第10話 儚い瞳

その夜、学園の庭園での出来事。


シンヤは静かな庭園の小道をランニングしていた。夜風が肌をかすめ、月明かりが庭の隅々まで銀色の光で照らしている。


「ハッ、ハッ、ハッ…」


呼吸を整えながら進むと丘の方に、幻想的な光が目に入った。その光に引かれるように足を止めずに走り続けると、花畑が広がり、その中央で蝶に囲まれたアロマの姿が現れた。


アロマは、長いサラサラの薄紫色の髪が月明かりに輝き夜風に揺れている。人形のような端正な顔立ちと長いまつ毛が桃色の瞳を包む。


思わず足を止め、少し驚きながらもシンヤは声をかけた。


「おい。こんなところで何してるんだ?」


アロマは驚いた様子で、少し俯きながら答えた。


「……少し、一人になりたくて。」


確かに、寮の中は騒がしく、ピリピリとした雰囲気が続いていた。それにしても、この夜遅くにこんな場所で一人、彼女が何を思っているのか気になった。


「なぁ、足、大丈夫なんか?」


彼の言葉に、アロマの瞳は揺れる。


「……もう少しで治ると思う」


「アザがひどいじゃねえか。見せてみろ」


「えっ…」


ぐいっ


シンヤはアロマの足を掴むと、まるで慣れた動作のように、手際よく包帯を巻き直し始めた。彼の動きには無駄がなく、冷静だ。


「ここから固定しないと、悪化するぞ。」


「んっ…、い、いた…っ」


彼女の声は、痛みにも関わらずかすかに震えていた。声を上げるアロマに、シンヤは短く言った。


「我慢しろ。」


「……ん、……んっ……」


シンヤの手が素早く処置を施すたび、アロマの顔は次第に赤く染まっていった。彼の無骨な手際の良さに驚きながらも、そこに微かに感じる優しさが心に触れる。


「これで大丈夫だ。」


「……ありがとう、ございます。」


彼女は頬を染め、小さな声で感謝を伝えた。


「気にすんな。気をつけろよ。」


「シンヤ、優しいのね。」


「そんな事ねえよ。じゃあな、ポンコツ姫。」


彼は包帯を最後に結び終えると、あっさりと、そのままランニングに戻っていった。


アロマはその背中を見送りながら、彼が走り去る音が遠くなっていくと、残された静寂の中で、彼女は深呼吸をし、ふと庭園を舞う蝶たちに静かに語りかける。


「人間って、こんなにも儚いのに……でも、彼は違う。あの目の奥に隠れた強い意志……いったい、どんな過去を背負っているの?」


アロマは庭園の静けさの中、花畑に立っていた。夜空を見上げながら、彼女は人間という存在について深く考えていた。


「人間は、本当に儚い…。彼らの命は短く、でもその一瞬一瞬を強く生きようとする…」


バサッ


彼女の前に、ふいに翼の音が響く。


「その幻想、いい加減にしてもらえますか」


振り向いた瞬間、ペガサス族であるシリウスが立っていた。彼の瞳には怒りのような感情が揺らめいており、冷たくも鋭い眼差しをアロマに向けている。


「シリウス…?」


「またあの人間と会話していたのですね」


シリウスはため息をつくようにゆっくりと近づき、強引にアロマの腕を掴んだ。その手は力強く、アロマは少し驚いて顔を上げた。


「ちょっと、やめて」


「なんで貴女は、そんなに人間に夢中なんですか?」


彼の声には抑えきれない怒りと、どこか切ない響きが混ざっていた。アロマは驚きつつも、シリウスの手を見つめた。


「人間は…儚いけれど、それが彼らの強さでもあるの。彼らは短い命の中で、一生懸命に生きてるのよ。」


シリウスはその言葉にさらに苛立ち、アロマの腕を強く引き寄せた。彼の顔が近づき、その冷たく燃える瞳がアロマを見据える。


「それは弱さです。限りある命だからこそ、何でも手に入れようとする。そして、その欲望が彼らを破滅へと導く。それが人間という種の本質です。彼らの世界には真の平和も、持続する幸せも存在しません。」


その言葉の裏には、シリウスの深い嫉妬が潜んでいた。彼はアロマに、自分を見てほしかった。しかし、彼女が人間に向ける優しさや思いやりが、彼を苛立たせ、焦燥感を募らせていた。


「シリウス、どうしてそんなに人間を憎んでいるの?」


シリウスは苦々しい笑みを浮かべ、彼女の言葉を遮るように近づいた。


「私が憎んでいるのは、人間じゃありません。貴女が、そんなくだらない連中を見てることが許せないのです。滅びゆく種族より、貴女には前を向いて欲しい」


その瞬間、彼の声には抑えきれない感情がこぼれ出ていた。アロマは震える声でシリウスに反論する。


「シリウス…わ、私だって、人間だった前世があるのよ」


「それは運命の悪戯ですね。実際はどうでしたか?破壊と死に満ちていたでしょう」


「…ッ。違うわ!私が望んだことよ。彼らは懸命に未来を変えようとしていた…と思うのよ…お願い、彼らの、全てを否定しないで…」


ポロッ…


アロマの桃色の瞳が揺れると、一筋の涙がここぼれ落ちた。


シリウスは彼女の瞳をじっと見つめ、強引に掴んでいた手をようやく緩めたが、彼の目はまだ苛立ちと欲望に燃えていた。


「ッ…それでも人間を信じたいなら…勝手にしてください。その選択がいつか貴女を傷つけることになります。私はそうならないように貴女を守りたいのです」


「私は、ちゃんと自分で自分を守れる…そうなりたいのよ」


「私はただ…貴女に振り向いてほしいだけです…」


シリウスはそう言い残し、感情を抑えきれずにその場を去ろうとするが、その背中には未練が感じられた。


アロマは彼が去っていく背中を見送りながら、胸の中で彼の言葉がぐるぐると回っていた。


「そんなの…無理よ…。考え方が違いすぎる。私は自分を守れると彼に言ったはずなのに、どうしてこんなにも、胸が痛くなるの」


アロマは胸を手で押さえながら、夜の星空を見上げる。


そうよ。私が望んだ事よ。

かつて、私が妖精の国を創造した女神だった人生を捨てて、人間に生まれ変わって、儚く散った事。そしてまた妖精として生まれ変わった事。


何も変えられなかった。運命に翻弄されるだけの弱い存在だった私。きっと使命を持って生まれ変わった。そう信じないと、きっと私は、私の心は…崩れてしまいそうだから…。

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