯崎さんが寝たら寝るよ」
これ以上の会話は無く、仄暗く涼しげな空間は不気味さを除けば睡眠にはもってこいな場所なことも相まって、僕よりも先に磯崎さんが眠ってしまった。
「……」
二人の寝息の向こうでロウソクの炎が揺れる微かな音さえよく聞こえる。
次第に僕の意識もぼんやりと重くなっていき、視界が明滅しだす。
意識が堕ちた一瞬。不意に風が頬を撫でた。
「?」
眠たい目であたりを見回しても風の通り道になりそうな場所は見当たらない、というか見えない。
気のせいだと、気に留めず睡眠へ入ろうとしたその時。
「?」
今度は低い風鳴りが意識を遮った。
先ほどまでに静かだった空間の騒めきに気が散ってしまう。
風鳴り? いや違う。これは生き物が唸るような……。
「――鬼月さ―――!」
意識を叩き起こした。理解した訳でも判断したわけでもない。ただ、脳に迸った危険信号に従ったまでだ。
刹那。
暗闇から伸びた黒爪が鬼月さんの振るう刀に弾かれる。
続いて、鬼月さんは俊敏な身のこなしで僕の腹を抱えて磯崎さんから離れていく。
咄嗟に捉えたのは猫と呼ぶには化け物じみた形態のタマホウシが磯崎さんの体を影の中へ引きづり込む姿だった。
程なく、僕は乱雑に転がされ、鬼月さんは額から血を流しながらタマホウシと対峙した。
「ようやく出てきましたか……。上ヶ丘さん、一つだけ頼みごとをしてもいいでしょうか」
「あ、あぁ! 僕に出来ることがあるか分からないけど!」
「――逃げてください! 全力で。さもないともう一度蹴ります。今度は全力で」
これまで感じたことのない緊張感が胃を締め付けた。鬼月さんとタマホウシが放つ気迫が空間に充満していき、生まれて初めて殺気という物を感じた僕の体は胃の中を物を押し上げ始める。
「……で、でも」
「あれを見ても何かできると思いますか?」
磯崎さんが猫と読んでいたタマホウシ。二足歩行へと進化し、上半身は筋肉の塊のような巨躯へと変わっていた。
「これほどまで臨さんの食欲が強いとは想定外でした。ここは私が食い止めます。上ヶ丘さんは応援を呼んでください」
「それじゃ、鬼月さんが――!」
僕が抗議しようとした次の瞬間、遮るように鋭く重々しい風切り音が迫った。
吹き荒れる突風により、僕の体は紙切れの様に吹き飛ばされ、入ってきた鉄製の門に叩きつけられる。
「いっ……!」
鬼月さんの痩躯はタマホウシが繰り出した剛腕を受け止めてはいるが、今にも叩き潰されそうだ。
「か、上ヶ丘さん! 早く逃げてください! あなたまで餌食になったら――」
言下、タマホウシの逆の腕が鬼月さんの無防備な左わき腹を捉える。
何か硬い物が割れるような音と共に吹き飛ばされた鬼月さんは二回ほどバウンドして右方の壁に激突した。
「お、鬼月さ……」
鬼月さんの身を案じる前にタマホウシの鋭い眼光と目が合ってしまった。瞬間、全身の筋肉が脈打ち、何か見えないものに縛り付けられているような錯覚に陥る。
タマホウシは慈悲など微塵も感じさせず僕の下へ突進を開始した。
鈍重な足音が何度も地面を揺らす。次第に大きく、激しくなっていく死の雪崩は一瞬で眼前に迫った。
気が付けば麻痺は肺に達していた。
「――」
身体は動かないはずなのに景色が後方へ進んでいく。
何か強い力に弾かれて僕の体は門の外へ出た。
重々しい門がタマホウシの姿を隠していく最中、見えたのは血塗れになった鬼月さんがタマホウシの巨大な口の中へと消えていく光景だった。そこでようやく僕の体を突き飛ばしてくれたのが鬼月さんだったことに気が付く。
「え、は? ……鬼月……さん?」
ただ逃げて、と。僕を守ってくれた年下で隻腕の少女はあっけなく消えてしまった。そんな現実に理解が追い付かない。
ジワジワと無力感と自信に対する苛立ちが胸の中で充満していき、やり場のない感情は嗚咽となって口からひり出された。
「どう……して……!」
僕のために鬼月さんがここまでする理由が分からなかった。友達でもなければクラスメイトでもない。お家の責任を果たすにしても度が過ぎている。
彼女の底知れない善意と自分の無力感に吐き気が止まらない。
タマホウシが何度も扉を叩いている。
臓器を揺るがす騒音が暗闇の中で立ち尽くす僕を糾弾しているようだった。
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