4-3 真雪さんの秘密

 しばらく経ったある日。

 私は一日、風邪で学校を休んだ。


 翌る日、きのう提出できなかったレポートの宿題を、石川先生のいる教官室へ出しに行った。

 ノックしたドアを開けると、先客のいる気配がした。その場がどうやら不穏なようすであることは、すぐに伝わってきた。

「……お前なあ」

 石川先生の声だ。

「机の下で悪さしてるのなんか、教壇から見たら一発でわかるんだよ。しかもあたし、二度注意したと思うけど」

「そ、それは……」

 もう一つの声の主は、どこかで見たことのある顔だった。たぶん後輩だろう。染めているのだろうか、ベリーショートの髪色がやや明るい。

「あんたの授業が、つまらないから……」

 私なら絶対にいえそうにない台詞を耳にして、一瞬、肝が冷えた。

「ほーん」石川先生はそれをわざと鼻で笑うように、「あたしの話が初歩的でつまらない、ってくらい自信があるなら、当然、この問題くらい余裕だよなあ? 九十点はかたいに決まってる。そうだろう? それ以下なら、とりあげた本は没収する」

「えっ」その生徒は少し驚いた顔をした。「……そんなの、有りなのかよ。生徒のものを取るなんて、泥棒と一緒じゃないか」

「いーや、全然違う」先生はさらに挑発する。「いいか、これは賭けだ。自分の言葉に責任を持つためのな。自分が何をしてるか、それくらいわかるだろう? お前はあたしにいま、喧嘩を売ってるんだ。だったら、勝てばいい。あたしをうちのめせばいい。それとも何か? お前はそのていどの自信もないくせに、あたしが、この石川夜々が、くそ面白くもない話を生徒にしてるなんて与太を飛ばしてるのか? それを証明しろと返されたら、最初から逃げるつもりで?」

 先生の勢いに圧倒されたのか、生徒のほうは、苦々しい顔をしながら、しばらく黙っていたが、

「……わかったよ」

 というと、用紙を引ったくってこちらに向かってきた。これから、隣の空き教室で問題を解くのだろう。

「スマホでカンニングなんかするなよ」

 先生の声が、追いかけるように飛んできた。私が慌てて扉を開けて道をつくるようにすると、その子が部屋を出ていきざま、

 ――どうせ、二冊持ってるんだ。

 と呟くのが聞こえた。

 入れ違いで、部屋の中へ身を寄せることになった。石川先生は、私のほうに背を向けたまま一瞥もせずフーッと息を吐き、どすんと音立てて椅子に座った。

 それから、かたわらのスタンドに立ててあった古いアコースティックギターをおもむろに手にすると、怒りを鎮めようとするかのように、ボロン、ボロンと弦を奏ではじめた。

「えーと、石川先生」

 私の声かけに虚をつかれた先生が、狼狽してふりかえった。

「……なんだ、安藤。いたのか」

「すみません、声をかけづらかったので……。これ、昨日の宿題です」

 手書きで二枚ぶんの用紙を渡すと、私は、「先生がギターを弾くところ、初めて見ました」といった。

 以前から、やたら年代を経たぼろぼろのそのアコースティックギターは、先生の部屋の隅で何度も目にしていたので、気になる存在だった。

 ただ、ふだんの授業には関係ないものだから、演奏する姿どころか、これまで話題にしたことさえなかった。

「ああ、これね」先生はネックを叩いた。「……何年か前に、近くで捨てられてあったから、勿体ないと思って、拾ってきたんだ。実際、修理すると使えたしね」

 そして、私のそばの本棚を指さし、

「そのファイルに入っている曲だったら、弾き語りできるよ」

 といった。

 私は先生の示す方向を眺めて、「え、えーと、これですか?」と、他の教材やら何やらと一緒に並べてある、その紫色のA4判のファイルを手にし、開いてみた。

 綴じられた紙には、先生の手製なのだろうか、歌詞らしき言葉の連なりの上に、コードが小さく記してある。

 私は、自分の知っている曲はないか、ぱらぱらとめくり、それぞれの紙の冒頭に大書してある曲名を確認していった。

〈花のように〉

〈チェリーガーデン(桜の園)〉

〈鏡の中の十月〉

〈紫のバラ〉

〈女どうし〉

〈学生時代〉

 …………。

「すいません。ここにある曲、……一つもわかりません」

 記憶を探りながら見ていったものの、まったく覚えがない言葉ばかりだ。

「ええっ」先生は驚いたようにいった。「お前は軽音部なのに……これくらいも知らないのか」

 軽音部なのに、というのは不当な言いがかりだと思うけれど、知らないものは知らないのだから仕方がない。

「じゃ、じゃあ、この、〈鏡の中の十月〉というのを、教えてください」

 先生はファイルから紙を抜き取ると、少し確かめるしぐさをして、周囲に配慮するように小さく歌い始めた。

 意外にウィスパーボイス系のつややかな曲だったから吃驚した。


「そういえば、安藤に前から聞こうと思ってたんだが」

 アウトロまできっちり弾き終えると、先生はギターをスタンドに戻し、私に向かっていった。

「少し前に、雨恋真雪とこの学校に来ていたことがあっただろう。あいつとは、いったいどういう関係なんだ?」

「…………」

 それは、予測できた質問のはずだった。

 なのに、問いかけられると、たじろいでしまった。

 それに、どうしてだろうか。……石川先生に対しては、春香の時のように正直には、答えづらい気持がある。

 そこで、話しながら内容を整理し、一部は省略することにした。

 親同士が知り合いであること。真雪さんの母親に紹介されて面識ができたこと。以来、何度か会う機会があること。たまに、私が遭遇した謎の出来事を解決してもらうことがあること。あの日もその一環であったこと……等々。

 石川先生は、私が困ってしまうほど、真剣な表情で説明を聞いていた。

「フーン」

 ひととおり説明し終えると、先生は目をつぶったまま、何かを考えるように腕を組んだ。

「よくわかった。しかしな、安藤」

 先生は目を開け、私の方に身体を乗りだしてきた。

「あいつには、気をつけたほうがいい。深入りする前に、距離をおくのが得策だな」

「得策?」

 先生が何をいいたいのか、よくわからない。急に冷や汗が出そうになる。

「おっしゃる意味が……」

「わからなくて当然だよ」と先生はいった。「これは、あいつの秘密に関わることだからな。簡単には口外できない。ただ、すでに安藤ぐらいの間柄になっているならば、話しておいたほうがいいと、あたしは思う」

 ……ますますわからない。

 心臓を掴まれるように、私は先生の話の行き先に、引きこまれてゆく。


   *


「その前に確認しておきたいんだが、この前ああいう遭遇をした以上、安藤はあいつから、あたしについても聞いているんじゃないか」

「先生について、といいますと」

「だから、その、……」先生はなぜか、いいにくそうにする。「……あいつについて、あたしがむかし、本を書いたことだよ」

「あー、はい。うかがいました。勝手に聞いて、申し訳ないですけど……」

「だろう? あたしはそれは、いちおうこの学校では、秘密にしてるんだ。知られると諸々、やりづらくなるからね」

 最新シリーズも読んでます! この学校の図書館で借りて、とは、まさかいいだしづらい雰囲気だった。

「あいつのほうが、先にあたしについて安藤にバラしたんだ。だとしたら、あたしもあいつが知らないところで、あいつについて安藤に警告したって、お互い様、ということになるだろう。な?」

「うーん……それは、その情報の軽重にもよると思いますけど……」

「まあいい。これは、あたしの責任で伝えるんだ。だから、安藤が気にすることは何もない。いいね」

 石川先生が居住まいを正したので、私もそれにつられて座り直した。


 ――安藤くらいの世代は知らないだろうけれど、かつては世の中に「名探偵」と呼ばれる人々がたくさんいた。あいつもそのうちの一人だった。ここまではわかるね。

 ――はい。

 ――その人々は、通常、事件解決に必要とされる論理的思考力だとか演説能力だとかとは別に、一人ひとりがそれぞれ異なる、特殊能力を持っていた。というか、何らかの能力を持っていなければ、「名探偵」とは見なされなかった。民間のそういう認定システムがあったんだ。

 ――特殊能力……というのは?

 ――たとえば、電話で話を聞いただけで真相を見抜けるとか、眠りながら推理するとか、歩き疲れると閃くとか。

 ――……そんな能力、本当にあるんですか?

 ――実際にあったんだからしょうがない。それで、あいつの能力が何だったかといえば、それは「恋愛推理」と呼ばれるものだった。

 ――はあ。

 ――要するに、持ちこまれる事件のほとんどが恋愛絡みになってしまう、そういう事件を集めてしまう、ということだ。もちろん、そんな動機は、金銭と同じくらいありふれている。とはいえ、あいつの場合、その割合が異常に高すぎた。

 ――……そうなんですか。

 ――どうも、遺伝による体質らしいんだな。ただ、本人が恋愛状態に入ったり、パートナーを見つけたりすると、その誘引は止まる。これは、あいつの父親の太郎さんから聞いた話だから、間違いない。太郎さんの場合、敬子さんと出会い結婚した時に、恋愛絡みの事件からは、ピタッと解放されたそうだ。

 ――…………。

 ――この能力についての設定は、あたしが本にする時、省かざるをえなかったんだ。つまり、「恋愛推理」というと聞こえはいいかもしれないが、実際は、不倫や逆恨みなんかのドロドロした、身勝手な醜い動機が大半だからね。それだとヤング・アダルト向きにはできない、というふうに、エンターテインメント業界からは判断されたわけだ。

 ――なるほど。

 ――さあ、そして困ったのは、その後だ。「名探偵」という存在が、やがて、世間から必要とされなくなってしまった。まるで、公衆電話やCDショップや書店が、急速に撤退してゆくみたいにね。難事件というものが減ると、とうぜん、真雪の関わる事件自体も少なくなる。するとどうなるか。

 ――どう、なるんでしょう。

 ――あいつの特異体質は、それでも、恋愛絡みの事件を引き寄せてしまう。煙のないところに無理やり火を着けるように、あいつに関わる人たちを、「恋愛推理」という名の磁場に、無理やり連れこんでしまう。動機としての「恋愛」というのは、非常に厄介なんだ。たとえば他の、金銭欲や権力欲でいえば、それらはもっと社会的なものだ。「貨幣」とか「力」が発生しえない場所では、それらは動機にならない。ところが動機としての「恋愛」は、人が最低二人以上いれば、いつどんなところでも、飛躍的に高い確率で発生しうる。これは、一歩間違えればこわいよ。

 ――……こわい?

 ――身近にいる誰か二人が、別れたり修羅場になったり、というのは、誰だって日常的に経験する。まさかそれが自分の責任だとは思わない。思うわけがない。しかしそれが真雪の場合、当人たち以外の第三者にとって多少謎めいた状況であっただけで、(もしかしたらそれは、自分のせいかもしれない。自分の特殊能力が、そんなシチュエーションを引き寄せてしまったのかもしれない)という、おそれが生じることになるんだ。

 ――それは確かに……こわい、ですね。

 ――だろう? 思うに、以来、あいつがどれだけ窮してもずっと、組織に属さず、なるべく誰とも関わらずにやってきているのは、きっと、そういうおそれがあるからなんじゃないかと思う。

 ――…………。

 ――むかし、あいつとまだ仲がよかった頃、よくこのあたりの事件で一緒になる、「塩辺」という二枚目の刑事がいた。今も、隣町の警察署にいるらしいけど。

 ――あー、確か先生の本で、読んだことがあります。

 ――塩辺さんはたぶん、真雪のことが好きだった。周囲のあたしたちも、お似合いの二人だと思っていた。そのうちカップルになるんだろうな、と思っていた。ところが……真雪のほうは、そういう方面に対して、全然興味がないみたいだった。あれには、なんだかガックリきたね。本人がそんな状況だから、まあ、あたしの周りでも、いろいろとそれらしい、不思議な出来事は起こったりした。変に恋愛の絡んだ、ね。

 ――それで……それで先生は。

 ――うん……?

 ――それで先生は、真雪さんのことを、見捨てたんですか。

 ――……あたしが、真雪を見捨てた? いや、そうじゃない。……逆だ。あいつのほうから、あたしを突き放したんだ。そりゃあ、幼馴染だし、友人だし、あいつのおかげであたしはデビューできたってこともある。困った時は、どんなことをしてでも、助けてやりたいと思った。ただ……あいつは、あんな、傍若無人で身勝手な性格だ。周りからチヤホヤされているうちは、そりゃあなんとかなってたよ。けれど、まあ悪いいい方をすれば、利用価値がなくなったら、人が離れていくのは当たり前だ。あたしはかなり努力して、長くつきあったほうだと思う。なのに、そう何度も何度も、荒れて暴言を吐かれたら……お互い、独立した大人じゃないか。あたしにだって、自分の人生がある。そっちのほうが大切だ。だから……うん、最後は、喧嘩別れみたいになってしまったのは、確かだ。

 ――…………。

 ――なあ、安藤。わかるだろう? あいつにへたに関わると、厄介なことに巻きこまれてしまうかもしれない。その覚悟があればいいけれど、並大抵のことじゃない。それは、あたしの実体験からいってのことなんだ。単なる依頼人としてだけでなく、もしお前が、かつてのあたしのように、あいつの記述者のような役割を、気取ろうとするならば、……。

 ――……別に、気取ってはいません。

 ――深入りする前に、やめたほうがいい。……それはきっと、あいつ自身も、望んでることなんだ。


   *


「解いたよ」

 その時、さっきの生徒が、問題用紙をもって教官室に入ってきたものだから、私と石川先生は、二人して驚き、入口に視線を向けた。

 これを好機とばかり、私は、

「先生のお心遣いは、わかりました。ありがとうございます。今日のところは、とりあえず失礼します」

 といって、その場を立ち去った。


 ……結局、『先生と私』についての話は、石川先生に聞くことはできなかった。

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自炊探偵・雨恋真雪の冒険 孔田多紀 @anttk

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