白い闇04 ―ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン―

 はじまりは どこにでもあって どこにもない 運命


 士官学校を出たばかりで、クラーク特飛隊に配属されたばかり。先任の名前を覚え、周りの人間関係がようやく見えてきたころ。

 俺にとって彼女はあくまで〈マギエル〉で、ディートリヒの恋人だった。

 〈マギエル〉。

 士官学校で神のように噂されていた人物。

 どれほどすごいクレイドルパイロットかと期待してみれば、何のことはない普通の少女だった。(言っておくが、俺に女性蔑視なんて前時代的思想はない)神ではなく当然のごとく人間で、生身の――会議や訓練をさぼりがちで、脱走したかと思えば屋上で日向ぼっこしているような、猫みたいに気まぐれで、嫌いな食事が出るとそっと同僚の皿に移すような――無邪気な同い年の少女だった。

 あまりに拍子抜けした俺を含む新人四人は、〈マギエル〉ではなく彼女を名前で呼ぶことにした。

 〈マギエル〉とそこら中の人間に呼ばれていたあいつは、無礼だと俺たちを叱責する声を制して嬉しいと笑った。

「アイリスって呼んでくれて嬉しいよ。私たち同期みたいなもんだしね」

 スヴァローグ攻防戦で三百機近く撃墜してた奴が同期はないだろうと思いつつ、曖昧に斜めに頷く。笑ったアイリスの髪をディートリヒが乱暴に撫で、彼女が面映ゆそうに見上げる。二人は公私混同は決してしないものの、こちらが恥ずかしくなるほどの恋人同士で絡む視線はどこまでも甘ったるかった。

「理想の恋人同士ですね! いつか僕も運命の人に出会いたいです‼」なんて無邪気に評した一番年下のテオが少し憎らしかった。

 一番陰気くさくて俺から卑劣な手で卒業試験一位を奪ったジェイムズ・セシルは二人にずいぶんと可愛がられていて憎らしかった。

 アイリスに下品な冗談を言って、呆れてふんわりと軽く頬を叩かれるペドロが憎らしかった。

 俺はいつも少し離れた場所からその風景を眺めていた。

 自分には関係ない、煩わしいとばかりに。自分が一番憎かった。

 むしゃくしゃ黒い霧が襲いかかってくる。

 それでも。

 それでも俺にとって彼女はただの先任だった。

 まだ。


 ❖


「アイリス!」

 よくあることではあったが、ミーティングの時間を過ぎても現れない彼女の捜索に駆り出された。

 宿舎の屋上へと駆け上ると、鉄板のゴンゴンという音がうるさいぐらいに響く。

 きっと彼女にも聞こえているはずだ。

「アイリス! いるんだろ!」

 開け放った鉄の扉。夕陽が黒く伸ばす影は彼女のもの。

 柵にしなだれかかるように寄りかかって返事はない。振り向きもしない。

 横顔は、遠く、夕陽に染まった基地を見ていた。

「アイリス! 貴様‼」

「お迎えご苦労。ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン大尉――なーんてね」

 ようやく振り向いた彼女はにこりと笑った。

 何をへらへらサボっているのかと叱れば沈黙。

 少し間を置いて、彼女は俺に自分の隣に来るよう言った。

 すでにミーティング予定時刻から十五分は過ぎている。

 当然彼女も分かっている。

「なんなんだよ」

「……ヴィルは嫌な顔するから言わなーい」

「サボっといてその言い草はなんだ!」

「大丈夫大丈夫、〈マギエル〉様に誰も文句なんか言いやしないよ」

 僅か寂しげに彼女はわらった。

 返事が咄嗟に返せなかった。確かに誰も文句は言わないだろう。ディートリヒがいなければどうにもならないと諦めてはいたが、面と向かって文句は言わない。隊長ですら任務に支障がないのなら放っておけと咎めもしない。いつものことだと誰も捜そうともしない。

 それをパイロットのくせにと俺とペドロが憤り、ジェイムズ・セシルとテオが何かあったのかと心配しだして捜すことになったのだが。

「ありがとうね、ヴィル。捜しに来てくれて」

「試したのか」

「我ながらやり方が意地汚いよねぇ――ディディに叱られちゃうなぁ」

 今度は小さく微笑って彼女は言った。

 夕陽は黄昏、ディートリヒの色。世界も自分も染められていくこの瞬間だけは生きていていいと思えるのだと呟いた。その横顔があまりに神々しく壊れてしまいそうで息を呑んだ。

 そして、俺はようやく逃げられないことに気付く。

 入る隙間のない横恋慕。戻ることのできないレール。

「貴様、ディートリヒがいなきゃ何にもできないんだな」

「そうだねぇ。多分、水すら飲めないかもね」

「……ふん、完全無欠の〈マギエル〉様が聞いて呆れる」

 彼女は、アイリスは俺と同じ色の目で俺を見て

「ごめん、〈マギエル〉を演じきれなくて」

 がんばれなくてごめん、と消え入りそうな声で詫びた。

「あいつじゃなきゃダメなのか――同期の俺たちもいるだろうが」

 ずるい逃げ方をした。

「ディディじゃなきゃダメなの、どうしても」

 なぜ? 疑問が形を成す前に彼女が先に答えた。

 夕陽に照らされた基地の片隅、何のためにあるか分からない小さな庭園を見下ろしながら。俺はアイリスの視線を追いながら彼女の話を聞いた。

 もう遅刻なんかどうだっていい。始末書なら幾らでも書いてやるし、規律違反の腕立て伏せも死ぬ気でやってやる。

「私の世界を唯一変えてくれた人だから」

「世界を変える?」

「私を外に連れ出してくれた。ディディがいなきゃヴィルとも会ってないよ」

「……」

「私を私として見てくれる。ディディの前では私は一度も〈マギエル〉じゃない」

 ねえ、ヴィル。静かに俺を呼んだ。

 俺は彼女の目を見られず、ずいぶんとして掠れた声で「なんだよ」一言だけ返すのがやっとだった。俺らしくもない。

「今、私の手に触れる?」

「は?」

「血みどろなの知ってるでしょ。さわれる?」

「……」

 俺の沈黙を拒否と認識したアイリスは薄くわらった。だからディディなんだよ、と。

 俺は衝動的に彼女を抱きしめた。躊躇ためらわない。手ごときなんだよ。俺だって全部受け止められる。

 ――ああ、黒い霧の意味を悟る。出会った最初からもうとっくに惹かれているのだ、どうしようもなく。

 むしゃくしゃするのは彼女のせい。疑う余地のない一途さのせい。

「ヴィル、離して」

「いやだ」

「もういい、いいから。分かったから」

 彼女から零れるのは制止の言葉。制止は拒絶に聞こえた。

 階下から近づいてくる怒気を孕んだ足音とアイリスを呼ぶ声。

 ディートリヒの怒声。

「さっさと降りて来い! 逃げんじゃねーぞ、サボりやがって! 何様だよ会議ほったらかして何してんだ、ああ? ヴィルもいんの分かってんだからな。サボタージュとは優雅なご身分だなおい。片手腕立て五〇〇! その場でとっととしろよノロクサすんじゃねぇ‼」

 お世辞にも綺麗とは言えない口調に、彼女はさっと俺の手からすり抜けた。

「すぐ行く! 今から行くから!」

「すぐじゃねんだよ、もう遅ぇんだよ! お前はいつもいつも!」

 遠ざかる声と彼女たちの足音。

 黄昏に残された俺は、あと少しの均衡を願ってやまない。

 これ以上、彼女が俺の領域を侵略してこないようにと。想像以上に細い彼女の感触が未だ残る。ぐっと握って振り切り、汗ばむ手で腕立て伏せを始める。ミーティングは始まったんだろうか。

 罰則をやり遂げ荒い息で階段を下りる。何周遅れだろう――まるで今のこの関係みたいだ。自嘲しながら歩みを速める。


 戻れないレールを、俺は行く。

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