②《遅すぎた後悔》

【第二章:自由と新たな生活】


 公爵邸から飛び出し、国を出た俺は、そこで初めて剣以外のものに触れることができた。市場で並ぶ多彩な屋台、笑顔を絶やさない街の人々、そして冒険者や商人の集まり―――公爵家の嫡男として生まれてから16年。全ての時間をただ剣に縛られていた俺にとって、何もかもが新鮮で、驚きに満ちていた。


 誰も俺を叱責することはない。何をしても誰も咎めない。初めて自分の意志で行動し、自由を謳歌することができた。そして、何より――俺は、そこで初めて「愛」を知った。

 彼女は、俺の過去も身分も全て受け入れてくれた。俺が話す苦しみ、孤独、痛みを、優しく「大変だったね、よく頑張ったね」と労わってくれた。そして、誰にも認められなかった俺の努力を、心から褒めてくれたんだ。

  俺はその優しさに救われ、やがて彼女と結婚した。数年後には二人の子どもにも恵まれ、穏やかな日々を過ごしていた。公爵家での厳しい過去など、遠い昔のことのように思えた。


 ――――――――――――――――――


【第三章:突然の知らせ】


 そんな平穏な生活の中、突如として公爵邸の騎士たちが訪れてきた。姉上の死――事業視察中に魔物に襲われ、あっけなく命を落としたという報せとともに。


 俺は動揺したが、家族に詫びを入れ、故郷へ戻る決意をした。公爵邸に到着した日は、ちょうど姉上の葬儀の日だった。父も母も不在で、使用人たちだけが黙々と日々の業務をこなしていた。


 葬儀に行くべきか迷っていると、ふと姉――シルフィアの乳母が、使用人たちの間を縫うようにして俺の前に現れた。彼女は長年シルフィアを世話していた人物だ。俺と姉の確執を知っているのだろう、「スリグナル様……」と慎重に言葉を選びながら話し始めた。


「おう――いえ、シルフィアお嬢様はずっと、スリグナル様のことを心配し、謝りたいと仰っていました。お願いです!どうか、どうか、私めの話を聞いていただけませんでしょうか?」


 俺が黙って頷くと、乳母は、一息つき、ゆっくりと語り出した。

 

「シルフィアお嬢様は、スリグナル様に言われたことをずっと心に留めておられました。『どれだけ努力しても、誰も俺を褒めてくれない!』――『家の名誉や誇りを守るための道具にしか見てない!お前だけが愛されて、自由で……俺には何もない!』――そう、スリグナル様は仰っていたと……」


心臓がギュッと締め付けられるのを感じた。ああ、俺は、確かにそんなことを言った。長い間、押し込めてきた不満や怒りが、あのとき爆発して、姉にぶつけてしまったんだ。


「他にも『お前が屋敷の中で母上とお菓子を食べている時、俺は屋敷の外で父上に木刀で殴られていたんだ。父上に同じように抱きつこうとしたら、突き飛ばされた。俺が欲しいものを口にすれば、剣聖として卑しい気持ちを持つなと言われた……俺は、何一つ手に入れることができなかった!』―――と仰っていた、とも」


そうだ。全て俺が言った言葉だ。

 

 乳母は俺の目をじっと見つめたまま、さらに話を続けた。


「ですが、シルフィアお嬢様も、スリグナル様と同じように運命に縛られておりました。シルフィアお嬢様は公爵家の長女として生まれ、将来、王太子殿下に嫁ぐことが決まっていたのです。いずれは王妃となる立場――おそのため、お嬢様には、厳しい条件が課せられていました」


俺は驚き、言葉を失った。乳母の言葉に引き込まれていく。


「王妃となる者には、広い教養に語学力、何事にも動じない胆力とカリスマ性、白い肌と美貌、そして――何より傷一つないお身体が求められます。ですから、シルフィア様は剣を握ることも、走り回ることも禁止されておりました。肌に傷を付けることは、未来の王妃として絶対に許されないことでしたから。また、転んで傷ができたり、ならず者に襲われることを恐れ、公爵夫妻はお嬢様のそばに常に二人以上の護衛騎士を付けておりました。お嬢様はお屋敷の外に出ることも、一人で行動することも決して許されなかったのです。」


そうか……俺が屋敷を自由に駆け回って鍛錬してた頃、姉は一人で行動したり、走り回ることさえできなかったのか。


「シルフィアお嬢様は毎日、勉強とマナー、そしてダンス漬けの日々でした。一応息抜きとして、公爵夫人とお菓子を食べる時間が設定されていましたが、その時間も社交界でのマナーを学ぶためのもの。……お嬢様にとって、完全なる自由など夢のまた夢だったのです。」


俺はずっと、姉上は屋敷で自由に生活していると思い込んでいた。だが、姉上もまた、公爵家の長女という運命に縛られ、苦しんでいたのだ。

 

「確かに、シルフィアお嬢様は公爵ご夫妻から溺愛されて育ったかもしれません。しかし、それはお嬢様が将来、王妃となり、未来の王を育てる使命を背負っていたからです。シルフィアお嬢様は王の世継ぎを愛で包み込みながら、完璧に育てることが求められます。公爵様も公爵夫人様も、お嬢様がその使命を全うできるよう、特別目をかけ、愛を注いでいたのです。」

 

俺は愕然とした。ずっと姉上は何も考えず呑気に愛され、自由を享受していると思っていたのに、実際はそうではなかった。姉上もまた、重い使命に縛られていたのだ。


「姉上も……辛かったんだな……」


俺はぽつりと呟いた。それを聞いた乳母は微笑み、静かに頷いた。


「そうです。ですが、シルフィアお嬢様は決してそれを誰にも見せませんでした。どんなに辛くても、常に笑顔で……スリグナル様、どうか、お嬢様を誤解しないでくださいませ」


乳母の言葉は、胸に深く突き刺さった。俺はずっと、姉上を誤解していたのかもしれない。俺が《剣聖》としての役目に縛られていたように、姉上も《未来の王妃》という役目に縛られていたのだ。


 ――俺が、恐れていたあの笑顔も、彼女なりの強がりだったのだろう。


 心の中で少しずつ、姉上への憎しみが溶けていくのを感じた。だが、代わりに後悔の念が押し寄せてきた。


もっと早く気づくべきだった。もっと早く、姉上と話すべきだった。謝るべきだった――


だがもう遅い。姉上は、死んだ。魔物に襲われて……。


この七年間、俺は何をしていた?もし俺が《剣聖》としての役目をきちんと果たしていれば、姉上は死ななかったかもしれない。俺がもっと早く、この地の魔物を全て討ち取っていれば――。


なんでだ。どうして俺は――。


胸の中で渦巻く後悔と怒りが、俺をさらに締め付ける。今さら気づいたところで、もう、何も戻ってはこないのだ。

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