4-2 長宮タツミ著『先生と私』

 時間が経つと、春香に対してだんだん腹が立ってきた。

 今まで、私は、自分が困った状態にいるとは思っていなかった。

 それが春香の話を聞くと、まるでのっぴきならない状況にでも陥っているかのようではないか。

 こっちは相談していないのに、勝手に向うから相談に乗ってこられたような気分、とでもいうか。

 最後にはいいくるめられて、「ありがとう」だなんていってしまった。

 なんだか、騙されたような気がする。


 ここの高校に入る時、母は、「女子校だと好きな人の取り合いとかがないから、人間関係歪まなくて楽だよ」といっていた。けれど、少し経つと、それは全然嘘だということがわかった。共学の頃とは何か、別の力がある。それでも、人によっては、かつてより過ごしやすくあるのは、確かなのかもしれない。

 しかしゴシップ好きの春香や周囲の話を聞くうち、その手の話題にもだんだん慣れてしまったのだろうか、まさか自分がそういう話をする日が、それも、こんなにも早く(といっても、来年はもう三年生だ)、来るとは思わなかった。

 私は女の人が好きなのだろうか。

 わからない。

 もし真雪さんとうまくいかなかったり、振られたりするようなことがあったら、これから先、別の女の人を探したりするのだろうか。それとも、誰か男性と付き合うのだろうか。

 わからない。

 春香に問いかけられた日から、「あんたは真雪さんとどうなりたいの」という言葉が、ふとした拍子に、脳裡にぐわぐわ響いた。

 そのことを考えると、これまで安定していた大地の底が急に抜けた、というか、しょせん人類は無際限であるこの宇宙に寄る辺なく浮かんでいるだけだ、そして私という一個人は、たまたまそこを短い合間に通りすぎてゆくだけなのだ――という、むかし宇宙図鑑を初めて眺めた時に覚えた恐怖がよみがえり、揺るぎない事実として、とつぜんのしかかってくるような感じで、重く、果てしない不安に苛まれてしまう。

 春香と話をしなければこんな気持にはならなかったのに、いったいどうしてくれるんだ――と恨みそうにもなったけれど、彼女が心配する理屈も、一方では、よくよく考えるとわかってきた。

 テスト期間の間、私は行き場のない感情を抱え続けた。すべての科目が終わったとたん、その状態に耐えかね、真っ先に図書室へ向かった。

 もちろん、長宮タツミの新刊を読むためだった。


   *


 倫理の石川夜々先生が小説家であることを、私だけが知っている。


 いやもちろん、石川先生の上司だとか、あるいは出版社の人だとか、親しい関係者は知っているのかもしれないけれど、この学校の生徒では、他にいないのではないだろうか。

 少なくとも、私は真雪さんからその話を聞くまで、他の誰かから知らされることはなかった。

 私はふだん、小説のたぐいはあまり読まないので、学校の図書室に行くのは、もっぱら他の用事が目的だった。

 それでも、入ってすぐのところにある「新着コーナー」のスタンドに、


  長宮タツミ『先生と私 5』


 と書かれた本が立てかけてあるのを見かけた時は、すぐに目を惹かれた。

 そして、ついこのあいだ真雪さんから聞いた話と、その日この学校に潜入した真雪さんと石川先生が交わした会話を思い出し、ああ、これがあの、と興味が湧いて、手にしてみたのだった。

 その本にはなぜか、カバーがかかっていなかった。白い表紙を裸のままさらしていた。「5」というからには、きっと五巻目なのだろう。小説コーナーの「な」行を探すと、同じように白い本が四冊揃っていた。私はとりあえず、一巻目をめくってみることにした。


 石川夜々先生はかつて、高校生作家だった。

 それも、小説家というより、ノンフィクション作家だった。

 幼い頃から雨恋真雪さんと親友だった石川先生は、真雪さんが名探偵として活躍し始めると、その功績を脚色して物語にした。その小説はさいわい何冊か刊行され、アニメにもなった。

 ただ、事実に基づくものだけを物語化することは、その記録係に甘んじることは、石川先生の元々の希望には、そぐわなかったのかもしれない。

 真雪さんの名探偵活動に半ば終止符が打たれた、その後のどこかの段階で、二人は袂を分かった。

 石川先生は大学を卒業し、母校に就職してからも、ペンネームで活動し続けた。おそらく、当初は周囲の期待に応えるため、「雨恋真雪・エピソード0」「ヤング雨恋真雪」「レジェンド・オブ・雨恋真雪~ザ・ビギニング~」「雨恋真雪FINAL〜最後の挨拶~」といった仕事をこなすうち、もういいかげんにしてほしい、そろそろ自分自身の書くべきことを書かなければならない、と思ったのだろう。真雪さん関係のことは一切絶って、オリジナルなものを書き始めた。

『先生と私』は、そのいくつかのシリーズのうちの一つだった。

 主人公の「私」(柳枝ステラ)は、今の私と同じ高校二年生。中学の時、同級生の女の子に告白され、驚きながら承諾したものの、数カ月後、理由がよくわからないままに振られてしまう。傷心の折、図書室で出会った『サヨナラリリー』という小説を読んで感銘を受ける。それは少し前に映画にもなり、ミリオンセラーとなったヒット作だったが、今までは興味の外だった。内容は、二人の少女の濃密な一夏のすれ違いを描いたもの。まるで自分のことが書かれているようだ、と「私」は思った(映画のほうは、あまりにも美人すぎる旬の俳優二人のダブル主演で、ぴんとこなかった)。

 三年後、ふとしたことから「私」は、近所の通い慣れたコンビニに勤める二十代の女性が、『サヨナラリリー』の作者の「先生」(紀尾井レナ)であることを知る。しだいに仲良くなると、「私」は「先生」からいろいろな話を聞く。高校中退後、さまざまなアルバイトを転々としながら、投稿サイトにウェブ小説を発表し続けたこと。そのうちの一つである『サヨナラリリー』が突如注目を浴び、書籍化、映画化、百万部突破、と予想もつかない展開を見せたこと。しかし『サヨナラリリー』以降、何を書けばいいのかわからずくすぶっていたこと。高校にはほとんど出ずその後の約十年はバイトと小説投稿しかしていないので、自分は他人より経験が足りないのではないかとコンプレックスがあること……などなど。「私」はかつて自分の魂を救われたことを思い出し、「先生」の失われた青春を取り戻すべく、二人で毎回何らかの行動を試み始める……。

 というのが大まかな設定なのだが、歳上の人物に憧れる同世代の心情が大変素直に表れていて、私は非常に感銘を受けた。

 しかし……。

 困ったことに、ところどころ、どうも石川先生の顔がちらついてしまう。いったいどういうテンションで先生はこんな場面を書いたのか? と、考えこまざるをえなかったりしてしまう。

 現実に知っている人の書いた小説を読むのは、なかなか難しい。それとも、そんなことでつまずくのは、私だけなのだろうか。


   *


 その日、私は三巻目を返却して四巻目を借り出そうとしていた。

 すると、カウンターの中にいた、おそらく後輩の生徒が、あのー、と声をかけてきた。

「このシリーズ、こないだ一巻目を借りられたばかりですよね。なのに、もうここまでたどり着いたんですか」

 まさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったので、つい動揺してしまった。

「あー、……はい」

 確かに、私にしては驚異的なペースかもしれない。

 切り揃えられた軽い前髪と縁の太い眼鏡が印象的なその生徒は、弾んだ声で、

「そうなんですねー。いやー、周りで読んでる人って、他にいないんですよ。でも、いいですよね。わたしの友達なんか、逆に好きすぎて、よく『柳枝ステラとつきあいたい!』って、叫んでますけど」

 といった。

 フィクションの中の人物とつきあいたい、と思うほどのめりこめるのはすごい。

 貴重な同好の士を見つけたためか、彼女はやや奮いたった様子で、

「四巻目も最高なんですけどね、五巻目なんかもう、心臓がもたないかと思いました。というのは、……」

「おっと、ネタバレはちょっと、……」

「わ、すいません! お楽しみ、ですもんね!」

 唇の前に両の人差し指をクロスさせバツを作る。見かけによらず、リアクションの大きな子だ。この話題についてだけかもしれないけれど。

 図書館の人というのは、利用者の趣味嗜好については、あまり踏みこんではいけないのではないだろうか。ということを、何かで読んだことがあるような気がする。あるいは、図書委員というのは正式の司書ではないから、そういうルールにはあまり縛られないのだろうか。

 私も、もっと真面目な本だとか、役に立つような本だったら、彼女の話に乗ったのではないかと思う。ただ、うっかり石川先生のことを洩らしてしまう危険があったし、あえていえば、こんなキラキラキュンキュン系の物語について、今、あまり見知らぬ人と、話題にしたくはない気分だった。

 テスト期間が終わったためだろう、先週まで自主勉強をする生徒たちでいっぱいだったこの部屋も、えらく閑散としていた。だから、彼女が話し続けても、誰の迷惑にもならないのだった。とはいえ、私も今日のところは、早く切り上げて帰りたかった。

 それを知ってか知らずか、「土浦朱里」と名乗るその一年生は、

「あのー、実は、前から聞いてみたかったんですけど」

「何?」

「……先輩って、柳枝ステラにちょっと似てますよね」

「……は?」

「いえ、だから、『先生と私』の」

「…………」

 あまりにも意表を突かれる質問で、一瞬、意味がわからなかった。

 いや、意味はわかる。

 わかるけれど……。


『先生と私』の主人公兼語り手である「柳枝ステラ」は、おそらく、読者の感情移入を促すためなのだろう、どこか抜けたところのある人物として描かれている。

 あー、なんでこのサインがわからないかなあ、もおお、と読者を随所でヤキモキさせるような性格に造形されている。なので、そんな人物に「似ている」といわれることは、「オマエはどこか抜けたヤツだ」といわれるのと同じだ――と、私には受け取られた。

 きっと褒め言葉というか、いわれた側も喜んでくれるはず、というつもりでいったに違いないけれど、その微妙なニュアンスは、彼女は想定もしていないものだったろう。

「似てるって、どこが?」

「……あー、なんというか、雰囲気が」

「私はあんな、純真無垢な、心のきれいな子じゃないよ」と私は吐き捨てるようにいった。「……もっと、薄汚れてるよ」

 本心を正直に吐露したはずなのに、なんだか、格好つけた中学生のような痛い台詞になってしまった。

 終始つっけんどんな私の応対に気圧されたのか、

「え、えーと、……そうですか?」

 としまいには、さすがに腰が引けたような反応をしていた。

 それでも、いざ私が帰る際には、

「こんど、先輩が最新刊まで読み終わったら、わたしのダチも連れてくるんで、よければ、感想聞かせてください!」

 と力強くいった。

 私は入口付近で曖昧に手をふり、それから、背を向けてゆるゆると歩き去った。


 ……なかなかコミュニケーション能力の高い子だなあ、と思った。

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