白い闇10 ―セザール・プレヴァン―
はじまりは どこにでもあって どこにもない 運命
その少女は女王の風格と英雄の悲哀を備えて、私の前に立った。黒く長い髪に
非の打ちどころがなく美しい少女は、非の打ちどころのない絶望に満ちた凍るような硬く凛とした声で告げた。
「はじめまして、セザール・プレヴァン博士」
「初めまして美しいお嬢さん、それで私に何の用かな?」
少女は謡うように囁いた。
「契約しませんか、我がファウスト」
「ははは、君は自分がメフィストだとでも?」
「次の皇国議会議長選挙に立候補してください。当選させますから」
「議員でもない、しがない研究者でしかない私を?」
「〈マギエル〉とはそういうものなので」
名前すら名乗らない美しい少女はどうすれば私の興味を引くか知っていた。
私は彼女が試験管の中の受精六週間の胚だった頃から知っているので、名はあえて問わなかった。そこまでも彼女の計算の内かもしれないと思うと空恐ろしかったが。
今は取り潰された忌まわしき実験場で手放した子どもは、世界の絶望の粋を啜って再び私と出会った。私と同じだけの、抗えない絶望を知って。
彼女は厳かな手つきでアタッシュケースを目の前で開いてみせた。貧乏研究者には莫大ともいえる札束。おそらく選挙供託金と同額の。
「あなたには選びたい運命がある。私には抗いたい運命がある」
「――その調子だと全て調べられているのかな。なかなかどうして恐ろしい」
「運命を壊す契約です。私はあなたの手先となる。あなたは私の望みを叶える」
悪くない、と私は唸った。そこで初めて彼女は名乗った。
アイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキー。
それは魔女の名。彼女は
「さて、では私の美しいメフィスト。君の望みとは?」
「すべてを巻き戻して。どんな方法だっていい――ディディを返して」
「奇遇だね。私もそれは願ってやまない」
アイリスが今度はデバイスをぞんざいに投げてよこした。グレンヴィル元議長に関するスクラップ記事、グレンヴィル一派の名簿とその動向、思想。パフォーマンス理論とスター性理論に関する論文。
「スター性理論……おいおい芸能人にでもなれと?」
「カリスマは必要でしょう?」
「グレンヴィル派に属してください。最初だけでいいです、その方が当選しやすい」
「ご子息はチョンジエンに寝返ったのに?」
「それでも最大派閥ですからねぇ。チョンジエンは内実はともあれ一応中立国ですし、《捕虜にされた》ことになってますから。他の派閥が弱小すぎるのもありますが」
「君はまったく優秀なコンサルタントだよ、アイリス」
「あら。これくらいで満足されては困ります。まずチョンジエンから流出した人材を使って軍事力の再整備を。それと先の大戦で軍事裁判にかけられている若い軍人への恩赦を申し出てください。ある程度、軍部が掌握できます。復興支援として経済面を重点強化すれば皇国民も文句は言わないでしょう。それから一番重要なことですが――」
「随分と大変なものだね。私は研究者であって政治家ではないのだが……」
「では今日から政治家になってください。基盤がなければ願いなんて叶わない」
「大したパトロン様だな。それで? 一番重要なことというのは?」
「皇女アウローラ・ディ・スフォルツァの掌握です」
少女はぞっとするほどに爛れた笑みを口の端にのせた。
それが契約の日だった。
❖
半年と経たず、私はアイリスの用意した椅子に座っていた。
皇国最高峰からの眺めは素晴らしかった。
私はアイリスの言う通り、軍事力の再整備に着手した。ただし彼女の言う枠からは少し飛び越えて。
「クレイドルの新型を造ろうと思っていてね」
「造らないでください。戦争はもうごめんです。防衛であって攻撃ではないのです」
「なるほど。では新造艦としよう。
アイリスは私を一瞥したあと好きにしろと次の会議で必要な演説原稿に目を通し始める。秘書官から上がってきた原稿に私の名前で赤を入れていく。彼女も私もこうして密会しているのが露見すれば、お互いが失脚しかねない癒着関係だ。
アイリスが赤を入れた原稿を読み上げてみる。
平和、相互協力、未来、若い力、悲しみを笑顔に、トラウマの克服、武力ではなく対話を、素晴らしい明日――
寒気がするほど、きらきらしい明るく能天気な名台詞が並んでいる。
「いつもながらに陳腐だとは思わないかい、アイリス」
「それを望んで好む人間がごまんといるんですよ、議長閣下」
「そういえば、チョンジエンが人的資源の返却を求めてきたよ」
「断ってください」
「なぜ。別にもう必要ないと思うがね。世界的批難もある」
「私はチョンジエンが大嫌いです」
たまにアイリスは支離滅裂な理由で駄々をこねる。
チョンジエンに興味はないから咎めはしないが、私が気に喰わないのはあの実験場で与えた覚えのない愛情の在り処をアイリスが知っていることだった。
彼女の絶望は左手の薬指と右手の薬指にそれぞれはまっている。
私と似た痛みと絶望。それが酷く、面白くない。
「アイリス、新造艦の名称は君が決めるかい?」
「興味ありません。失った方の名前でも付けてはいかがですか?」
「ではディディにしようか」
「プレヴァン議長、ふざけないでください」
「それは君もだろう、マイ・メフィスト」
「あなたの心臓は私が握っているんですよ、マイ・ファウスト」
つぅ、と彼女の白い指が私の胸で安直なハートのマークを描いた。
もう話す気はないと頑なに口を噤む。
悪い子だ、と毛足の長い絨毯にアイリスの手首を掴んで引き倒した。
重く閉じられたカーテンを彼女の脚がさばいて執務室に一条の白い光が差し込む。白の中で、アイリスは仰向けに絨毯に身を預けている。
「――ねえ、プレヴァン博士。目を
「さあ? 私の専門外だから答えかねるな」
「……きっと白ですよ。こんなに真っ白なんだもの。白に決まってるわ」
女王の風格を持った少女は、窓の外を眺めて囁いた。横臥する姿は黒い髪が対称に広がってピンで刺された蝶のように美しかった。
私は彼女の視線を追ってみようと試みたが、高層ビルの外側は光が白いばかりで何も見えなかった。
「はやく巻き戻して、議長」
「君が私の願いを叶えてくれたら、ね」
仰臥したしなやかな肢体は抵抗せず、私は彼女の額にくちづけた。
肉欲からは程遠く、共犯の意思確認。
裏切らない、裏切れない。少なくとも今は。
アイリスの心臓を指でたどってもう一度だけ訊く。
「新造艦の名前は君が決めなさい、アイリス」
「…………イシュタル。だったらイシュタルがいい」
「豊穣の女神か」
「いいえ、戦の女神よ」
誰にも負けないものがいい。どうせ力を持つのなら誰にも負けないものを。
アイリスが呪文のように言う。
神などどこにもいないと知っていて、彼女は女神を求めた。求めるのなら、誰にも負けないものがいい。
「イシュタルか。いいね、それにしよう」
「議長は戦争が好きなんですか?」
「まさか。私は誰にも負けたくないだけだよ。常に勝ちたいだけだ」
彼女は答えず私から視線を逸らしてまた外を見た。
相変わらず高層ビルの外界は白い。
「博士、見て。何も外が見えないの、真っ白なの」
「そうだね。何も見えない。それが?」
「未来のようだわ」
闇のようだと私は答えた。
私たちが正しいのなら、未来は闇と等しいのだろう。
何も分からず手探りするしかない。私たちにはそれがとても無駄なことのように思えた。何のために生まれ来たのか。
かつて古い友人が言った。無力を
アイリスは瞳を閉じて、未来が闇なら、それが無駄なら、もっと強い光で照らせばいいと言った。私は彼女の胸に頭を預けた。心音が聴こえる。
『セザール、あたし
そう言って去っていった愛しい人のことを想った。君の未来も照らそう。
選び取れなかった未来を。
「さ、アイリス。行きなさい。君の仕事もあるだろう」
「また何かありましたらお呼びください」
アイリスがカーテンを閉めて立ち去ると執務室には黒の薄闇がもたらされた。
暗闇は目が慣れてしまえば意外と見える。光の中はどうなのだろうか。太陽光による失明ではどちらが残るのだろうか。白一色の世界はどう映るのだろうか。
一人の将校に通信を入れる。イシュタルの艦長となる将校に。
「テレーズか? 君に預けたい
机の上でまだ未来を信じていた私と彼女が笑っている。
私は写真立てを伏せ、引き出しの奥にしまい込んだ。
❖
「そうだ、テレーズ。君は失明したら白と黒、どちらが残ると思う?」
「なあにセザール、あなた変よ。議長になんかなっちゃって。――黒じゃない。見えないんだし」
「そうか黒か。いや大したことじゃないんだ」
――《運命を壊す契約です》
我がメフィストの声が手招く。
アイリス、と私はいつでもあの子の名前ばかりを思って、時には呪う。
私は彼女に引きずられるままに、白い闇を歩いてゆくのだ。そう、
ずれた歯車を無理やり回し、望む位置に戻すために。
白い闇の中を手探りで歩いている。えんえんと、誰かを呼びながら。
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