秋に鳴らす鍵盤

ゴオルド

頑張ったら、可愛いって思ってくれる? 先生


 好きな人ができた。

 これは大変なことだ。

 そしてきょうは月曜日だ。

 本当にこれは大変なことになった。


 放課後、高校の制服姿のまま県道を自転車で走る。こころなしかペダルが重い。信号が赤になった。ブレーキをかけて地面に両足をついたら、自転車の前輪がぐらりと傾いた。


「ああ、もう」

 よいしょ、と自転車を真っすぐにする。ハンドルすら重い。


 夏から秋への制服の衣替えは、三回目を迎えてもまだ慣れない。分厚い生地で仕立てられたジャンパースカートが肩にずしりとくる。この制服をデザインした人は女子高生が制服の重みで肩こりすることを知らないのだろうか。まったくもう。ただまあ、この重みがあるからこそ少々風が吹いたってスカートがめくれたりしないわけだけれど。重いものは重い。


 信号が青になった。スカートがタイヤに当たらないよう太ももの下に挟み込んで座り直し、ペダルをこぐ。


 向かう先は郊外のショッピングモールだ。巨大な要塞みたいにそびえ立つマゼンダピンクと白の壁の集合体、その3階にある音楽教室で、私は毎週月曜日の午後6時からエレクトーンのレッスンを受けている。


 きょう、私は心を殺し、殺害現場に臨場するかのような心持ちでレッスンに挑まねばならない。絶対に恋心がバレるわけにはいかないのだから。

 あの人のことをちょっと良いなと意識し始めたころから、「最近弾き方が変わったね。なんかあったの?」などと顔を覗き込んでくる先生なのだ。

 ついについについに自分の恋心を認めてしまったお日柄もよろしい大安吉日的な本日においては、レッスンを無事にやりすごすため、私は恋心を焼却炉にぶち込んで、ついでに打算やら不安やら期待やら何やらも一緒にぶち込んで、それらの存在がにおいすら残さないレベルまで消えてしまうまで高温で焼き尽くさなければならない。

 その後、感情の燃えカスであるところの廃棄物溶融スラグ(校外学習でクリーンセンターに行ったときに覚えた用語)で無表情の仮面を製造し、すっぽり被ってみせるつもりだ。


 私のエレクトーンの先生は、暇になると「恋バナしよっか?」などと言ってくるので、大変鬱陶しい。先生相手に鬱陶しいなんて失礼だと思うから、余計に鬱陶しい。

 私が恋しているだなんて、先生には絶対にバレたくない。細かく根掘り葉掘り聞かれたら地獄をみる。でも、音楽の専門家だから、ちょっとした演奏の変化にすぐ気づく。そして「しちゃったの? 恋」などとウキウキ顔で言うに決まっているのだ。想像しただけで気が滅入る。制服の重みも拍車を掛ける。


 というか、以前から常々思っているんだけど、どうして大人は子どもの恋バナを聞きたがるのだろう。聞いてどうするんだという疑問もあるし、デリカシーもないと思う。大人のノンデリほんとやばいよね。

 ああもう。膝に力を入れて、全力でペダルをこぐ。



 ショッピングモールに到着すると、まずトイレに行って、汗拭きシートで体を拭いた。桃の香りがするお気に入りのやつ。だいぶ涼しくなってはきたとはいえ、まだまだ汗ばむ陽気が名残惜しそうに昼には居座っている。夏ってちょっと粘っこいから嫌いだ。秋は潔いから好き。振り返りもせず去っていく感じが好き。


 体がすっきりしたら、鏡で全身チェック。制服姿の平凡な女子高生がこっちを見ている。私服で教室に行くときは、バイト代を貯めて買ったHAREの服とシルバーアクセサリーでばちばちにユニセックスで決めていくところなんだけど、学校帰りの私は、ほんと女子高生って感じだ。JKではない。JKって言いたくない。それは私の美意識に反する。最後に前髪を整えて、よし、だいじょうぶ。


 トイレを出て、買い物客の波に乗ったり逆らったりしながら教室へと向かう。なんかサンマの頭をエコバッグからはみ出させている人が多いな。きょうはサンマが安かったのだろうか。大安吉日的な買い物日よりで、お客様もスーパーで働く人も、どちらさまもハッピー、ハッピー。そんなムードを盛り上げようとするかのように、ずんちゃかした脳天気なBGMが館内を流れている。ずんちゃった、ずんちゃった。リズムに合わせて歩く。


 教室に到着し、ローファーを脱いで靴下を履き替え(ハニーズのセールで買ったソックスからタビオの無地ソックスへと変更)、四つ並んだ扉のうちの一番はじっこ、白いドアを軽くノックしてからエレクトーンルームに入った。

 広くてがらんとした室内の壁際に白いエレクトーンが1台あって、その前に置かれた木製の長いす(二人がけ用)のはじっこに、先生はちょこんと座っていた。ひらひらの刺繍ワンピースを着ていて、足は裸足だ。クロスを握りしめているのは、きっと鍵盤を拭いていたからなのだろう。私に気づいて、眉根をぎゅっと寄せた。


「ななちゃん! ちょっと聞いてよ。大変なの」


 裸足の足先を真っすぐ伸ばして椅子からするっと滑るようにおりると、刺繍ワンピース――たぶんこれはリリー・ブラウンの秋の新作! 同じマッシュグループのスナイデルにはしないところが逆にあざとくて好き――そのワンピースをひらひらさせながら、私に駆け寄ってきた。

 白い全面敷カーペットは毛足が長くてふかふかで、走る先生の裸足の足音を全部吸ってしまう。それがすごくもったいない気がした。


「本当に大変なのよ」

 きっとたいした話じゃないんだろうなあと思いながら、私はまじめな顔をつくって先生の顔を見上げる。


 先生の薄化粧の頬が赤い。チークじゃなくて、多分血色のせいだろう。口をへの字に結んでいる。なんだか子どもみたいだ。というか、先生はまだ音大を出たばかりの若い女性で、実家が太いお嬢様だからなのか、喜怒哀楽が全部顔に出る。あまりに表情が素直なものだから高校生ぐらいに見える。子どもみたいな口元になっている今は、背の高い小学生ぐらいに見える。なんてことだ、高校生の私より年下だ。


「あのね、今度、リコーダーの合奏コンサートがあるんだって!」

 なるほど。たいした話じゃなかったな、やっぱり。

「リコーダーって、あの小学校でやる縦笛のことですか?」

「そうそう。あのリコーダーを趣味でやっている皆さんが演奏会をするんだって」

 それがどうしたというのだろう。私が小首をかしげていると、先生は意味深な目つきになった。

「先生?」

「エレクトーンの伴奏者を探しているんだって」

「ああ、そういうことかあ。先生が出るんですか」

「ううん」

 先生はぶんぶんと音がしそうなほど強く首を横に振った。

「市内の中高生に伴奏を頼みたいんだって。その選考会があるの。だから、ななちゃん、出てね?」

 ななちゃんというのは私のことだが。伴奏は嫌だな。誰かの演奏に合わせるというのは、結構プレッシャーが大きいのだ。選考会も緊張するから苦手。

「出たくないです。おなか痛くなっちゃうし」

「でももうエントリーしちゃったから、出てね。あと勝ってね」

「ええっ」

 私の意思は?

「それじゃ、話は終わりね。さあ、きょうのレッスンを始めましょう」

「ええ……?」

 納得できない気持ちのまま、鞄から楽譜を取り出す。「いとしのうなじ」のコピー楽譜だ。原本は重いので家に置いてある。


 うなじ。ウナギじゃない。うなじ。


 最初先生からこの曲を課題曲として指定されたとき、うなじ……? どういうこと? という疑問しかなかった。


 そういえば好きな人のうなじって、どんなのだったかなと考えそうになり、自分の心にビンタする。いけない、いけない。違うことを考えないと。先生に恋心を見抜かれたら鬱陶しいんだから。気をつけなくては。


 ところで、ペリカンマンゴーってあるよね。甘くてとろっとしていて、黄色い皮がつるっとしているやつ。あの人の首筋はペリカンマンゴーに似ていると思う。もちろん色は違う、光を放つような白だけれど。ペリカンマンゴーにかぶりつくイメージが脳内をちらつく。まったくもって腹立たしい。考えないようにしようと思えば思うほど考えてしまうのって何でだろうか。


 歯ぎしりしながら蛇腹状に切り貼りしたコピー譜を広げ、手のひらを突き出した金剛力士像になった気分でフンっと折り目を伸ばし、エレクトーンの譜面台にセットしていたら、ふとエレクトーンの向こうの窓が気になった。

 葡萄がいる。

 それもぎっしりと。窓ガラスの下半分が葡萄で覆い尽くされている。

「なんですか、あれは……」

「いいでしょ。ピオーネとシャインマスカット。秋らしいでしょ。百均で買ったんだけど本物みたいだよね」

 確かに本物みたいな葡萄だった。実に透明感があって、自然な形をしている。スーパーのフルーツ売り場に飾られていそうな葡萄だ。そんな葡萄が窓にセロハンテープで貼りつけてあるのは、逆に美的にどうなのか。偽物っぽくデフォルメされた葡萄のほうがかえってインテリアに向いているのでは?


 でもまあピオーネとシャインマスカットか。紫と緑。うん、恋愛から遠ざかるのにちょうどよい色あいだ。


 葡萄、葡萄、ブドウ、ブドウ、グレープ、グレープ。


 紫と緑で脳内をいっぱいにして「いとしのうなじ」の陽気なメロディを奏でるグレープ。テンポは速からず遅からず。難しい曲ではないグレープ。足鍵盤で裏拍を刻むようなアレンジもないし、素直な曲だ。あまり頭を使わずに演奏できるレーズン。だからこそ弾き手の心情が出やすい。なんちゅう曲を……。ああもう嫌になるほど陽気だな。先生がいうには、これは陽気ではなくトロピカルらしい。トロピカルなうなじってなんだ。それはもしかしたらペリカンマンゴー……。


「あ、いま、音を抜かしたでしょ」

 ついうっかり余計なことを考えてしまったせいで、足鍵盤がおろそかになってしまった。


 隣に座った先生が、ワンピースの裾をたくしあげ、足を伸ばしてきた。私も制服のスカートを太もものところまでたくし上げる。ソックスを穿いた私の両足の間で先生の裸足のつま先がちょんちょんと鍵盤を押しているのを見下ろす。二人の膝が鍵盤の上で交差して、まるで足を絡めているかのよう。


「ここね、この音。ふわっと弾いた感じにしないで、ちゃんと押して、しっかり音を出して」

「はい」

「それじゃ、頭からもう一回」

「はい」

 グレープグレープグレープグレープ! 呼吸が乱れるっグレープッ! そこから私の演奏はずたぼろに崩れていったが、グレープ! グレープ! と心の中で絶叫して、途中からどうにか持ち直した。


 へろへろになりながら弾き終わると、先生は小さく拍手して「葡萄への思いが溢れる演奏でした。いとしのぶどう」と言ってから、最後に余計な一言を付け加えた。

「で、しちゃったの? 恋」

 息をのんでかたまる私に、先生はお見通しと言わんばかりに胸を張って得意げにふふっと笑った。

「恋すると鳴るんだよ、体が。だからわかっちゃった」

「……ちょっと何言ってるのかわからないです」

「そう? 音が体から出るようになるんだよ。そうねえ、ピアノなんかだとわかりやすいんだけど。ピアノを弾いたら、ピアノと共鳴した音が体から出るようになるの」

「恋すると?」

「そう、恋すると」

 嘘くさい。

「エレクトーンは共鳴しない楽器だからわかりにくいよね。でも先生にはわかりました。確かにキャッチしました、ななちゃんの恋の共鳴」

 こんなの絶対嘘だと思う。なんか表情とか雰囲気とかで察しただけなんだろう。それぐらいに私はわかりやすいってことか。もはや何も言い返す気にもならず無抵抗かつ完全敗北な友引仏滅的お日柄の心で先生をじとっと見上げる。


「相手、どういう子?」

 ほら始まった!

 先生はじっと私を見ている。優しい目。それなのに不思議な吸引力のある目。もうやだ。先生のことが好きです、なんて言えるわけがないのに、どうしろと。私は少し泣きたくなる。黙り込んでしまった私の背中を先生はそっと撫でた。ますます泣きそう。いますぐ先生に抱きついてみたい。泣いてすがりつきたい。でもできないし。先生は私をただの生徒だとしか思っていないの知ってるから。膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。


「その子とあんまりうまくいってないの?」

 見りゃわかるだろー! と叫びたい気持ちを抑えて、小さく頷く。


「じゃあ、選考会の課題曲の練習を頑張ったらいいよ」

「何でそうなるんですか」

 声が震えないように細心の注意を払って言い返した。

「だって、選考会で勝って、演奏会への出演が決まったら、恋の相手を呼んで、ななちゃんが可愛く演奏しているところを見せちゃえるよ?」

 異議ありだ。だってエレクトーンって両手と両足で演奏するから、常にバタバタ動いていて落ち着きがないというか、優雅さに欠ける。あんまり可愛くないはず。

 でも、先生が言うなら……。


「……ほんとうに可愛い演奏ができます?」

「もちろん。きっとお相手はななちゃんにメロメロになるよ。選考会は私が勝たせてあげる。だから、がんばろ」

 頑張ったら、私を可愛いって思ってくれるの、先生。

 目を伏せた私の肩を、先生は抱き寄せるようにして揺さぶってきた。視界ががくがく揺れる。

「もし頑張ってる可愛いななちゃんを見ても何も言ってこないような男子なら、さっさと忘れたほうがいーよ。残念だけど脈ナシだろうから。そのときは次いこ、次」

「わ、わあ?」

 お嬢様のわりに妙に説得力があるのはどうしてなのだろう。そういう経験があるのかな。嫌だな。先生は今は彼氏はいないみたいだけど、もし先生に彼氏ができたら私は手斧を買って日本中のエレクトーンをたたき割る旅に出ると思う。音楽への冒涜だ。どうかそんなことになりませんように。


「でもだいじょうぶ。ななちゃんはすっごく可愛いから。絶対うまくいくよ。もしも先生が男子だったら絶対彼女にするもん」

 先生はすぐそういうことを言うから。言うから~! ばか~!



 そうして新曲のレッスンが始まった。

 曲名は「ビッグブリッヂの死闘」だ。


 ……死闘とは。


 可愛い姿を見せるための曲が死闘?

 っていうかこれゲーム音楽じゃん、しかも敵と戦うときの曲じゃん、先生。先生~!

「荒々しさが足りないよ、もっと激しく! だけど緻密に!」

「ええ~?」

 合ってるの? この演奏で本当に良いの? この曲で選考会を勝ち抜いた後、先生は私のことを可愛いって思ってくれる……いや本当に? 恋愛的なものが一切想像できないんだけど。


 葡萄たちが小刻みに揺れて窓ガラスに当たり、リズムを取るみたいにコツッ、コツッ、と小さく鳴った。地を踏みならすような激しい足鍵盤の振動のせいなのか、あるいは恋の共鳴のせいなのか。



☆ ☆ ☆


 さて。まあ、なんていうかね。うん。


 落ちたよね、選考会。


 すっごい上手い女子中学生がいて、その子が圧倒的優勝だった。手がイソギンチャクみたいな動きしてたし、足はタコみたいだった。本当に関節があるのか疑うレベル。ちょっと意味がわからなかった。


 思ってたんと違うってなって圧倒的仏滅ハルマゲドン的お日柄気分になっていた私だったが、先生がデートしてくれることになった。頑張ったのに残念だったよね、でも頑張ったからごほうびに遊びにつれていってあげるよって。今度水族館に行くんだ。これってデートだよね。デートだもん。デートで間違いないし。

 やったぜ。


<了>

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秋に鳴らす鍵盤 ゴオルド @hasupalen

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