#16. The scales of "Magier".

 パンドラの箱には なにも残らない 残さない 黒い渦に身を委ねる


 輸送艦に《ルサールカ》を乗せて地球へと降下する。傷を負ったとて蒼い星は、常と変わらず落ち着いて見えた。瑠璃の宝石と言ったのは誰だったか――窓に額をつけると冷たい。

「ミハイロフスキー隊長、イシュタルはアレクサンドリアに入港しました」

「そう、それではアレクサンドリアの司令官に連絡を」

「承知いたしました」

 敬礼と共に士官が去ると、当然のようにワイングラスが艦橋に運ばれてきた。

 色素の淡い液体が光を反射して揺れている。香りから分かる上物のロゼだ。

「戦艦には似つかわしくないと叱責されますかな」

「いいえ、よそ者の私が咎めることでもありますまい」

「さすが〈マギエル〉。道理が分かっていらっしゃる」

 艦長は一口にしては少々多すぎるワインを口に含んで飲み下すと、粘着質な笑みを浮かべた。ワインと共に運ばれてきた、通常のふねにあるはずもないキャビアを勧めながら言う。

「あなたが本国に戻られた際には一言お口添えいただきたい」

「――生憎、人事に関する権限は持っておりませんので」

「いやいやいや、〈マギエル〉からあのふねはよくやった、と一言添えていただくだけでいいのです」

 義父を思い起こさせる武骨な手がそっとグラスを傾けて、私のグラスに重ねる。

 チリンと虚しくグラスが鳴り、男は自らのくちびるを軽く舐めた。

「〈マギエル〉、我らはどこまでもあなたの味方ですよ」

「それは心強いことです。承知いたしました。便宜を図りましょう」

 笑顔を向けながら小さく舌打ちする。耳をすませば聴こえる程度に。

 しかしそれは大気圏突入によって轟くエンジン音に都合よくかき消された。


 アレクサンドリアの上空で《ルサールカ》に搭乗し、イシュタルへと着艦する。

 アスタルテの三機強奪事件でずいぶんと傷を負ったふねはほぼ補修が終了していた。

 もう間もなくスエズへの出航命令が下されるだろう。――ジェイムズ・セシルはいるだろうか。滑り込むようにして格納庫ハンガーへ《ルサールカ》を収容すると、隣に《ロキ》はもう収まっていた。

 にわかにざわめく格納庫ハンガーにそのまま降り立つと、整備士やパイロットたちが集まってくる。

「アイリスさん!」

「お久しぶり」

「作戦に参加されるんですか? 《ロキ》ももう合流してて……」

「そう、ロンギヌス所属アイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキー。乗艦許可を」

 名乗って微笑んでやれば年若いパイロットの少女もまた微笑み返した。敬礼をした人々の花道のような間を縫ってアントワーヌの元へと案内される。

 一人一人に敬礼を返しながらふと引っかかった先ほどの言葉を反芻した。

 アイリスさん。

 あまり親しくない人に名前で呼ばれたのは久しぶりだ。輸送艦しかり、通常の軍属は私を〈マギエル〉と呼ぶ。ほんの少しだけ口元が緩む。

「でもなんでアイリスさんまでイシュタルに?」

「議長命令。次のスエズがね、ちょっと大変みたいだから」

「ええ! 嫌ですよ、この前のチョンジエン沖みたいな目に合うの……!」

「大変だったんですってね」

「ほんと、ハヤトと《ランサメント》がなきゃどうなってたか!」

 彼女の言葉に思い出す。《ランサメント》パイロットのあの少年。チョンジエンへの憎しみを隠そうともしない、あの少年。

 私の望みを叶えてくれそうなあの子が、このイシュタルにはいたんだった。

「ハヤトって強いの?」

「どうですかねぇ? 普段は一緒にいるシスネの方が強いと思うんですけど……」

「《ラルウァ》より強かった?」

「え? 私は分からないですけど艦長たちはそう言ってました」

「へぇすごいじゃない。私も負かされちゃうかしら」

 実際のところ《ラルウァ》以上の強さなど期待してはいない。

 けれど表面には出さずに微笑う。

 少女も〈マギエル〉がたった数回戦場に出ただけのハヤトに負かされるとは思っていないだろう。まさかぁと笑いながら私の目を見る。

「私、パイロットで。ずっとアイリスさんに憧れてたんです。ご教授願えますか?」

「いつでも。あまり伝授できることもないけれど――演算能力の高いAIがかしこいクレイドルに乗るのがコツね」

 笑いあってエレベーターを降りると、目の前でジェイムズ・セシルがぼんやりと立っていた。どうしたんですかと少女が声をかけても、ジェイムズ・セシル、と私が呼んでも気づかない。

 ふらりとエレベーターに乗って格納庫ハンガーへと降りて行った。

 あれが本来彼の通常運転なのでどうでもいいが。

「どうしたんですかね、グレンヴィル准将」

「放っておきなさい。いつもあんな感じなんだから」

「そうなんですか?」

 どこか納得のいかなさそうな表情で少女は頷いた。へんなひと、と小さく聞こえて吹き出しそうになるのを咳払いで堪える。

 願いさえなければ。こうやって過ごすのもよかった。

 可愛い後輩に憧れられて、笑いあったり、からかってみたり――恋をしたり。時にはつらいことで涙しあって、戦争が終わったらどうする? なんて話をしてみたり。

 そういう風に。

 想像することすら、今はないものねだりでしかないけれど。


 ❖


「本当に――何を考えているのかしらね、議長は」

「さあ。私には聞かされておりませんので。お答えいたしかねます」

「分かってるわ。で? あなたが来たということは、指揮権はあなたに?」

「いいえ、私は戦闘時の後方支援及びパイロットの技術向上支援との命を受けております」

 アントワーヌが深い溜息を吐いてこめかみを押さえた。胸に独立遊軍准将のブローチが光っている。副艦長はおずおずと私とアントワーヌの動向を窺って視線を彷徨わせている。

「ま、考えても仕方ないわよね。あなたの噂はかねがね。――ええと」

「〈マギエル〉で結構ですよ、アントワーヌ艦長」ひとつ線を引いた。

「……では〈マギエル〉。イシュタルは0500マルゴーフタマル、ドバイへ向かいます。途中スエズ、オマーン湾では激しい戦闘も予測されます。〈マギエル〉の手腕、期待しています」

「承知いたしました」

 議長の愛人と囁かれる女は司令官の顔でそう告げた。

 手腕がないわけではない。

 お情けだけで艦長まではさすがに上り詰めることはできない。

 スエズ、オマーンでのお手並み拝見といったところか。

 領土的野心を見せず独立闘争を繰り返すゲリラを鎮静化できるのか。

 束ねた髪をほどき足早に格納庫ハンガーへ戻る。

 ジェイムズ・セシルを見失わない今のうちに。


 ❖


「ジェイムズ・セシル」

「アイリス! 君も来てたのか」

「今度は気づいてくれた。さっきも声かけたんだけどね。《ロキ》の整備は順調?」

「ああ、色んなパイロットにオモチャにされてるよ」

「いいことよ。自分より上位の機体に興味を持つのは」

 隣に並んだジェイムズ・セシルはいつの間にか背も伸びていて、肩幅も広くなっていて、あどけなさも薄れて、大人っぽさがぐっと増している。

 ああ、もう三年だよ。ジェイムズ・セシル。

 テオが死んで三年。

 きみが私たちを裏切ってからもう三年なんだね。セシル。

「ねえ、セシル」

「なに?」

「どうしてきちんとテオの――ディディやみんなの仇を討ってくれなかったの?」

「………………え?」

「どうして《ラルウァ》のパイロットをちゃんと殺さなかったの?」

 ジェイムズ・セシル。きみにもこの闇を見せてあげる。

 もっともっと悪夢を、絶望を、悲しみを、裏切りを。 

 きみが私たちに与えただけの闇を私もきみに与えてあげる。

 だからもっと蒼ざめて。告げて? 戦慄を。

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