#22. Bitter past and promise.
約束はいらない 守らなくていい だから逝くときは連れてって
ラス・アル・ハッドを発つ議長を見送るため、起床アラームが鳴る。
ぼんやりと重くかすむ頭で周囲を見渡す。
時刻は午前五時。
気を失うように眠ってから数時間ほどしか経っていない。
きちんとメイクされたベッドの向こうに制服の影が見えた。
「おはよう、アイリス」
「……おはよう、
意図的に目を逸らして上半身だけ起こす。何も着ていない。
おはよう、に愛しい人の幻覚が見える。
一人になりたかった。
「ダイニングに集合でしょ。先に行って。身支度したらすぐに行く」
「ま、下手に勘繰られてもなんだよね。分かった、先に行くよ」
私の額にキスをひとつ落として飛龍は先に部屋を出た。音もなく閉められたドア。一人っきりの部屋が突然圧し掛かってくる。
泣いたりしない。
膝に顔を
泣いたりなど、しない。
❖
「では、休暇明けから飛龍もイシュタルに」
「承知いたしました」
「アイリス、イシュタルを頼む」
「はい。議長も道中お気をつけください」
滞りなく議長の見送りを終え、ホテルのポートから飛び立つシャトルを確認してダイニングに戻る。朝食は断って珈琲だけを頼む。飛龍も「彼女と同じに」とボーイに告げた。
向かい合わせに座って黙って珈琲を飲む。会話はない。
私は窓の外をずっと見ていて、窓に反射する飛龍はずっと私を見ている。それでも黙ってただ時間が過ぎていく。
昨夜あんなことがあったのに不思議と居心地は悪くはなかった。
「ハヤトはいいわよねぇ!」
ささやかな静寂が多少八つ当たり気味の声に破られた。エレベーターからハヤトとアンナが連れ立って降りてくる。
「議長からお褒めいただいたし? 今日はオフだし? 羨ましいったら!」
「なんだよアンナ、なんで怒ってんの?」
「べっつに! 怒ってない!」
「お前ら、イシュタルのルーキーだろ?」飛龍が声をかける。
「え? あ……!」
「もう一人の独立遊軍准将はどうした?」
アンナが私と飛龍とを交互に見遣る。ハヤトはどこかぼんやりと彼女の後ろで足を止める。敬礼もアンナの方が早かった。
「大変失礼いたしました。おはようございます、グレンヴィル准将はまだお部屋かと」
「――それでね、聞いてらっしゃいます? セシル」
まもなく連れ立って現れたエミリアとジェイムズ・セシルを見て「あーなるほどね。分かった。サンキュ」飛龍が席を立つ。
私には関係なさそうなので、大人しく珈琲を飲み続ける。
「おはようございます、アウローラ皇女」
「あら、おはようございます。飛龍さん。アイリスも」
私の席の周りにエミリアやジェイムズ・セシルがやってくる。
偽者とはいえ
休暇明けからイシュタルに配属だと飛龍が言い、ジェイムズ・セシルが驚く。同じ艦に独立遊軍准将格が四人もいると面倒だと言い、そんなことはないでしょうとジェイムズ・セシルが苦笑する。私の前とは違う口調や仕草ごとに変わる表情をぼんやりと見ていた。
『俺なら死なないよ? だから愛してよ、アイリス』
そう言ったのは確かに飛龍だったのに、今の喋り方はまるでディディみたいで脳に白い
ぼうっと、でも飛龍の声だけはくっきりと飲み下した。
苦い。とても、苦い。
❖
今日もいっぱい殴られた。
クレイドル乗りのくせに皇国にラス・アル・ハッドを攻略されたから。
頭がくらくらするぐらい殴られる。
でもお腹を殴られるよりいい。殴られて吐くと喉が酸で焼けていつまでもひりひりするから。
気を失うまで殴られたら満足したのか、起きたときには司令官たちはもういなかった。《アルコ》や《エスパーダ》もいない。
誰もいないのでとりあえず外に出てみたら、街はお祭り騒ぎだった。
「
という声も聞こえたから、そっと町の子に扮して雑踏に紛れる。きれいな女の人が歌ってる。美味しそうなご飯の屋台がいっぱい出ている。みんな笑ってる。
わたしたちが負けたから?――じゃあ、負けてよかったんじゃないかな? だってみんな笑ってるんだもの。
ドンッ!
喧騒に疲れて街外れをぼーっと歩いてたら人にぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
「俺こそごめん! ラス・アル・ハッドの子? 俺仲間とはぐれちゃったみたいで」
きっと皇国民だ。早く離れないと。殺される。
「そ、そう、ラス・アル・ハッド。でも外、くわしくない。家からあんまり出ない」
「……そっか」その人は薄く目を
「やッ!」
こわい、ころされる、バレたらころされる……!
跳ね除けた手でその人の頬を引っかいた。
「大丈夫、大丈夫だよ。親にやられたの? 俺、こう見えて軍属なんだ。虐待されてるなら……」
軍属――!
ころされるころされるバレたらころされる!
死ぬのは嫌! ころされる……っ‼
「ころさないで……! 死にたくない……!」
「大丈夫だよ、俺が守るから、ちょっ、落ち着いて……‼」
抱き合うように、揉み合うように、「うわっ」「きゃぁっ」二人絡んで崖から落ちる。幸い高さも低く、下が草叢と水場だったので、水浸しになるだけで済んだ。
「大丈夫? 怪我は!?」
「……か、かえる」
「あっ、えっと俺ハヤト! 君は?」
「――――ルチェ」
背中に聞こえた声を噛みしめる。
ハヤト。
わたしを守ってくれる。
その言葉を胸の奥にしまっておけば、きっと帰ってから為されるだろう激しい折檻も痛いばっかりのクレイドル戦も耐えられる。
だってわたしを守ってくれる人がいるから。
「またな、ルチェ! 気をつけてな! 何かあったら言いに来いよ、助けるから‼」
「――さよなら」
二度と会えなくても、わたしにはあなたがいる。
❖
「エマージェンシー?」
ジェイムズ・セシルの口から出た単語に眉をしかめた。
イシュタルクルーは現在束の間の休暇中だ。
そのイシュタルにエマージェンシーが送られてきた。それもハヤトから。
「休暇中なのに?」
「まったくだ。迷子だと。子どもみたいな奴だよ」
「今から迎えに行くの?」
「いや、今帰ってきたところだ」
ジェイムズ・セシルが視線で示したパーテーションからハヤトが姿を現す。私服姿で、頬がひっかかれたような傷になっていた。
「アイリスさん……じゃなかった、ミハイロフスキー隊長」
「アイリスでいいよ。〈マギエル〉でも。――で?」
「え?」
「まさか猫にひっかかれてエマージェンシー出したわけじゃないでしょう?」
「ルチェが、女の子が崖から落ちて、助けたんですけど……登れなくなって」
「助けたって、知り合いの子?」
「違います。ラス・アル・ハッドの子でもなかったみたいだったし」
言い切ったハヤトに軽く目を見開く。
ジェイムズ・セシルを見返すと黙って頷いた。
ハヤトは続ける。私とジェイムズ・セシルがおぼえている違和感をまだ知らずに。
「暴漢か何かで酷い目にあったみたいで、死ぬのをすごく怖がってて……」
「それで?」
「俺が守る、助けるからって言ったら落ち着いたんですけど」
「そんなこと初対面で言ったの? 浅はかすぎない?」
「え?」
「この先ずっと守れるわけでもないのに」
ジェイムズ・セシルがおぼえている違和感とは違うかもしれないけれど、私の違和感の正体は今の言葉ではっきり分かる。
その子のことを何も知らなくても、敵かもしれなくても、ハヤトは守りたかったんだね。
「でもアイリスさん、あの子……」
《ミハイロフスキー隊長、至急回線1番をお取りください》
「ヴィルヘルムか?」
「だったらいいんだけどねぇ……どうせ軍本部でしょ」
ハヤトとの会話を打ち切って
すると数秒もしない内に「アイリスさん!」と
ジェイムズ・セシルも意表をつかれた顔でハヤトを見下ろしていた。
紡がれたのは
「また明日!」
当たり前の挨拶。仲間同士なら誰でも交わすような言葉。
しかし明日をも知れない軍属同士ではそれが果たされないことも多い。
実戦経験が少ないハヤトはまだそれを知らない。
苦い。
それでも私は一拍置いて笑顔で返す。
「――ええ、また明日ね。ジェイムズ・セシルも」
「あ、ああ」
そう言えることの残酷さを、きみはまだ知らない。
守ると簡単に言える幸せを、まだきみは気づけない。
『すぐに戻ってくるから、そうしたら話がある』
果たされない約束の背中を記憶している哀しさを知らない。
今でも果たされない約束に縋ってしまう愚かさを顧みない。
❖
「こちら〈マギエル〉」
「こちら軍本部。チョンジエンからハサブ駐留の
夜が明けたら海が染まる。
またあした、そう言えるように私たちは黒と赤に海を染める。
約束を守るために、誰かの約束を踏みにじって。
その残酷さにいつかきみは泣くのだろう。
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