ハーフ/グリード

取内侑

悪食

第1話

 今では顔も名前も思い出せない、遠い昔に出会った女の子の姿を夕焼けに染まる性欲が上書きしていく。

 眼前に迫る先輩女子の唇、制服の隙間から潜り込んできた細かな指、胸に押し当てられた温かな柔肌……。

 放課後の空き教室。こんな背徳的な初体験をするとは夢にも思わなかった。


瑛太えいたくん……可愛い」

「それ、褒めてないです……」


 蠱惑的な笑みを浮かべる美川みかわ明日実あすみは僕の一つ上の先輩だ。

 学校全体でも上位に食い込むほどの美人で男子生徒からすれば彼女を物にしたなら青春は安泰と言われている。

 そんな憧れの女子が胸元をはだけさせ、僕に迫っていた。


「動かないで……」

「っ」


 生まれて初めてのキス。

 美川先輩の香りに包まれると同時にひとつまみの後悔の味がした。

 妙な感覚だ。

 キスによって生じた高揚感も刹那的な物で、一呼吸を置くと綺麗になくなっていく。


 今の僕の心は無だ。

 たった一回のキスで思考を奪われたような、ぼんやりとした感覚に襲われた。

 唇が離れ、頬を紅潮させた美川先輩の顔が視界を塞ぐ。

 あれほど思い出したかった誰かが霧の中へ消えていった。

 彼女の外見的特徴一つ一つに恍惚とする自分に対して恐怖すら覚える。


「はぁ……まだ序のく――」


 捕食肉を目の前にしたような凶暴で艶美な表情に僕は考えるのをやめた。身体を動かすのをやめた。

 このまま彼女の好きにされるなら楽でいい。


「――え」


 一瞬の出来事だ。

 僕が良く知る美川先輩の美顔はバットケースのようなもので横から殴打され、ブサイクに潰されていた。

 ショッキングな光景は脳裏に焼き付く間もなく、美川先輩の身体は大きく吹き飛んで空き教室に並んでいた机や椅子をなぎ倒したのち、教卓を粉砕する。

 あまりにも唐突すぎる一部始終は、陶酔していた僕の意識を叩き起した。


「え……は?」


 黒板の下で項垂れている美川先輩をじっと見つめる。

 生きているのか死んでいるのか、この距離では分からない。というか、何が起こっているのか分からない。

 突然の凶行。

 僕はその犯人を捜索するためにゆっくりと眼球を右へ転がした。


「はぁ……はぁ……」


 視界の先に立っていたのは一人の女子生徒。

 胸元の赤いリボンを見る限り下級生。

 第一印象。可愛らしい子だと思った。

 青みがかったショートボブの髪型に、美川先輩と較べても明らかに儚いプロポーション。

 真っ白な頭では彼女が凶行に及んだ理由は検討もつかない。

 もうひとつ、彼女を形容するうえで、欠かせない身体的特徴があった。

 彼女の左袖には何も入っていなかった。

 垂れ下がった左袖は教室に入ってくる風に遊ばれて揺れている。


「何を……」


 凶行に及んだ彼女は肩で息をしながら悲し気な表情で僕を見つめている。

 なぜ彼女が被害者面をしているのか意味が分からない。ただ、沸々と苛立ちが込み上げてきた。


「お、おい……お前、何をして……何をしてんだ」

「あ……わ、私は……」


 犯人を捕まえるのが先か、美川先輩を助けるのが先か。

 どちらかなら間に合う。

 普段なら迷うことなく消極的な選択をする僕が、今だけは目の前で泣きそうな顔で立ち尽くす隻腕の少女を捕らえたくて仕方がなかった。


「……ふぅ」


 隻腕の少女は軽く深呼吸をすると、今にも泣きだしそうな顔をしまい込んで、凛とした目付きで改めて僕を見つめ返して来た。


「お、お怪我はありませんか?」

「は、は?」


 急な気遣いに言葉が遅れる。


「……危険ですので、動けるようでしたら少し下がっていてください」


 毅然とした態度で彼女は注意勧告をすると、右手で器用にバットケースを開ける。

 めくれていくバットケース中から日本刀の柄が姿を現す。

 少女からは似つかわしくない暴力の臭いがずっと漂っていた。

 次第に臭いは気配へ変わり、鳥肌となって僕の全身を包み込んだ。


「えい……た……くん?」


 僕の意識が隻腕の少女に囚われかけたところで、視界の端で鮮血に染まった美川先輩がゆっくりと起き上がろうとしているのが見えた。

 隻腕の少女と僕の間に美川先輩の存在が割り込み、我に返った。

 謎解きは後だ。

 今は怪我人の救護が優先だろう。

 僕が美川先輩へ駆け寄ろうと右足を出した瞬間、隻腕の少女は冷徹な眼差しと共に、足に挟んだバットケースから日本刀を振り抜いた。

 混乱する頭ではそれが本物なのか玩具なのか判別がつかない。

 夕日を反射する刀身が橙色に燃え、より一層、視界を現実離れさせていく。

 などと、見惚れていると隻腕の少女は冷えた足音を響かせ、小鹿のように立ち上がろうとする美川先輩へと向かっていった。


 僕は身震いしながらも、無理やり恐怖を振り払ってユラユラと揺れる空っぽの左袖を掴む。


「――えっ」


 すぐに隻腕の少女は不思議そうな表情で振り返ってきたが、驚きたいのはこっちだ。


「ちょ、離してもらえますか?」

「何……する気だ」

「あの方を始末します」


 耳を疑う余地は無かった。というか聞かずとも何をするかは想像が出来ていた。だけど頭のどこかでこの状況を認めたくなかったのだ。


「瑛太……くん……」


 美川先輩の声に似た不協和音が僕の意識を引き付けた。

 腹の底では違和感を感じているのに、僕の本能は彼女の声に抗えず美川先輩の肢体を貪りたくなる。その唇を、その胸を、その脚を……全部……僕のだ。


 次の瞬間、空気を切り裂く甲高い音と主に、目の前に火花が散った。見えたのは黒い帯のような物と刀がぶつかり合う刹那。

 まるで頬を叩かれたような衝撃に僕は正気と狂気の狭間を揺れる。


「―――え」

「……あなたらしい姿になりましたね」


 美川先輩の完璧なプロポーションは鈍い音を立てながら、黒く変色していった。制服を突き破って鋭利な脚が現れる。

 程なくして巨大な蜘蛛の形が完成する。

 もはや見る影は無い。膨大すぎる情報の壁を前に、気が付けば僕の腰は抜けていた。

 バケモノと化していく恋仲の相手を目の当たりにしながら意識を保っていることが不思議なくらいだ。


『小娘が……邪魔をするな』


 腹の底に響くような鈍重な声が教室に反響する。

 まるでいくつもの人間の声が混ざり合ったような不快極まりない声だ。


「なら場所は選んでください。学校はそう言ったことをする場所ではありません」

『ほざけ、出来損ない。その三本足で私に勝つつもりか?』

「十分です」


 隻腕の少女はその痩躯に見合わない重圧を放っていた。

 虫一匹はおろか、余分な空気さえも怪物と少女の間合いから退いているように見える。戦争を経験した老人でもこんな圧は出せないだろう。


「――」


 キッカケが何だったのかは分からないが、隻腕の少女と蜘蛛の怪物は同時に動き始めた。

 突進する隻腕の少女へ蜘蛛は鋭利な脚を雨のように降らせる。一発一発が銃撃のような勢いで床を抉り、教室を震わす。

 だが、隻腕の少女は驚異的な反射神経でもってそのすべてを躱す。そして行く手を阻む脚を回転する勢いを利用して切断していく。

 

 対する蜘蛛は足元で小回りを利かせる隻腕の少女を捉えられずに、酔った踊りを披露することしか出来ずにいた。

 やがて、隻腕の少女が胴の直下に入る。


『―――』


 刀を逆手に持ち替え、柄を胸に押し当てると、床が陥没するほどの力を込めて胴体目掛けて跳躍した。


 劈くような断末魔が教室の窓ガラスを粉砕する。

 あまりにも一方的に勝負は決した。


 だが、少女は攻撃の手を緩めなかった。


 床に伏せた蜘蛛の上に乗り、刀を順手に持ち替えて頭部へ刀を振り下ろす。

 蜘蛛が黙るまで、何度も、何度も何度も……刀を振り下ろした。

 猟奇的な光景に僕は呼吸以外の行動が出来ず、少女の乱れ狂う後ろ姿をただ見ていることしか出来なかった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 静寂と醜悪な死の匂いが教室の中に充満すると、隻腕の少女はまたしても唇を噛みしめて悲し気な表情をした。

 一時は目を囚われていた僕だったが、ことが終わったことを認識すると無意識に力が入っていた肩を落とす。

 ムードに包まれていた教室は見る影もなく、蜘蛛の怪物は頭部を失って床に伏せていた。


「――はぁ……はぁ……」


 自然と溢れ出た涙で滲む視界の中、返り血に濡れる隻腕の少女を改めて見つめた。

 僕の視線に気づく様子もなく、怪物の背中へ日本刀を突き刺した。直後、怪物の身体は泡となり、刀へ吸い込まれるように消えていく。


「――ふう」


 と、隻腕の少女は刀を軽々しく振り払い、何を考えているか分からない無表情を僕へ向けてきた。


上ヶ丘かみがおか瑛太さん……ですよね?」


 この際、否定したかったが彼女は初対面であるはずの僕の名前を言い当てると、大股で僕の下へ歩み寄り、屈んだ。


「ご無事で何よりです。私は鬼月おにつき楓彩かえでと申します」


 鬼月おにつき楓彩かえでは先ほどまでとは打って変わって物腰柔らかな口調で右手を差し伸べてきた。

 僕は困惑の視線で差し出された右手と、鬼月楓彩の顔を交互に見た。


「……み、美川先輩は……」


 分かり切った質問だ。だが、ちゃんとした答えを貰えなければ改めて目の前の惨状を胸に落とすことができない。


「彼女はでした。残念ですが、既に死亡しています」

「た、タマホウシ?」


 僕のこれまでの人生にタマホウシなんて単語は無かった。語感と先ほどの蜘蛛を指していることから、何かの妖怪であることは推察できる。


「突然ですが、上ヶ丘さんはこれから沢山の辛いことを経験します」


 息を呑んだ。もうこの際、なんで? と聞くだけ無駄な気がしたのだ。これ以上情報が増えても僕が困るだけだ。


「だけど、安心してください。私があなたを


 強気な笑顔。

 狂気さもあり、なぜか優しさも感じるその破顔に自ずとぎこちない笑顔を返す。

 僕の懸念を知る由もない鬼月さんは状況を更なるカオスへと導いた。


「そこでご相談なんですけど……いえ、ほとんど命令になっちゃうんですけど――私と一緒に暮らしてください」

「は、は?」

「さもないと超早死にしますよ?」


 これが僕と鬼月おにつき楓彩かえでの出会いだった。

 贅沢を言うのであれば、もっと殺伐としていないくて、僕が理解しやすい状況だったら彼女に対する第一印象ももっと良いものになっていただろう。

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