秋に鳴らす鍵盤

増田朋美

秋に鳴らす鍵盤

暑い暑いと言いながらも、秋も近づいてきたかなと思われる日々であった。杉ちゃんたちは、その日も変わらず、製鉄所で食事の支度したり、水穂さんにご飯を食べさせる作業を繰り返していたところ。

「こんにちは、桂です。ちょっとご相談がありましてこさせてもらいました。小村さんもどうぞお入りください。」

という声がして、桂浩二くんの来たことがわかった。杉ちゃんが、

「ああ良いよ。暑いから早く入んな。」

というと、

「はい。それでは上がらせていただきます。」

と浩二くんはそう言って、製鉄所の中へ入ってきた。同時に、女性の声で、お邪魔しますという声も聞こえてくる。製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではない。居場所のない女性たちに、勉強や仕事などをする部屋を貸し出している民間の福祉施設であった。ときには、水穂さんのように、間借りをする人もいるが、そういう例は少ない。

「こんにちは。改めて相談なんですけど。」

浩二くんはそう言って、杉ちゃんたちがいる製鉄所の縁側にやってきた。間違いなく女性ではあるけれど、なんだか大きな体の割に、なんだかおどおどしているような、そんな女性である。

「ああ、紹介しますね。小村敏子さんです。出身は、神奈川県の二宮町。年齢は、35歳。実はですね。彼女の自宅にある、ピアノの鍵盤が暑さで割れてしまったそうですから、修理をしてもらっている間、練習用として、先生のピアノを貸してもらえませんでしょうか?」

と、浩二くんは彼女を紹介した。結構大柄な女性であるのに、なんだか偉く緊張しているようなので、

「そんなにビクビクしなくても良いんだぜ。」

と、杉ちゃんに言われる程であった。

「お話はわかりました。なんでピアノを借りようと思ったのか、その理由を教えてください。」

水穂さんがそう言うと、

「いや、あのですね。特にコンクールへ出たいとか、音大へ行きたいとか、そういうわけじゃないんです。ただピアノしかやることがなくて、それをしないと、何にもできなくなるから、それでは行けないんですけど。それで、家のピアノが故障してしまって困っていたところ、桂先生が、ここで練習すればいいからと言ってくれたので、、、。」

敏子さんは、しどろもどろに言った。

「そうですか。そういうことなら、早くピアノを断念して、生活できるような術を見つけてください。その方が、ピアノを弾くより役にたちます。」

水穂さんがきっぱりと言った。

「そうかも知れないけどさ。それがあったら、とっくにつかってるわな。なにか家の事情か何かで、そういうことしたくても、できなかったんでしょう。まあ、そんなことだと思ったよ。まあ水穂さんの言うことも間違ってはいないけどさ。それができるようになるには、まだまだ難しいよねえ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうかも知れないけどさ。鍵盤が割れるまで練習したってことは相当にやってたみたいだな。そういうことならちょっと、一曲弾いてみてくれ。」

杉ちゃんに言われて、敏子さんはわかりましたと言って、グロトリアンのピアノの前に座った。そうして、楽譜も見ないで、ラベルのソナチネを弾き始めた。第1楽章しか弾けないといったが、なかなか弾けているような感じである。

「そうですね。少しタッチがきついという感じがしましたが、それでも弾けてはいますよね。」

水穂さんがいうと、

「でしょ、決して可能性がないわけじゃないじゃないですか。ほんの少しだけで良いですから、よろしくお願いしますよ。彼女だって、不真面目に生きて行きたわけではないんです。」

と、浩二くんがそういったため、水穂さんも仕方ない顔をして、

「それでは仕方ありませんね。ピアノをお貸ししますから、いつでも好きなときに弾きにいらしてください。」

と言って、ピアノを貸すことにした。

その翌日から、小村敏子さんは、毎日製鉄所へ来訪し、ピアノを弾くことになった。毎日一時間ほど弾くのであるが、水穂さんは、内声が大きすぎて、ソナチネになっていないといった。いくら弾いてもそれではだめだと言い続けるばかりで、決して彼女の演奏をよくできていると評価しなかった。

その日も敏子さんは、練習にやってきた。曲はいつもと変わらない、ラベルのソナチネ第1楽章である。布団の上で水穂さんが、座ってそれを聞いていた。敏子さんは、一生懸命ソナチネの第1楽章を弾くのであるが、何しろこの曲は手を大きく広げないと弾けない部分があって、なかなか難しいものがあった。そのときは、一生懸命弾いていたが、演奏が止まってしまった。

「あ、いた!」

敏子さんは痛そうに言った。

「大丈夫ですか?」

水穂さんが彼女の手を取ると、手の甲や、指の間に、贅肉のようなものがついていて、真っ赤に腫れていた。

「ずいぶん長くやってるんですか?腱鞘炎。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「恥ずかしいくらいですよね。」

と言って、敏子さんはうつむいた。

「いえ、何も恥ずかしいことではありませんよ。怪我をするまで弾いたということは、生半可な気持ちではないと言うことですから、それは認めてあげないとね。あなたはどうしてここまでピアノをやろうと思ったのですか?好きなことばかりしているのは、幸せなことではないことは、おわかりになると思うのですが?」

水穂さんがそう言うと、

「はい、子供の頃は、本当に専門家を目指したこともあったんですが、体調崩して、十年以上療養しなければなりませんでした。それ以降、もとの世界には帰れないですよね。それはもう仕方ないことですから、バカにされたり叱られたりしながら、生きていくしかないのでしょう。」

と、敏子さんは答えた。

「そうですね。確かに一度脱落すると、二度と帰れないのが、今の世界ですよね。叱られたり、バカにされたりしながら生きていくしかないのもわかりますよ。その中で、よく怪我をするまでピアノを続けられましたね。そういうことなら、悪い意味でもレッスンしたほうが良いかもしれませんね。」

水穂さんはそう言って、彼女に、自分が持っていたラベルのソナチネの楽譜を渡して、

「じゃあもう一度、第1楽章を弾いてみてください。内声が少し大きすぎると思いますので、そうですね。特にそこを気をつけて。」

「ありがとうございます。」

敏子さんはそう言って、ピアノを弾き始めた。

「それから上の音をよく響かせてくださいね。」

「はい!」

敏子さんは、一生懸命水穂さんの指示に応えようとしていた。

「そうです。上の音、特に小指をよく鳴らすようにしてください。しかし力をいれるということではありません。それを間違えないようにしてください。」

と、静かに指示を出した。

「そうです。そうやってください。そして、内声をもう少し落としましょう。左手は、伴奏なので、難しいかもしれませんが、できるだけ落としてください。」

「わ、わかりました!」

水穂さんがそう指示を出すと、敏子さんは、一生懸命それを実現させようと、指を動かしたのであった。

「そうですそうです。中間部は、難しいですが、叩きつけて弾かないでくださいませ。メロディーは非常に盛り上がっているところですが、でも、静かに抑えるように弾くのが大事です。」

「ありがとうございます!」

水穂さんが指示を出すと、敏子さんはその通りにした。というか、一生懸命その通りにしようと頑張っている。きちんとしてくれるというのは、なかなかうれしいものであった。

「初めてここに来たときは、本当にできるのかなと思っていましたが、ここまで弾ける様になったというのは驚きました。あなたはもともと、能力の高い方ですね。」

「ええ。でも、体調を崩して、自分の事を管理できなかったんだから、結局だめな人です。あたし、一生懸命やったんですけど、どうしても、学校の試験で点数が取れなくて、上級学校に行けなかったんですよ。だって、試験の回答さえしていれば、いい成績になるなんて、私はわからないことだらけで。私にしてみればこんな回答が果たして正しいのかなって、思ってしまいましたよ。だけど、世の中ってのは、その答えを出す人が、かつんですよねえ。」

敏子さんは、そう話を始めた。

「そうでしょうね。確かに、僕もそういう気持ちになってしまったことがありました。僕は生きていくためにはそうするしかないんだと、早々あきらめたけど。」

水穂さんがそう言うと、

「あたしは、そう諦めがつかなくてですね。何度も、学校の先生に聞いたんですよ。どうしてこの答えが正しいんですか、説明してくださいって。そうしたら、答えを教えてくれるどころか、教師に反抗する不良学生って言われて、退学に持ってかれてしまったんですよ。」

と彼女は答えた。それは真実なのか、それとも、彼女が作った話なのか、水穂さんはあえて聞かない。もし、妄想であるんだったら、その裏には重大な事実が潜んでいることになるし、本当であれば、そのとおりだったんだと思うしかない。

「そうなんですか。確かに、納得いかないで、正しい答えはこれだと言われても、納得しないで終わってしまうことは本当に学校ではよくあることですね。外国の学校ではちゃんと説明してくれるそうですが、日本ではそうはいかない。あなたは、その真実を教えてもらいたくて、先生に詰め寄ったんですね。」

水穂さんは、彼女の話をまとめるように言った。

「ええ。あたしは、何度も聞きました。この答えになるのは納得できません、なんでそうなるのか理由を説明してくださいって。小学生までは、答えを知りたがる生徒だったので、すごい高評価だったんですけどね。中学校からは、試験の成績だけが全てでしょ。だから、私、それでわからなくなってしまったんですよ。それで、成績が悪くて、上級学校にも行けなくて。高校も、本当につまらなくて。成績が悪い人には、つまらない人生しか用意されてないんですね。行きたいところがあっても、成績で全部駄目になるでしょ。やりたいことがあっても、まず勉強がさきって怒鳴られるだけですもんね。本当に、若いときってつまらないものですね。年を取れば、やりたいことやれるけど、若いときってのは、そういうことは許されないのですね。」

小村敏子さんは、そう悲しそうに言った。

「そうですね。確かに成績が良い人ばかりが幸せで、悪い人はとことん不幸になるというのは、間違いではありません。こちらの利用者でもそういう事を訴えてきた人が何人かおられました。勉強は、確かに難しいかもしれないけど、幸せな人生が保証されるための、いわば、通行手形みたいなものだったんだと思います。それさえ獲得しておけば、若い時期は乗り越えられますよ。だから、若い時期は、年寄にできるだけ良い子だと見せるように、良い自分を演じることが大事なんではないでしょうか。みんなそういうことして生きてるんじゃないかなと思いますけどね。素顔なんて、誰かに見せられるものではないですからね。」

水穂さんは、静かに敏子さんに言った。

「そうなんですか。あたしは、本当に自分のままで生きていきたいなって思っていたんですけど。」

「ええ。だからそれが、あなたが間違えたことなんだと思います。人間、みんな全部の姿なんて見せることはしませんよ。表では笑っているけれど、裏では、泣いていたり悲しんでいたり、そういう人ばっかりなんです。そうやって、みんな生きてるってことじゃないですか。でも、それだから、人間が助け合うことにもつながるんじゃないでしょうか。みんなそういう事を、知っていて、そういうことで傷ついているから、誰かできない人がいると、助けようと言う気持ちになるだけなんだと思います。」

水穂さんは、静かに、彼女に言ったのであった。もし、普通に生活している人であったら、そういうことは言ってはくれないだろうなと思われた。もし、普通の人に、こんな質問を投げかけたら、何を言っているんだということで、逃げてしまうに決まっている。

「そうなんですね。水穂さんって、うちの家族も教えてくれなかった事をよく知ってますね。どうしてそういう事を知っていらっしゃるんですか。なにか理由があるのでしょうか?」

敏子さんがそう言うと、水穂さんは、

「ええ。僕は、あなたより、」

と言いかけて、えらく咳き込んでしまって、床に崩れ落ちた。それと同時に、朱肉のような赤い液体が、口元から溢れた。敏子さんが、

「誰か!誰か来て!」

と声をあげるが、誰も来なかった。水穂さんは、咳き込みながら、枕元にあった水のみを指さした。敏子さんは、それを取って、水穂さんの眼の前に差し出すと、水穂さんはそれを受け取って中身を飲み込んだが咳き込んでしまって、水のみを落としてしまった。水のみは、畳に落ちて割れた。でも中身を飲んでくれたので、咳き込むのは数分後に止まってくれた。敏子さんは、水穂さんに眠ったほうが良いと言って、布団に寝かせて、掛ふとんをかけてあげた。それと同時に、ご飯ができたよと言いながら杉ちゃんが四畳半にやってきて、

「あらあ、またやったのね。派手にやりやがったな。あーあ、こればっかりは、どうしようもないんだよなあ。」

と、吐いた血液と、落とした水のみを見て、大きなため息をついた。

「杉ちゃん、私お医者さん呼んできましょうか。それとも、救急車呼びましょうか?」

敏子さんはそういったのであるが、

「いや、それだけはやめろ。救急車呼んだら、みんなたらい回しにして、こんなやつをうちの病院に入れたら、病院の面目丸つぶれだって言って大騒ぎになるだけだよ。それは無理だから、諦めることだな。」

と、杉ちゃんは言った。

「でも、こんなにひどいんだったら、見てもらった方が良いのではありませんか?」

敏子さんがそう言うと、

「いや、無理だねえ。医療関係者とか、政治家とか、そういうやつは、みんな水穂さんみたいなやつを、変な顔して追い出すだけだもん。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「どうして、そうなるんですか。だって、ここまで悪かったら、みてもらうことが必要なのではありませんか。ちゃんと、病院で見てもらって、薬もらうなりして、ちゃんと治してもらうことが必要なんじゃありませんか?」

敏子さんがそう言うと、

「うーんそうだねえ。同和問題って聞いたことある?学校で習ったかな?それとも、誰かに教わったか?」

と、杉ちゃんが言った。敏子さんは一瞬顔が真っ青になったが、でも水穂さんの顔を静かに見て、なにか感じ取るような顔でこういったのであった。

「でも、お医者さんに見てもらいましょう。だって、そういう法律は昔はあったのかもしれないけれど、今はそうではないって、ちゃんと言われているじゃないですか。」

「うーんだけどねえ。新平民とか、そう言われて、お医者さんに毛嫌いされて、病院たらい回しにされてさあ、その間に逝っちゃったらどうする?それだって考えられるじゃないか。それが出たら、お前さんが責任をおうのかい?それはお前さんはできないよねえ。」

杉ちゃんは、腕組みをして、そういう事を言った。

「だけど、今だったら、ちゃんと治療法もあるわけですし、昔みたいに、すぐ終わってしまうことも、ないわけではないでしょう?」

という、敏子さんに、

「いや、それはねえ。ちゃんとした身分というか、そういう人だったらの話だぞ。」

と、言ったのであった。それでも、お医者さんに見せて上げたいという、小村敏子さんに、

「そういうことなら、柳沢先生に来てもらうか。」

と、杉ちゃんは言った。そして、車椅子のポケットから、スマートフォンを出して、柳沢先生に電話した。それによると、すぐに来てくれるということであった。

それから、数分経って。

「こんにちは。」

と、一人の老人の声がした。杉ちゃんがああ良いよ入れというと、柳沢先生は、部屋に入ってきた。その姿を見て、敏子さんは呆然とする。医者というのは、彼女の想像によると、白い服を着て、黒いカバンを持った人であるはずなのに、柳沢先生は、黒の縁なし坊を被って、紬の着物に、白い被布コートを着ている。

「まあ、こんなふうにですなあ。派手なやり方でまたやったんよ。暑いので堪えたんかなあ。全くよ。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。柳沢先生は、そうですねと言って、小さなすり鉢を出して、その中へ粉薬を二三種類入れ、すりこ木でガリガリとすった。そして、これを煎じて水穂さんに飲ませるようにといった。いわゆる鎮血の薬だと言うのであるが、なんだかとても個性的な匂いがして、ちょっと近づきがたかった。杉ちゃんに、やかんを取ってきてと言われた敏子さんは、台所に言って、やかんの中に、電気ポットでお湯を入れ、急いで、湯呑みと一緒に、杉ちゃんのところに持ってきた。柳沢先生はそれを受け取って、先程の個性的な香りがする薬をやかんの中に入れ、しばらくおき、湯呑みの中に中身を入れてあげた。

「どうもすみませんねえ。わざわざ、薬出してくださって。」

と、杉ちゃんがいうと、

「いえ、大丈夫ですよ。それより、もうちょっと涼しくなると良いんですよね。こんな暑い中では、体に堪えるでしょうからね。」

と柳沢先生が親切に言った。杉ちゃんもそうだねえと言いながら、水穂さんの肩を揺すって、

「おい、鎮血の薬を持ってきてくれたぜ。」

と言って、水穂さんに起きてもらい、先程の湯呑みの中身を飲ませた。水穂さんは、少し咳き込みながら、それを飲み込んだ。

「どうもすみませんね。わざわざ来て頂いて。」

と、杉ちゃんがいうと、

「いいえ、大丈夫ですよ。また何かありましたら、いつでも呼び出してくださいませ。」

柳沢先生は、そう言って、帰り支度を始めた。

「ありがとうございます。」

珍しく、敬語で杉ちゃんが言った。

「仕方ないですよ。水穂さんは、そういう境遇だったんですから。それは理解できる人間でないと、無理なことですよ。きっと、ロヒンギャが辛い思いをしているのと、おんなじことだと思いますからね。」

と、柳沢先生は、玄関へ向かって歩きながら、そういったのであった。そうか、そういう少数民族問題を知っている人でないと、理解されないんだ、と、敏子さんは思った。



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秋に鳴らす鍵盤 増田朋美 @masubuchi4996

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