Magier der Luft
#01. Rollin′ the World with Astarte.
目覚めても 目覚めても 求める姿だけいないこの世界で
殉職による二階級特進で支給された袖を通してもいない紺青色の真新しい制服。身分証明書、指輪と音声だけのデバイスデータ。
彼が遺してくれたのはたったそれだけ。
左手の薬指にはめたプラチナのマリッジリング。トパーズとダイアモンドとアクアマリンが柔らかに輝く美しい曲線。
トパーズは彼の瞳。アクアマリンは私の瞳。永遠を誓うダイアモンド。
❖
眼下にアスタルテ基地が見えてくる。
新たに整備されたこの軍港の中には最新型クレイドルが四機。通常型クレイドルが八十機。明日進水式を迎える新造艦イシュタルも配備されているはずで、式典の準備でにわかに活気づいている。
彼がロストして三年。
見せかけの停戦条約で世界の平和は保たれている。
その実、裏で日夜スパイが暗躍し、各国が水面下で新型クレイドルの開発を進めている。講和など儚く脆い。歪みは拡大しつつある。長くは保たないだろう。
「アスタルテはお気に召したかな? 〈マギエル〉」
「その呼び方はおやめください、議長」
ヘリの隣席から男の声がする。真意の読めない顔ですまないと彼は微笑んだ。そのまま何食わぬ顔で落とされるくちびるも特には拒まなかった。
「明日の進水式にあわせて、チョンジエンから姫君が内々かつ緊急に会談に見えるそうだ」
「例のチョンジエンから流出した技術と人的資源の返還ですか?」
思ったよりおざなりな声が出た。
「さてね、恐らくは。あるいは軍拡に対する批難か。――未確認情報だが使節隊の一員としてジェイムズ・セシル・グレンヴィルが随員するらしい」
「ジェイムズ・セシル」黒いモノが胸に拡がる。「それはまた興味深い会談ですね」
笑みを深くして男は強く私の腕を引く。バランスを崩して上半身を傾ぐと、耳元に吹き込むようにして男が言う。
「君も来なさい。名目は何がいいか――私の護衛とでも」
「たかが会談に〈マギエル〉を?」
「これ以上ない牽制じゃないか」
「議長、私はチョンジエンも
「休暇なんて無理強いしても取らないくせに何を」
からからと笑いながら、男は私の頸動脈にすっと指を滑らせた。
「私に従うことが前提条件だろう? マイ・メフィスト」
実に楽しそうに、そして憐れむように囁く声が耳について頭痛を誘う。探る舌にさしたる抵抗も示さず小さく口を開くと当然のように侵入してくる。
ディディへの裏切り行為を指輪が咎める。
けれどこれも全て彼のためだと、近づく軍港を横目に自分に言い聞かせた。
❖
「到着します、議長」
秘書官に促されてようやく男の動きが止まる。
ばつが悪そうな顔の秘書官と目が合った。
「――行こうか、ミハイロフスキー隊長」
「秘書官、このことは他言無用に」
「心得ております」
微かな侮蔑を含んだ声を背に、先にタラップを降りた男の二歩後ろに続く。
「議長、チョンジエンの代表が到着されました」
「さてさて、忙しいことだな」
季節を知らぬアスタルテの、穏やかな風が吹いている。
❖
けたたましく捲し立てる子猫に舌打ちしそうになる己を必死に抑え込む。
爪を立てることしか知らない子猫を送り込んでくるなんて、チョンジエンも落ちたな。東アジアの獅子と呼ばれた堅固な永世中立国のイメージは鳴りを潜め、物知らぬ子どもの駄々に聞こえた。苛立ちに心中で爪を噛む。
議長は政治家の顔にも慣れ、苛立ちと嘲笑と侮りを見事な微笑で隠し通していた。人間としては色々と難が多いが、政治家の器としては私の選球眼は間違っていなかった。引き換え、子猫――もとい対峙したチョンジエンの代表エジェ・アル・スレイマンは感情に任せ声を荒げるばかりでうんざりする。
「再三再四、我が方から流出した技術と人的資源の軍事利用停止を求めているのに……‼」
議長の笑みの奥で、冷ややかに瞳が
「なぜ未だ何らかのご回答さえいただけぬ……⁉」
甘いなァ、なんでケンカ腰で入っちゃうかね。議論にならねーよ、それじゃ。
頭蓋の中で彼の声が反響する。
ほんとだよね。ディディは相変わらず正しいよ。
壁沿いにそっと控えるジェイムズ・セシルがなぜチョンジエンに、彼女の下についたのか全く理解ができない。前代表が先の大戦で亡くなられて、その地盤を継ぐ――というか、弔い合戦的にご息女が担ぎ上げられたと聞いてはいたが、あまりに政治向きではなく眩暈すらする。
「戦争をする権利を持たず、伝統的中立を守り、どのような戦争に対してもかならず固定的に中立である――あなた方の理念だ」
議長が足を組み替え、声を低める。
「だが力なくば叶わない。だからあなた方もクレイドルを開発し武力放棄はしない」
「自衛のためだ! 多すぎる力はまた争いを呼ぶだろう」
「それは違います代表、争いがなくならぬから力が必要なのです」
「話を逸らすでない。たまごかヒヨコかなんて話はしておらぬわ」
「寧ろそこが焦点では――?」
ビーッ‼ビーッ‼ビーッ‼
「……ッ、なんだ?」
突如警報が鳴った。
「議長!」
「代表!」
私は議長を、ジェイムズ・セシルはスレイマン代表を咄嗟に庇って頭を抱えさせる。続けざまに爆発音が起こる。
「あれは――七番
「新型クレイドル⁉ どういうことだ議長、新造艦だけではなかったのか‼」
最新型三機の暴走を前に、スレイマン代表が呆然とする。
その間にも次々と格納庫が攻撃され、火の手が、黒煙が上がる。どう見てもこれはテロだ。ディディが死んだブランドゥング作戦が脳裏をよぎった。
やりかえしやがった!
カッと目の前の景色が紅一色に塗りつぶされる。
轟々と自分の血液の音が耳を塞いで喧騒が遠巻きに聞こえる。
「議長、〈マギエル〉‼ 最新型クレイドル《アルコ》・《エスパーダ》・《ピュロボルス》が強奪されたもよう。残機の出撃および奪還許可を‼」
「許可する! 議長と代表を安全な場所に。イシュタルにも緊急出動要請を‼」
「ここは我々が」
護衛官に目配せされて走り出した。
ジェイムズ・セシルに呼ばれた気がしたけれど聞こえないフリをした。
言われるまでもなく分かっている。あんたがいなくたって私は守れるよ。あいつら《ユニオン》から、皇国を。
❖
「テレーズ・アントワーヌ艦長‼ 最新型クレイドル奪還の応援を。議長からの緊急出動要請です‼」
イシュタルの艦橋に息せき切って駆け込むと、クルーが一斉に振り返った。その中央、キャプテンシートに座る赤毛の女の鼻先に身分証を突きつける。
「あなたは」
「私はアイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキー独立遊軍准将。〈マギエル〉と言えばお分かりですか?」
「〈マギエル〉⁉」
ざわめくクルーを無視して、イシュタルに残っているはずの最新型クレイドルの出撃を命じる。
「《クレイドル 整備No.601ランサメント》の出撃を。そして
どこかから新たな世界がめぐり始める音がする。
ディディ、ねえ聴こえる? この崩れていく旋律が。
「なんなんだ、お前ら! そんなに戦争がしたいのか……ッ!」
《ランサメント》パイロットが叫ぶ。怒りに満ちて低く震える声で。
そうだよ、と小さく呟いた。
そうなの。結局戦争がしたいの、みんな。
彼らも、私も、世界も。憎しみは憎しみでないと癒せないでしょう。
だって――どこにも愛したひとがいないんだもの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます