#15. The wings reach inside you.

 ねっとりと 指先から堕ちる 闇の底    目醒めたのは だれだ


 真夜中に目が醒める。

 はあはあと肩で荒い息をしていた。胃壁がせりあがる痛みと共に、胃液が突如逆流してくる。手で口元を押さえ嚥下すると、けつく痛みだけが喉に残った。じっとりと皮膚が汗ばんでいる。なのに手の震えが止まらない。視界は赤い。

 鼓膜で鳴る幻聴は、警報音アラートとクレイドルの駆動音と悲鳴――そして誰かの声。

 キミの声だったらよかったのに。記憶の中、遠いキミの。

 キミを知ったその日から、この手はキミのためだけに戦い続けて。

 遠く、はるか遠くのキミに心を攫われて。今もなお。


 ❖


 空を見上げて、たなびく雲を追いかける夢を見ていた。

 それは飛行機雲などではない、墜ちた誰かの命の残滓。

 ひたすらに追いかけていく。手を伸ばしても掴めるものはない。

 しゃかりきに追いかけていく。届く言葉など、見つかりはしない。

 ふと指先から何かが垂れた。紅い。どろりとしている。血だ。

 ふと自分の姿が鏡に映る。制服を着ている。クレイドルに乗っている。

 ああ、そうか。

 自分が殺したんだと気づく。

 空恐ろしくなって足元を見るとガラガラと崩れていく。いつの間にか蒼いそらはない。真っ暗な闇にスポットライトのような光がひとつ。

 なにもない。なにもきこえない。なにもみえない。だれもいない。

 キミさえいない。

 指先から血が滴る。握りしめても掬おうとも止まらない。流れていく。

 悲鳴をひとつ飛び起きる深夜、荒い息。

 だれもいない。キミがいない。だれもいない。――キミはどこに?


 ❖


李飛龍リ フェイロン、君もイシュタルに。期待しているよ」

「承知いたしました、プレヴァン議長」

 何とはなしに外を眺める。

 採光ミラーが映す昼間の風景。平和な偽物。白い暗闇。

 恭しく議長からの辞令を受ける。この人も腹の内が見えない。俺も見せない。

 だれもいないんだ。最期には何も残らない。誰もいない。キミ以外にない。

 白い制服の上に栄光の勲章が光る。血まみれの証として与えられた独立遊軍准将の称号。引きちぎりたくなる。罪人の、罪咎の、他でもない証拠のようで悪寒がする。

 キミもこの悪寒を味わったことがあるだろうか。

 あるのならすべて拭い去ってあげたいと思う。

「飛龍、知っていると思うがイシュタルには既に独立遊軍准将が三名いる」

「アントワーヌ艦長とグレンヴィル氏ですね。心得ております、あと一人は……」

「君と一足違いで彼女もイシュタルに向かわせた」

「彼女」

「〈マギエル〉。君が唯一敬愛する人物だ」

 見透かすように議長が笑った。

 逆光の真意を目を凝らして探る。

 アイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキー。通称〈マギエル〉。皇国軍伝説の魔女。ずっとずっと逢いたかった敬愛する彼女。

 夢の中の闇に唯一希望をもたらしてくれる人。

「イシュタル艦一隻に戦力が偏りすぎでは?」

「そうかもしれないな。まあスエズは重要拠点でもある。致し方ないさ」

「確信犯ですか。俺は僥倖ぎょうこうですが」

「君の出番はもう少し後だ――時機は追って連絡する」

「それはもう、楽しみにお待ちしております」


 〈マギエル〉

 どんな敵にも負けたことのない、キミになら。

 どんな敵でも殺し続けてきた、キミになら。

 繰り返される真夜中の闇をきっと理解してもらえると、そう、信じている。

 誰にも負けないから、キミは消えない。

 誰にも負けないから、キミの手とて赤い。

 士官学校時代、何度も何度も繰り返し聞かされた〈マギエル〉の勇姿。

 畏怖と羨望を集めるその強さ。

 あの日ただ一度垣間見せた強さと裏腹の、壊れそうに揺れた蒼い双眸。

 誰にも見られぬようこっそり震わせていた、袖口に隠した握りしめられた手。

 たった数秒かわした会話。ほんの刹那、俺を通して誰かに向けられた微笑み。

 すべて、根こそぎ持っていかれた。

 キミに、世界ごと持っていかれたままだから。

 アイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキー。アイリス。何万何千と呟いたその名前。誰もいないと諦めた世界に唯一君臨しているキミに逢えるのなら。

「地球だろうとどこだろうと、行ってやろうじゃないか……」


 ❖


 そう遠くない過去。

 優しく軍基地に響いた、柔らかい声のレクイエム。

 誘われるままに足を向けた格納庫に、歌は淀みなく溢れていた。

 長い黒髪、白いクレイドル乗りの制服、パーソナルマークから〈マギエル〉であることはすぐに知れた。

 魔女も死を悼むのだと、正直意外だった。

「――なぜ歌を?」

 思わずかけた声に、彼女はなぜか驚いたように息を呑んで……振り返らなかった。

「きみが死んだから。きみがもうどこにもいないから」

 彼女は俺を誰かと間違えている。

 誰か……愛したクレイドル乗りと。

「あいつを殺したら、私も逝くから。せめて今はゆっくり眠ってて」

 壊れそうな声で彼女の微かに見える横顔が微笑んだ。

 俺は誰かのふりをして彼女に囁く。

 心配しないで。悲しまないで。

「また逢えるよね――?」

「きっと必ず」

 きっと必ず、キミに逢いに行くよ。

 だから泣いたりしないで、悲しんだりしないで。

 キミは〈マギエル〉。最強の名をほしいままにする魔女。

 きっともうすぐ逢いに行く。

 守りたいのはキミだけだから、俺は闇を纏って、血を浴びて、手を真っ赤に染めてそれでもキミとの約束を果たしに。


 ――いま、やっと逢いに行ける。

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