第2話

 放課後からさらに時間が経ち、空はすっかり夜色に染まってしまった。

 いつもなら夕飯のことを考えている時間なのだが、今日は目の前を歩く隻腕の後輩女子、鬼月楓彩のことで頭がいっぱいだった。


「あの、お、鬼月さん?」

「質問は家に着いてからでいいでもいいですか? その方が何かと都合がいいんです」


 こんな感じではぐらかされ続けている。

 僕はいつもの通学路から大きく外れ、普段は踏み入ろうとも思わない山道に差し掛かっていた。

 急な坂道を登り、自分たちが住む小田原おだわらの街を俯瞰できる高さに来ても鬼月さんは鼻で息をしていた。

 僕の方はは足腰の震えを抑えるので精一杯だ。


「あと少しです」

「……じゃなきゃ困る」


 ただでさえ僕の情緒は限界を迎えている。その上、肉体を酷使しようものなら三日は寝込む自信があった。

 鬼月さんの言葉通り、目的地はすぐに現れた。

 山の木々に囲まれ、何か神秘的な雰囲気を放つ日本家屋。

 僕が暮らしてきた喧騒とは一切隔絶された異空間の装いに、僕の足の震えは止まった。


「私の家です。少し遠かったですね。お疲れ様です」


 汗一つ見せない鬼月さんは一息入れる隙もくれずに玄関を開き、僕を中へと招き入れた。

 玄関を潜ると、木の香りが鼻孔を抜けていき、ただ頭の中に禅の一文字が浮かんだ。

 禅の具体的な意味は知らない。そんな雰囲気がするだけだ。

 玄関を抜け、鬼月さんに促されるまま六畳ほどの居間に通される。


「お部屋の準備をしますので、ご家族の方に連絡を入れるなり、安否確認をしてあげてください。今夜は残念ですがご帰宅は出来ないのでそのつもりで」


 とだけ言い残して、鬼月さんは居間から出ていった。

 何か質問する暇さえもらえなかった。


 半ば強引に連れてこられたが、彼女の立ち振る舞いと静謐さあふれる雰囲気に拉致されたという物騒な印象は抱かなかった。

 むしろ落ち着いている自分がいる。

 僕は鬼月さんの配慮に従い、スマホを取り出して母親に一報を入れた。

 ちょうど、夏休み前の期末テストが近い事もあり、勉強合宿のために友達の家に泊まるという言い訳ができた。


「……それにしても」


 静かすぎる。

 聞こえるのは木々の騒めきと、家の中で鬼月さんが歩き回る音だけ。

 タマホウシとは一体何なのか、美川先輩はどうなったのか、僕はこれからどうなるのか……様々な問題が頭の中に生まれてくる中で、なぜか一際目立った疑問は鬼月さんはこんな広い家に一人で暮らしているのか、という緊張感のない疑問だった。


「上ヶ丘さん、お部屋の準備が出来ましたので、こちらへどうぞ」


 今の入り口から顔だけを覗かせた鬼月さんに呼ばれ、広い屋敷のさらに奥へと進んでいく。

 途中、廊下の右手に現れた日本庭園のような情緒あふれる中庭に目を奪われた。

 夜ながらも、灯篭の薄明かりが点々としており、敷かれた砂利や、石畳、小池を温かく照らしていた。

 ここが旅館なら繁盛しそうだが、この静寂を破るのも申し分ない。


 などと緊張感を紛らわせるように考えを巡らせていると、鬼月さんが足を止めた。

 そして、襖をあけて僕の行き先を促してくれる。


「壁や障子に穴を開けなければ、ご自由に使っていただいて大丈夫です。あ、ネットも繋がりますのでご心配なく!」


 と、やや自慢げに紹介された部屋は居間よりも更に広い十二畳ほどの和室だった。


「生活に必要な物はだいたい揃っているとは思いますが、足りなければいつでも申し付けてください」

「え、いや……いろいろ待って欲しいんだけどさ」

「はい、あ、お風呂の場所とかお手洗いの場所もまだでしたね」

「違くて」

「?」

「僕がここで暮らすことになる理由を完全に理解していないというか、絶賛混乱中というか」


 鬼月さんは分かりやすくキョトンとした表情を浮かべた。その後、しばらく思考したのか表情を固まらせた後、「あぁ」と何かに納得した様子で部屋の中心へ誘導してきた。


「そうでしたね、いきなりの事でしたもんね。今から説明するのでどうぞお座りください」


 鬼月さんが敷いた座布団の上に腰を下ろすと、鬼月さんも自分の足元に座布団を敷いて綺麗な所作で腰を下ろした。


「まず、上ヶ丘さんはタマホウシに侵されています。ここまでは大丈夫ですか?」

「いいや? まったく?」


 まずタマホウシが何なのか。侵されるとは。鬼月さんの語気からは冗談の気配を感じない。

 だが、乗っけから置いて行かれるとは思わなかった。


「……えぇと……そうですね。ではまずタマホウシの説明からですね」


 僕は強く頷いた。


「タマホウシというのは、生物全てが持つ欲求を糧にしている生命体です。生物に憑りついては欲求を吸い取り、成長し、やがて宿主本体すらも喰らいつくして成体となります」


 鬼月さんは淡々と説明した。


「き、寄生虫ってこと?」

「半分正解です。ただし、虫と違って実体らしい実体を持たないので半分不正解ですね」


 何かの授業をしているようなテンションで鬼月さんは話を続けた。


「ここから、当初の質問に戻るのですが、上ヶ丘さんは今、タマホウシに侵されています。段階で言えば孵卵状態。上ヶ丘さんのお腹の中でタマホウシの卵が孵ろうとしている状態ですね」


 ふと、腹の辺りが重くなるのを感じた。

 まさか、SFスプラッター映画のように先ほどの様な化け物が腹から出てくるわけでは無いと信じたい。


「このままいくと上ヶ丘さんの腹から先ほどの化け物が這い出てきます」


 信じたかった。


「それはそうと、上ヶ丘さん?」

「な、なに……?」

「ここに来るまでに、ご自身の変化に気づかれていますか?」


 もう勘弁してくれと心の中で呟きながらも、僕はタマホウシに襲われてから鬼月さんの家に来るまでを思い返してみた。


「……分からないな」

「では、分かりやすくしてみましょう」


 鬼月さんは「少し待っていてください」と言って小走りで部屋の外へ出ていった。

 数十秒後、鬼月さんは紙袋を右手に抱えて戻ってくる。


「これを読んでみてください」


 鬼月さんから受け取った紙袋から出てきたのは一冊の雑誌だった。

 表紙から分かるのは成人向け雑誌ということ。


「えっと」

「読んでみてください」


 状況に混乱しつつも、判断力を欠いた僕は言われるがまま雑誌を開いて視線を落とした。

 表紙のイメージ通り、ページをめくるたびに女性のヌード写真が現れる。

 鬼月さんの視線を感じながら次々と女性の裸を見ていく。

 誰が気に入ったとか、どの女性が凄かったとか、そう言った感想は出なかった。

 ただ、この緊張感の中興奮するほど性欲が強いわけでは無いと思ったが、何かが違う。

 筆舌しがたいが、


「どうですか?」

「……女子高生がこんな物を持ってちゃいけません」


 ただ、その感想だけ。鬼月さんは期待通りの感想じゃなかったのか、ほんの少し肩を落とした。


「実感が沸きづらいのかもですね。――ちょっと失礼します」

「え?」


 息を吸って、吐いた一瞬の隙。

 鬼月さんは僕の瞬きに合わせて動き出した。

 反応させる隙すら与えず間合いに入ると、右腕を僕の股間へ伸ばしてくる。

 そしてひと揉み。


「……」

「……」

「……ちょ、えぇっ⁉ 何してんの!」


 転がるように後退り、真面目な顔をしている鬼月さんの正気を疑う視線をぶつけた。


「やはり、まったく反応していませんよね」

「いやいやいやいや! めちゃくちゃ驚いてるのが分からない⁉」

「そうではなく、上ヶ丘さんあなた今、性欲を感じていませんよね」


 言われてみてもピンとは来なかった。


「恐らく、瑛太さんは今、他人に対して無関心な状態です。特に女性には興味を示さないと思います。それだけではなく、やる気が無くなったり、もう全部が面倒くさくなったりします」

「五月病?」


 僕の言葉を「違います」と叩き切った鬼月さんは続けた。


「上ヶ丘さんが感じるはずの性欲はタマホウシが吸い続けている状態です。なので、これからはなるべく性欲が高まる行動は避けてくださいね」


 なるべく性欲を感じないように……というのは具体的にはどういうことなのか全く見当もつかなかったが、一つだけ明らかになっていることがある。


「それってさ、無茶振りだよね」

「はい、無茶振りです」

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