#26. Replica Blue, True Crimson.

 境界線の向こう 置き去りにした 君が――


「セシル、私怖かったんだ」

 彼女が発するエマージェンシーをいつも俺は受け止めきれない。

 初めてアイリスが泣いたのを見たのは、《ラルウァ》――アーサーにヴィルヘルムが大敗を喫した夜。

 ディートリヒが死んだ夜も恐ろしいくらい冷静だったアイリスが、ヴィルヘルムが訥々と語った戦う理由に肩を震わせて子どものように泣いた。

「セシル、お願い。ヴィルヘルムを止めて」

「……どうして?」

 あのときの俺は自分のことで精一杯で、たとえ相手がアイリスであろうとも。

 いや、アイリスだったからこそ構っている余裕がなかった。

 大丈夫、アイリスは強い。

 どうして泣くの。君は強いのに。笑って受け止めてよ、君だけは。

「どうしてって……《あんな理由》じゃいつか死んじゃう!」

「リリィ。俺にヴィルヘルムは止められない。分かるだろ?」

「どうして、どうしてよ!」

「アイリス、君は手を汚す理由すら奪おうって言うの?」

 俺の言葉で彼女の目が凍り付くのが分かった。

 こくりと喉を鳴らして彼女は黙った。彷徨う視線が狼狽を告げていた。

 ヴィルヘルムが戦うのはアイリスのため。アーサーが奪ってしまった柔らかな笑顔を取り戻すため。君の手を赤に染めずにディートリヒの仇を討つため。

 それはとても正当で美しい《理由》。だから俺には止められない。

 本来ならそれは俺の任務であるはずだったから。

 けれど、俺にはアーサーをどうしても殺せなかった。だから逃げようとしたんだ。君から、現実から。

 突き放したその闇は、どれほど暗く澱んでいただろう。


 ❖


 それからアイリスは作り物めいて笑うようになった。

 つきまとう陰影をわざと見ないふりで、君に巣食う闇も見えないふり。

 なのに時折手を差し伸べてみては、惑わせて。

「ヴィルヘルムを愛してる?」

「あいしてるよ」

 婚約だってすぐに政略結婚だって、嘘だって分かった。

 幸せならいいなんて偽善者ぶって、いつも俺は自分だけで精一杯で結局アイリスを元より黒い底なし沼に突き落とす。


「セシル」

「なに?」

「怖い……私、今すごく怖い」

 先を促す素振りでそっと耳を塞ぐ。

 聞こえない。聞きたくない。怖いんだ、君の口からその言葉が漏れるのを怖れているんだ。戸惑う君なんて見たくない。心揺らしているのを見るのが嫌なんだ。

「ほんとうはね、知ってたんだ。飛龍フェイロンのこと」

「知ってたって」

「ディディがいつも話してた。尊敬してる先輩。憧れだっていっつも話してた」

「……アイリス、それじゃずっと前から」

「声も……すごく似てた。ディディ、真似してたのかな。――セシル、あたし怖い」

 数年ぶりに眼前に晒された生身のアイリスを直視できなかった。

 脆い声音。逆光の君の顔。

 表情が見えないのをいいことに、俺は今度もまた、弱々しく、たどたどしく、セシルと縋る声を聴こうとはしなかった。

「大丈夫だよ、だって君が愛してるのはヴィルなんだから。自分が見殺しにしたなんて、背負い込まなくていいんだ」

 瞬間。

 アイリスは心の奥まで凍らせて、小さく頷いた。

「そう、そうだね……」

 ぎこちなく。

 きみの魂を侵蝕する哀しみも寂しさも俺は見えない、見ていない、見られない。

 矮小だと嘲笑わらっていいよ。

 償えるのならば、いつかきっと君と同じ奈落へ行こう。

「飛龍がロスト認定されたから遺品整理しておいてね」

「――――――――リリィ」

「なに」

「誰もいない。俺は、何も見てないし、知らない。――仲間が死んだら泣いていい。泣いていいんだよ、リリィ」

 俺は盲目になろう。

 君の光も闇も俺にはもう何も見えない。

 痛みも苦しみも喜びも願いも、何も知らないままで傍にいるから、だから吐き出してくれよ。君の黒い澱を気の済むまでいくらでも。

「死なないって言ったのに」

「うん」

「うそつき」

「……うん」

 泣きじゃくる彼女を抱きとめもせず、離れたところからただ見ている。

 白いシーツが波のようにれて、はらはら落ちる涙はガラス玉に見えた。

 しばらくして落ち着いた彼女は、昔の柔らかい笑い方をほんの刹那浮かべた。

「ごめんね、ありがとう。ジェイムズ・セシル。もう――私大丈夫だから」

 君が嘘をついて、俺はまるで純粋な子どものように信じ切る演技をする。

「それはよかった」

 ほんとうは知ってるんだ。

 君は嘘ばかりついてるって俺は知ってるんだ。

 でもアイリスもきっと知ってる。

 俺が知ってるって、君も知ってるんだろ?

「ジェイムズ・セシル。私――地球のそらが好きよ。死ぬならここがいい」

 不意に聞こえるか聞こえないかの静かな声でアイリスが呟く。

 窓から見上げたそらは、皇国の人工的なそれと変わらない水色。

 天気は快晴。無風状態。

「覚えておくよ」

 託されたアイリスの遺言を、俺は聴かないふりができなかった。

 噛みしめて、心の奥に留めて。

 俺がこの遺言を実行する日が来なければいいと、飛龍の制服を小さな遺品箱に詰め込んで封をした。

 

 宇宙と海を反射して、地球のそらはいつか彼女を連れ去るだろうか。

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