白い闇09 ―ルドヴィカ・ザーレスカ―

 はじまりは どこにでもあって どこにもない 運命


 深い苔色の椅子に座ってその人を待つ。

 待ち合わせた時間には、まだ早い。持て余した暇を衝動買いのショッピングバッグとキャラメル味の珈琲が埋める。

 全面をガラス窓としたフランチャイズの喫茶店は無秩序な年代でにぎわっている。ようやく停戦条約が成って人々も解放感で浮かれているのだろう。

 外に架かるステーションとショッピングモールとを繋ぐコンコースを眺めながら、ふと上司の少女の言葉を思い出す。


「人間の肉体は例外なくうろなのよ。まあ別に全くの空洞というわけでもなくて、大きな器の中に少しだけ粘液を入れた状態ね。ドロッとした粘液が精神。有り体に言えば「こころ」その粘液の中の不純物――欲望が多いか少ないかの差だけなのよ。人間なんて。不純物が多いほど動機が多くて全てを欲しがるから優れているように見えるだけ。そんなものだよ。きみもそうだろうし、私だってそう。違いなんてあまりない。人間なんて大体みんな同じで、大体みんな期待外れなものだよ――何が言いたいか分かる?」

「正直難しくてさっぱり」

「ルドヴィカは私が選んだ副隊長なんだから自信を持ってってこと。それでも私を信じられないなら去りなさい」

 いつも穏やかな笑みを浮かべ、命令でさえ口調に気を配る彼女が唯一語気を乱して断じた言葉。

 ロンギヌス隊発足の際、副隊長の辞令を辞退しようとした私を彼女は一喝した。

 初対面、しかも出会い頭の叱責だったので大層驚いたのを覚えている。

 〈マギエル〉が感情を表に出すなんて。

 皇国軍人にあって〈マギエル〉アイリス・ヴィクトロヴナ・ミハイロフスキーの名は絶大な権力を持つ。軍属ならば皆が褒め称える英雄。

 対して私は士官学校を卒業したての一兵卒で【肩章付き】でもない落ちこぼれだった。

 周囲は【無地】を副隊長に任命したことに異議を唱え、私も言われるまでもなく辞退するつもりだった。

 だが彼女は私に手を差し伸べ、私が必要だと断言してくれた。恥じる要素などどこにもないのだと。

 彼女に心酔し、このつまらない命を懸けるには、それは充分な理由だった。

「ルドヴィカなんで一歩下がるの。きみの立ち位置はそこじゃないよ。【無地】だからって下がる必要なんてない。堂々としていればいいの。きみは特飛隊ロンギヌスの副隊長。誰に恥じることがあるって言うの」

 一歩下がって控えるたびに隣を指さし微笑まれた。

 泣きそうになりながら隣を歩いた。彼女の恥にならぬように、足かせや汚点と思われないように。特飛隊ロンギヌスの旗印をすべての皇国民の誇りとできるように、白くひるがえる裾をいつだって追いかけていた。



「ずいぶん待たせたみたいだな、ザーレスカ」

「――お時間いただき恐縮です、ヴァルトシュタイン隊長」

「楽にしてくれ。待たせて悪かったな、大事な話なんだろ?」

 ヴァルトシュタイン隊長は私のショッピングバッグに目を滑らせるといささか苦笑した。柔らかい表情。随分と穏やかになられたようにお見受けする。停戦前は、もっと苦しげで刺すような表情をしていらした。

「早速ですが」居住まいを正す。

「ミハイロフスキー独立遊軍准将についてお伝えしたいことが」

 私たちにとってかけがえのない名前を出すと、目が軽く頷いた気がした。

 もう気づいているのかもしれない。けれど事実を話さなければならない。

 それを彼女が望まなくとも。

「今から話すこと、決して口外無用でお願いできますか。特にご本人には何も尋ねないとお約束ください」

「訊いたらどうなる」

「恐らく姿を消すでしょう、もう誰にも届かない場所へ」

「――なるほど。分かった約束しよう」


 ❖


 呼び出されたのは停戦前最後の大規模作戦となったサンクティオ作戦の直前だったように思う。

 彼女の私室に通された。珍しく彼女は私服で、結い上げられているはずの髪も下ろされて、作戦前とは思えぬくつろいだ印象を受けた。

「出撃前に呼び出して悪かったね、ルディ」

 私を手招いて腰掛けさせると、彼女は机の一番上の引き出しを開けた。

「聞いておいてほしいことがあるんだ。知っておいてほしいの、きみだけは」

 鍵がかけられ決して普段開けられる事がなかったから機密情報が入っているのだと思っていた。

 そうではなかった。

 所狭しと押し込まれた薬瓶の数に息を呑む。

 彼女が、ひとつひとつ取り出していく。

「この薬が血圧を保つ薬。こっちは抗生物質。こっちは心臓系で、赤い瓶は……内蔵だったかな。睡眠薬と精神安定剤、三種類くらいも必要に応じて飲み分けてる。飲まなきゃいけないのが基本この五種類ね。今は栄養サプリメントも併用しなきゃいけなくなってる。あとはたまに鎮痛剤――っていっても耐性ついてるからモルヒネとか強い薬だけど、そんなのも飲んでる」

 最後にMorphineモルヒネAntipyrineアスピリンと白いラベルに青字で書かれた瓶をごろりと転がして、彼女は私を見た。

 舌が震えて答えにならない。

 私は「リミットは――」震える声で訊いた。命のリミットは。訊いて吐き気を覚える。そんなこと聞きたくなかった。知らずはらはらと零れる涙に彼女が私を優しく抱きしめて言う。

「いいんだよ、ルドヴィカ。きみらしくないね。薄々きみも気づいてたでしょう?」

 そう本当は知っていた。

 見ないふり気づかないふりをした。気づかないわけがない。

 ロンギヌスが発足して二年、誰よりも傍で見てきた。

 話に出てくる「ディディ」には遠くとも、他の誰より近くにいた自負がある。

 時折ダスターで見かける空の小瓶を見ないふりしてきた。

 俯く私に彼女は言う。童話を読み聞かせるような、ひどく優しい声音が無性に怖かった。どこかに行ってしまいそうで。

「リミットは長くて五年、短くて明日。……〈マギエル〉の体調は戦術に関わるから誰にも口外しちゃだめだよ。私たちだけの秘密。突然死んだら困るから少しずつ事務仕事とか引き継いでいくね。心構えはしておいて。私が死んだらロンギヌスは解体されるだろうから、ルドヴィカの身の振り先も考えてはいるから」

 いつ来るとしれない未来を考えるのが嫌だった。

 私たちの身の振り先なんてどうでもいい。なのに彼女は続ける。

「ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン、ヴァルトシュタイン外交事務総長のご子息なんだけど――知ってるよね? あれが同期みたいなものでね。彼の隊がいいかなって思ってる。私より全然しっかりしてて、少し口は悪いけど部下想いのいい隊長だよ。彼になら私の大事な隊を預けられる」

 彼女のいない特飛隊になんてさほど興味はないのに。

 爪弾きにされたら除隊して別の仕事をしたっていい。

「何のご病気なんですか?」

 私は乾いて上擦る声で訊いた。

 彼女はしばらく思案してから「運命かなぁ」穏やかに笑って答えた。

「特殊な実験を受けてるんだ。チョンジエンでの人体実験の話は聞いてるでしょう? 有り体に言えば、その皇国版だね。遺伝子レベルで操作もされてる。だから寿命が普通の人よりだいぶ短い。テロメアに異常があるらしくてさ。最後には忘我状態になって死ぬって聞いてる。できればその前に死にたいと思ってるけど」

 ネックレスに通した指輪に触れながら、きっぱり言って彼女は微笑んだ。

 そんなこと言わないで。あなたが全部忘れてしまっても、眠ったまま目覚めないとしても、私は傍にいる。最期まできちんと看取らせて。早く死にたいだなんて、そんな、そんなこと。最期までどうか……。

 私の言葉に彼女は「ありがとうね、」と微笑んで背を向けた。

 拒絶されるより哀しかった。



「それはつまり……強化人間オプティマールと考えていいのか?」

「恐らくは。ヴァルトシュタイン隊長は強化人間オプティマールの報告を?」

「ああ、幹部会でもしばしば話題になるからな。もっぱらチョンジエンと連合ユニオンでの話ばかりだが……」

 ヴァルトシュタイン隊長は何かを言いかけてやめた。私はその内容が分かっていたから、答えを告げる。

「あの方は連合ユニオンやチョンジエンのスパイではないと思います」

「――あの容姿はアジア系も入っているだろう」

「だとしても、東アジアチョンジエンや皇国の実験台であってスパイではない」

 鋭く視線を向けられて耐える。

 ここで怯んだら彼女を信じてもらえないかもしれない。

 スパイなわけがない。敵国の情報を探るだけならクレイドルパイロットとして、あんなに命をかけて派手に立ち回らなくたっていいはずだ。

「根拠は」

「〈マギエル〉の戦績はスヴァローグ攻防戦だけで約三百機。目立ちすぎかと」

「……なるほど。……分かった、信じよう」

「ありがとうございます」

 ヴァルトシュタイン隊長のデバイスが鳴る。

 特飛隊の隊長として軍属でありながら、ヴァルトシュタイン家の嫡男として皇国議会議員としても尽力されている身だ。

 多忙を極めているのだろう。私もそこそこ忙しくはあるのだが、彼の尖った顎がその比ではないことを示している。

「すまん、次の打合せの時間だ」

「いえ、お時間を割いていただきありがとうございました」

「最後にいいか」

「私が答えられることであれば」

「なぜ俺に話した」

「それは……気まぐれです」

 本当は違う。

 ヴァルトシュタイン隊長は誰より――たぶん今や「ディディ」よりアイリスさまを想ってくれているから。何も知らせず彼女が逝ったら、また何もできなかったと自分を責め続けて、自分の無力さに絶望してしまう予感がした。

 もう一つは小さな賭け。

 私や他の人間のためでなく、ヴァルトシュタイン隊長のためになら。

 あなたのためになら最期まできちんと生きてくれるかと思ったのだ。

 最期にあなたが傍にいた方が、彼女が幸せに逝けると思ったから。

 なんて。悔しいから絶対言わない。

 私だってこんなに心配しているのに、ヴァルトシュタイン隊長の足元にも及ばないなんて認めない。

 批難めいた目を向けてくるヴァルトシュタイン隊長から目を反らしそらへ向けた。

 煙って覆う白い雲は、今もなお彼女が彷徨いつづける白い闇に似ている。

 私は約束を破ってしまったことを心のなかで彼女にべーっと舌を出しながら珈琲を飲みほした。

 絶対独りで死なせてなんかやるもんか。

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