#21. Darling, I can't love you.

 目が醒めて 指でたどる くちづけの痕も きみとおなじ


 ――なんでこうなったんだろう。

 触れられて、目を閉じたまま耐えられずに声が漏れる。

 聞き様によっては艶めいて、あるいはひどく間抜けに息が抜けた。

「ひ、ぅ」

「うん、気持ちいいね。いい子だね」

 飛龍フェイロンにとっては前者だったようだ。

 微かな安堵と99%の罪悪感、どうして、どうして――声だけが夢にまで見た人。

「アイリス、もっと聴かせて」

 ディディじゃない。

 指が、肌が、香りが、目が、仕草が、何もかも、存在からして彼じゃない。

 違う。違うのに。分かってるのに。

 どうして声だけ同じなの。

「飛龍」

「離したくない」

 輪郭をたどるように触れる舌先も

「誰にも渡さない」

「……っあ、あ」

 互いの体温をなじませて重なる皮膚も

「アイリス」

 明確な快楽をもって満たされる粘膜も

 熱は身体中に波及して脳細胞がける。攪拌される。

 甘い束縛と睦言に、そう遠くはない記憶がフラッシュバックする。


『迎えに来た――アイリス』

 始まりはあの温室のような閉鎖された部屋。

 ガラス越しに見えた歪んだ景色。

 差し出された右手に、意味も分からず湧き上がる衝動だけで手を重ねた。

 私を見つめた琥珀色の目に魅せられて、暖かで大きな手に、この穢れた手を。

 ためらいも打算もなく私をアイリスと呼ぶ声が好きだった。

 〈マギエル〉なんて兵器の名前で私を呼んだりはしなかった。まだちゃんと人間なんだってことを、この世でただ一人私に教えてくれた、かけがえのない愛しい人。

「愛してるよ、アイリス」

 いくらでも強く在れた。ただひたすらディディのため。

 優しい手を、穏やかな目を、喪いたくなくて、守りたくて。あの声が私を呼ぶだけで世界が綺麗なものに見えたから。

『すげー愛してる、絶対離してやんない』

 笑いながら紡がれるディディの言葉は私にとって魔法の呪文だった。

 ディディがいたから、どんな世界でも生きていこうって思えた。

 なのに。

 あっけなくディディは目の前であいつに殺された。

 いとも容易くブランドゥング作戦は失敗し、『戻ってくる』の約束は壊れてしまった。遺されたエンゲージリングとプロポーズめいた言葉、抜け殻の真新しい制服。

 もう戻らない、その現実だけがひしひしと押し寄せた。


 ❖


「アイリス」

 ここにいるのは誰。

 目を閉じてたら彼がいる。一番好きだった柔らかく気を抜いた顔で微笑ってる。

 きみは誰。知らない色。知らないキス。知りすぎてる声。

「好きだよ」

 ディディ。ディートリヒ。

 あたし、ディディのものになりたかった。たぶん今も。きっと未来も。

「やっぱり誰かの代わりじゃ我慢できないな」

 隙間なくキスで印をつけられて、ディディの癖を思い出す。ルートも同じ。

 ちくりと刺す痛みが、時折噛まれる疼きが、どうしようもなく彼を運んでくる。

 脳内がスパークしてもう何も考えたくない。何も感じたくない。考えられなくしてほしい。全部何かで埋め尽くして――たとえばそれがきみの欲情しかないなら、それでもいいから、今すぐに。

「俺なら死なないよ? だから愛してよ、アイリス」

 ディディとは別人のこの人が、なぜ私をこんなに愛し、執着してくれるのか分からない。それは分からないけれど。ぐらつきそうな自分が怖い。

 別人だからこそ、この先を知りたくなってしまいそうで、好きになれてしまうかもしれないと、この人の心の奥を知りたいと思ってしまう自分が怖い。

 決して言葉にはしない。伝えたりなんかしないけれど。

 もしも万が一、飛龍をこの先どんなに深く愛す日が来るのだとしても決して伝えたりはしないけれど。

「ヴィル……っ、」

 わざと口にした。

 私はヴィルヘルムのものになるよ。彼を愛していく。

 私は飛龍を、もう他の誰をも愛さない。愛したりなんか、しない。

「キミはほんっと魔性だねぇ……ここで他の男の名前呼ぶ? ひどい人だなァ」

 自嘲気味にわらう飛龍はやっぱりディディなんかじゃなかった。

 きみはきみで、過去でも未来でもなく、現在でしかない。

 でも――だから、ねぇ、飛龍。

 今夜だけはきみの声で眠れない夜へ強引に連れ出してよ。

 どこか遠く意識の果てまで。

 ずるくてひどい女だと何万回罵ってもいい。その愛しい声でならば。


「死なないでね、飛龍」

 せめてこの夜が明けるまでずるいままでいさせて。

 その代わり今度こそ、死なせたりはしないから。

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