喉が喜ぶコーンポタージュ
だるまかろん
喉が喜ぶコーンポタージュ
それは通称オレンジの街。しかし、この街にオレンジの木はない。僕はこの街の住人だ。
「この街が好き。だから、この街に住むことにしたの。」
「あ、そうですか。」
僕は適当な返事をする。まるで興味がないようなふりをした。僕は彼女の左手の薬指を見る。
指輪を着けていない。僕は少し興奮しつつ、けれど冷静に対処しようと考える。
「オレンジの街に住んでいるって本当なの。」
彼女は僕に聞く。
「はい、本当です。」
僕は彼女を見て言う。
「彼女はいるの。」
「いませんが、何か問題でも?」
「……ふふっ。」
彼女は僕を鼻で笑う。失礼な人だなと思った。
「じゃあ、今日から私が妻になる!」
「はあ?」
僕は思わず言った。
「ご両親に挨拶に行ったら、婚姻届の書き方を教えてくれたよ。」
親が勝手に僕の結婚を決めたという。彼女は婚姻届を僕に見せる。よく見ると、証人の欄には僕の両親の名前が書かれている。
「僕は誰とも結婚する気はないですし、彼女も必要ないです。」
「それは嘘よ、これを見れば分かる。」
「……‼︎」
彼女は携帯電話を取り出し、画面を見せる。それは出会い系アプリで、僕が女の子とやりとりしている内容だった。
「あなたがやりとりしているミカって、誰だと思う?」
「……まさか。」
僕の背中に冷や汗が流れた。
「“ミカ”は私よ。オーシャンエリアに住む二十代女性よ。」
「それは……、本当ですか。」
世の中は超高齢社会だ。“ミカ”は僕と同じ二十代の独身だ。同じ街に住み、同じ駅を利用し、同じ趣味を持っていて、同じマッチングアプリを使う。誰かと特定する気がなくても、特定されるのは時間の問題だった。
マッチングアプリのプロフィール欄は、僕の理想の女性そのものだった。ピアノが趣味で、料理が好き。さらに僕の好きな食べ物がハンバーグで、彼女の好きな食べ物もハンバーグ。お気に入りのハンバーグの店も同じ。どんな人だろうと想像するうち、僕の中で、彼女の存在は神格化された。彼女とやりとりをした甘酸っぱい時間が、僕の頭の中で走馬灯のように流れた。
***
十二月、世の中はクリスマスシーズン。僕は彼女に連絡をした。今日は寒いですねと当たり障りのない文章を送る。
「本当に寒いですね。」
ミカの返信は早い。僕は驚いたと同時に喜んだ。
「こんな日は、温かいスープが飲みたいですね。」
「そうですね。コーンポタージュとか。自動販売機で購入します。ベンチに座って、駅前のイルミネーションを眺めながら飲みます。」
僕はたわいもない話をした。
「同意です。私は昨日、コーンポタージュを購入しました。駅前のベンチに座って、イルミネーションを見ながら飲んでいました。」
「えっ、そうですか。僕は今、ベンチに座ってコーンポタージュを飲んでいます。昨日だったら、僕たちは会えたかもしれません。」
「そうですね。昨日だったら会えたかもしれませんね。」
僕は彼女に会って話したいと考えていた。駅にいれば、彼女に会える気がした。クリスマスが終わるまで、僕は毎日、同じ時間に駅のベンチに座った。けれど、彼女らしい人物にすれ違うことはなかった。
***
今日も小さな雪が降っている。十二月になっても、オレンジの街に雪が積もることはなかった。僕は複雑な心境だった。僕は少し歩いて、ため池の水面に反転した街並みを見た。この街で人とすれ違うことは滅多にない。この街の水は砂漠の中のオアシスのようなものだった。
「今日の天気予報は雪なの。だから温かいコーンポタージュを用意したの。」
彼女の水筒には、コーンポタージュが入っていた。彼女は、トロントロンと音をたててコップに注ぐ。
「変な音でしょう。コーンが下にたまらないように角度を調整していると、上手く注げないの。」
彼女は不器用で、僕は思わず笑った。
「ふふっ、面白いです。」
僕は鼻で笑った。なぜか、僕は彼女を好きになっていた。
「いつも友達以上恋人未満になることが多いの。だから、チャンスは絶対に逃さないって決めたの。」
年齢が上がり、時間が流れれば、誰かと付き合う機会も増える。友達以上の感情を抱いても、恋人という肯定はしない。それは、ふわふわとしていて、心地が良いものだ。
「コーンポタージュを用意してみたの。お手ふきとカイロは二人分。それから綺麗なハンカチとポケットティッシュ。絆創膏、ハンドクリーム、リップクリーム、化粧直し。あとはチョコレート。いつもは持たないような持ち物をリュックに詰めてきたの。小学生が遠足に行くわけじゃないのに、入念に準備をしたの。いつものズボンをスカートにして、髪の毛を巻いて、三つ編みをして束ねてみたりね。」
見た目が全てではない。しかし見た目の評価は残酷だ。物事を良い方向にも悪い方向にも進めてしまう。
「そういう努力は、素敵だと思います。誰かのために自分を変えることは、とても勇気が必要なことです。」
僕は彼女を綺麗だと思った。今日の服装は僕の好みだった。きっと内面も綺麗に違いない、そういった先入観があった。
「見た目が変わったところで、性格は変わらないよね。でも、見た目すら変えられなかったと後悔したくないの。本当の恋人と、本当の結婚がしたいの。」
彼女の結婚願望は強い。なぜ結婚にこだわるのか僕には理解不能だ。ふわふわとした曖昧な関係の方が楽なのに。
「私が、マッチングアプリのミカだと知ってどう思ったの。」
彼女は僕にコーンポタージュを差し出した。僕は受け取る。
「想像していたより綺麗な方で、本当にミカさんなのかと疑いました。」
彼女の瞳孔が開く。どこからか風がふわりと吹いて、彼女の巻き髪を揺らした。
「今日は頑張ってオシャレをしたの。本気を伝えたくて。ご両親に署名がもらえたのは、本当に偶然だよ。私も驚いてしまったの。そんなのあり得ないってね。」
彼女もあり得ないような出来事だったらしい。彼女が朝、目覚めると今日は僕に会うと思ったという。店で買い物をしていると、偶然に僕の両親に会って意気投合し、カフェで食事をしたという。
「偶然かもしれないし、夢かもしれない。でも、私はずっとあなたに会いたかった。毎日、探していたの。そうしたら、今日、やっと会えたの。」
彼女は、やっと僕に会えたという。僕は何だか嬉しくなった。
「僕は、ミカさんに会えて嬉しいです。でも、結婚は全く考えていませんでした。」
僕が言うと、彼女は顔を赤くした。
「そう、私もあなたに会えて嬉しい。ありがとう。結婚は深く考えないで、勢いが大事だと思う。結婚してから二人のこれからを考えるの。今日から私はあなたの妻よ。さあ、冷めないうちに召し上がってね。」
コーンポタージュをひとくち飲んだ。ゴクリと僕の喉が喜び、温かいものが流れた。僕は何故か彼女の唇が気になってしまう。もう味など分からなくなっていた。僕たちは今日から夫婦となったらしい。彼女はとても強引で、慎重な僕とは正反対だった。結婚記念日に、彼女は僕の家にオレンジの木を植えたいと言う。
「僕はオレンジの栽培方法を知りません。大丈夫ですか。」
「うん、大丈夫だよ。私も栽培方法なんて知らないから。今から図書館に行って調べるの。」
彼女はオレンジが好きだ。彼女は香りを選ぶとき、必ず柑橘類の香りを選ぶ。彼女はオレンジの栽培方法について、図書館で調べることにした。
「今から調べるのですか。図書館もいいですが、まずはインターネットで検索してみたらどうでしょうか。」
「うん、そうだね。まずはインターネットで検索してみるよ。」
彼女は僕が持参したパソコンの電源ボタンを押す。
「パソコンは持っていないの。貸して欲しいな。」
彼女は目を輝かせて、僕に頼む。
「いいですよ。」
僕は彼女の上目遣いに心臓が高鳴った。生きてきた中で一番女性を魅力的に感じた。オレンジの街に住んでいても、オレンジの栽培方法は知らない。僕は今まで興味を持たなかった自分を恥ずかしく思った。
「知らないことを知る時間は、ちょっと怖いし、苦労もするの。浪人が決まったとき、この世が地獄みたいに思えて苦しかった。だから私は、興味を抱いたらすぐに行動するようになったの。」
彼女は、とある大学の受験に落ちて、浪人したことがある。それはマッチングアプリを使っているときに彼女話していた。
「植物に浪人はありませんよ。万が一、育てられずに枯れてしまったら、どうするつもりですか。」
「責任を取って、離婚するわ。」
「極端な思考ですね。」
「それくらいの緊張感で取り組まないと、上手くいかないってそう思うの。」
彼女は必死だ。なぜそんなに必死なのか僕には理解できなかった。
「重い緊張感を持ち、オレンジの木を育てようと考えた理由は何ですか。」
「私達が一緒に過ごす時間を、オレンジの木と一緒に重ねたいと思うの。」
彼女は、どこか遠くを見ていた。彼女は何年も先の未来を見ていて、僕は今を見ている。僕は彼女と考え方が違う。
「そうか、そうか、相加と相乗平均の大小関係を証明している場合じゃないでしょう。」
「えっと……、相加平均と相乗平均?」
彼女は変なものを見る目で僕を見る。
「ああ……、気にしないでください。」
僕が下を向くと、彼女は笑った。
「数学、好きなの。知ってるよ。私も数学が好き。あなたが数学が好きだって聞いたから、私も勉強をしているのよ。あの青い参考書、重いから夏休み中は学校のロッカーに置いて帰ったの。とても後悔したよ。私が遊んでいた時間、みんなは予習と復習をしていた。私は全員が同じスタートだと思っていたけれど、本当は全員のスタート位置が違うってことに気づいていなかったの。」
ああ、何となく分かる。それを人は“挫折”と呼ぶのだろう。僕もそういう経験はある。受験に限らず、あらゆる場面でスタート位置は不公平だ。スタート位置が自分で決められないからと他人に嫉妬し、恨みを持つ。
「ああ……、分かります。スタート位置は大切です。僕は、スタート位置に反抗しても変わらなかった。だから僕は何倍も努力をしてスピードを上げてからスタートをします。」
彼女は思い詰めた表情をした。
「努力や頑張りなんて、どうにもならないって諦めて、でも諦めきれなくて、また挑戦しているの。余計な夢ばかり見て、本当に情け無い。そんなことを考えながら買い物に行って、オレンジを買うの。」
彼女はオレンジの木を見つめている。
「今日から僕が時間を割いてオレンジの木を育てます。その代わりに、あなたの未来の時間を僕にください。」
「はい。あなたと一緒の時間が手に入るなら、私は喜んでそうするよ。私の未来の時間を割いてでも、あなたの時間が欲しい。」
彼女は泣いていた。僕はよくわからない約束をした。桜の蕾が増えた頃、僕は婚姻届を提出した。
***
五十年後のことだった。僕は相変わらず、オレンジの街に住んでいた。また小さな雪が降っていた。僕は彼女が来ないかと駅のベンチに座って待っている。けれど、彼女が姿を現すことはない。僕は持参したコーンポタージュを飲んで考え事をしていた。僕の左手の薬指には指輪があった。
「ふふふ。」
彼女と同じ笑い方をして、僕は泣いていた。今日は、彼女の命日だ。
僕の隣に、男が座った。男の顔立ちは彼女に似ている。
「お父さん、今日は会えて嬉しいよ。お母さんにも会えて良かった。」
男は彼女の写真を見つめて、僕と一緒に泣いた。駅のイルミネーションも、チカチカとしている。まるで泣いているようだった。
「そろそろ、球切れか。」
男は呟いた。僕は動く気力がない。コーンポタージュをひとくち飲む。
「彼女がコーンポタージュを持ってきてくれたんだ。慣れない格好で。今日みたいな雪の日だった。」
僕が呟くと、男は笑った。
「ふふっ。お母さんらしいな。」
男は彼女と似た笑い方をした。しばらく時間が経つと、僕は目を閉じていた。その日の夜は何だかとても静かな夜だった。彼女を好きになって、僕は良かったのだろう。僕は左手の薬指に反射する灯りを見た。それは虹色に輝いていた。僕は慣れない黒いスーツを着て、黒いネクタイを締めている。僕は五十年前の彼女の心境をようやく理解した。
僕は後悔しなかった。彼女のおかげで、オシャレな僕を見せることができた。僕は、もう少し早く気づくべきだった。
翌日、僕は彼女の家を訪れていた。僕は、コーンポタージュを持参して、彼女の家でくつろぐ。けれど、僕は孤独を感じていなかった。
「こんにちは。今日も美味しいコーンポタージュです。」
僕は、彼女が近くにいるような気がして話をする。
「ええ、とても美味しいですね。」
彼女の声が聞こえる。
「僕は、あなたに会いたいです。」
僕は呟いた。しばらく時が流れた。
「私も、あなたに会いたいです。」
少し遅れて、返事があった。
歳を取って、体のあちこちに不調が出た。僕は弱音を吐いた。生きることは、苦しみに耐えることだ。だが、苦しみに耐えなければ、幸せを感じることもない。
「僕は、あなたが居なければ、生きていけません。」
僕は、彼女の声に伝えてみた。すると、再び彼女が答えるのだ。
「私はここにいますよ。」
声だけが聞こえる。それは最近開発された音声と生い立ちを登録するアプリだった。AI技術の発達により、故人の情報を登録しておけば会話ができる優れものだ。
彼女の声があるだけで、僕は彼女がいない苦しみを緩和することができた。彼女がピアノを弾く様子を録音しておいた。それを何度も何度も聴いた。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来た。そして来年の春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。僕は泣いた。けれど、もう涙は流れなくなっていた。
「お父さんに会えて良かったよ、僕を育ててくれてありがとう。」
男の声が聞こえた。僕はふわふわと曖昧に旅に出た。そこから僕が戻ってくることは無かった。旅の途中で、彼女に再会できた。僕は彼女の手を握り愛を伝えた。
僕たちの薬指に指輪は無い。匂いなんてないはずなのに、コーンポタージュの匂いを感じた。僕らはコーンポタージュのような恋を味わった。男は僕をオレンジの木の下に埋めた。オレンジの木にはたくさんの実があった。男はオレンジを摘み取る。
「喉が喜ぶ。残された者は小腹を満たすだけ。」
男は持参したコーンポタージュをひとくち飲んでいる。男はオレンジの木の幹に黒いネクタイを結んだ。白いワイシャツ姿となった男は、開放感を味わった。
オレンジの葉が、男の膝元に一枚ひらりひらりと舞っていた。
喉が喜ぶコーンポタージュ だるまかろん @darumatyoko
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