第2話
放課後。部室がある旧校舎に足を踏み入れれば、木製の廊下がメキリと甲高い音で軋んだ。どこかじめっとした空気が満ちて、黴臭く鼻を摘まんだ。
よく見れば、軽音楽部や和太鼓部など、音を奏でる部室が多く入室していた。その騒がしそうな廊下の最奥に、将棋部はあった。
扉に付いた小窓から覗けば、そこは十畳ほどの大きな一室だった。だが広さの割には物が置かれておらず、奥の窓際に四つの机が合わせて置かれているだけだ。ただ椅子だけは、机の数と合わずに余分に用意されているようだ。
将棋部の顧問が入口付近に椅子を持って来て、そこで読書をしていた。部室内は静寂としているが、瞬間。爆音。
吹奏楽部がドラムを叩き出した。それに追随して、ギターを弾き、ボーカルが歌った。
喧しいが、顧問と桜庭先輩はぴくりとも動じなかった。
覚悟を決めて、扉を引く。
「おや」
扉が開いた音に反応して、顧問が顔を上げた。
目が合うと彼はにこりと笑って、読んでいた本を閉じた。
「ようこそ、将棋部へ」
軽薄な笑み。第一印象は、飄々として掴みどころがないタイプだ。
差し出された手を、とりあえずは握り返して「よろしくお願いします」と挨拶をした。
今は顧問よりも、気になる人物がいた。ちらっと視線を向けると、顧問は苦笑しながら言った。
「ごめんね。千里はあまり周りに興味を持たないんだよ」
「はあ」
それでも、俺の視線は桜庭先輩に惹き付けられた。
音や声など意に返さず、将棋盤に向き合う。淡々と駒を盤に打ち付ける。
「そういえば、凄いですね。軽音楽部とか、太鼓部とか……」
先ほどから、軽音楽部が本格的に動き出したようで、騒音と言って良いほどの爆音が全身に叩きつけられていた。これに太鼓部も動き出したら、どれだけの音量になることか……。考えただけで、ゾッとする。
「ああ。やっぱりうるさいって思うよね」と顧問は苦笑する。「立地が最悪でさ。中々、部員が集まらないんだよね」
窓側に背を向けて座っている桜庭先輩。扉側にいる俺の立ち位置からは、正面から桜庭先輩の顔を見る事が出来た。
背中まで伸びた黒い髪は光沢が出る程に滑らかで繊細だ。真剣な瞳はただ一点、将棋盤にのみ向けられている。ブレザーを着崩しているという事は無く、校則通りの
そうして見惚れていると、桜庭先輩の瑞々しい薄紅色の唇が、微かに開かれた。
「……音なんて、関係無いよ」
不思議と、この騒がしい空間でも桜庭先輩の声は透き通って聞こえた。
いまだに将棋盤にのみ、集中している桜庭先輩が、駒を持ちながら言った。
「集中すれば、どこでも。一緒」
この騒音の中で、一際異質な乾いた音が部室に響いた。
集中。そして、没我。
ただただ、将棋にのみ集中する桜庭先輩の姿は浮世絵離れしていて、名画のように空間が切り取られて見えた。
別世界に生きている。そう印象付けさせる、桜庭先輩の存在感は徐々に強まっていく。
集中力が強まるにつれて。
「千里。それじゃあ、悠真くんに将棋を教えてあげてくれるかな」
「分かりました」
瞬間、張り詰められていた重たい空気が弛緩した。
意外にも顧問からのお願いを素直に受け入れて、盤上に並べられた駒を崩してかき混ぜた。
「ほら。座って」と顧問に促されて、俺は桜庭先輩の正面の椅子に腰を下ろした。
一枚の将棋盤を挟んで向き合った桜庭先輩は、その輪郭が微かに揺らぎ、一回りほど大きく見えた。瞬きをすると、その揺らぎは消えていた。
混ぜられた駒を並べ直していた桜庭先輩は小さく、「経験は?」と聞いて来た。駒が全て並べられるまでに時間はそうはかからず、綺麗に駒が盤上に並べられていた。
「小さい頃に、爺ちゃんと少しだけ」
「そう。なら動かし方は分かっているのね」
「触り程度は」
「……最初は十枚落ちから始めましょう」
そう言うと、桜庭先輩は自分の陣地から飛車、角、金、銀、桂馬、香車の全てを、盤の横に置いた。残るは歩兵と王だけだ。
「貴方の棋力が見たいから、かかって来なさい」
「は、はい」
十枚落ち。最初は意味が分からなかったけれど、取り除かれた駒たちは数えて十枚あった。
ハンデの事だったのだ。
苛立ちは、湧かなかった。
経験者と初心者。その差は大きく、広がっている。
だからハンデを貰っても当然のことだと、納得出来る。
「よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
でも。
だからと言って。
負けて良い、とは考えない。
俺は負けず嫌いなんだ。
初戦。十枚落ち。俺は大駒の飛車と角を敵陣地に成らせて、勝利を?っ攫った。
「駒の動きとか、二歩とかの基本的なルールは問題無さそうね」
二歩とは縦列に、自分の歩兵を二枚置いてはいけないというルールだ。一応、敵陣地に成り込んで、と金に昇華させればこのルールは適用外となる。
「次。八枚落ち」
そう言って、桜庭先輩は王と歩兵だけだった自分の陣地に、金を追加して置いた。
二戦目は苦戦したが、何とか食らいついて勝利する事が出来た。
桜庭先輩は小さく「まあ、初心者にしては良い方か」と呟いた言葉を、俺は聞き逃せなかった。
確かに耳に入って来た言葉。
そこに含まれる感情は、落胆に近いモノだ。
それから。桜庭先輩は銀を追加して、六枚落ち。
「ま、けました……」
“将棋の恐ろしさ”。その片鱗を見た。
これまで、十枚落ちと八枚落ちでは全て、桜庭先輩が受けに回っていた。
ただそれは俺の実力でも何でもなく、単純に桜庭先輩が攻めることが出来るほど、駒の枚数が足りてなかっただけだと、今になって理解する。
今回、金二枚は王の護りに徹し、二枚の銀の連携で俺の駒たちはあっという間に奪い取られて、詰まされていた。
ただの負けだ。ただの負けのはずなのに、生きた心地がしなかった。
「もう一回」
「ぁ」
桜庭先輩はすでに駒を並べ始めていた。
俺も慌てて並べるが、駒を持つ指に力が入らずに、何度が駒を落としてしまった。
金と銀。攻守の連携は、流麗と言えるほどに美しい。滑らかかつ、ひたすらに激しく、そして分厚い攻防一体の手は、俺に崩せるような代物では無かった。
「もう一回」
また負けた。
気が付けば負けていた。
どうして負けたのか。
負けた理由を自分なりに追及しても、答えは出なかった。
「もう一回」
この言葉を聞くのは何度目だろう。
桜庭先輩はただ、淡々と。
作業をするように、将棋を指していた。
その冷淡な瞳に光は宿らず、何を見据えているのか。
俺には到底、理解出来ない。
「もう一回」
気が付くと、世界から雑音が消えていた。
駒を打つ時に手を伸ばす腕の裾から出る、衣擦れの音。
乾いた駒音。お互いの息遣い。脈打つ鼓動。
それ以外は何も聞こえない。
ここは二人の――――、いや。
桜庭先輩の世界だ。
浮遊感を覚える。
錯覚と分かっていても、恐ろしい。
自分が暗闇に沈んでいるようだ。
静かだ。静かな、平穏で。
とても怖い。
まるで、海。
深海。
冷たい。
怖い。
寒い。
分からない。
底が見えない。
何も見えない。
桜庭千里って。
何なんだ?
「大丈夫?」
『へえ~。小説家になりたいんだぁ~』
据わった瞳が、過去と、重なる。
「あ――――」
よく手入れされた黒髪を三つ編みに纏め、目尻と口角を限界まで曲げたような特徴的に笑う彼女。
まるで最高の玩具を見付けたように、夢を告白した俺を見詰めて、楽しそうにそう言った。
あの悪魔と同じ、瞳。
嗚呼、そうか。
この人も。
アイツと同じ。
天才なんだ。
「……もう一回やるわよ」
桜庭先輩からの催促は、聞こえていた。
けれど頷けず、俺はただ項垂れるだけだった。
「……ちょっと。………………おい」
次第に桜庭先輩の声に怒気が籠る。
当然だ。貴重な時間を奪っているのに、教えている相手が急に黙り込めば、誰だって怒る。
だが、仕方が無いじゃないか。
対抗したいって思えなくなったんだ。
桜庭先輩がアイツと同じ天才ならば、俺がいくら努力しても追い付くのは不可能だ。
この世にはほんの一握りの天才と、その他大勢の凡人しかいない。
あらゆる分野に置いて、その才能という要素は大きな要因となる。
例えば、アイツ。月見ヶ原霞。
中学の同級生で、卒業する最後の日まで腐れ縁のように一緒にいたが、その実態は天才ピアニストだった。
取材されて何度もテレビや雑誌に載り、大会に出ればトロフィーの山を積み上げる。その全身を使った表現力は、まさに「表現する天才」と言えた。
とりわけ、彼女は一切の努力をしない。
プライベートでは一度もピアノを弾かないし、音楽も聞かない。放課後に、まだ夢を追っていた頃の俺にいつも引っ付いて来たのがその事実を裏付けている。
圧倒的な才能だ。
それこそ、他者を嘲笑い、見下しても。
この天才になら、負けても仕方が無い。
そう思わせる程の才能の持ち主。
俺は良いのか悪いのか、鈍感だった。
才能というものを知るのに、霞と出会ってから三年も費やしたんだ。
もっと早く知ることが出来れば、諦めも付いていたのにな。
「……いくら練習しても、無駄ですよ」
ああ、駄目だ。
何を言っているんだ、俺。
慌てて、両手を使って口を押えるが、もう遅かった。
「無駄?」
この騒音は何の役にも立たず、桜庭先輩の耳に届けられた。
「その、無駄っていうか……。俺、頭悪いし、将棋に向いてないと思うんですよね」早口で、必死に言い訳をする。
とにかく。早く。ここから立ち去りたかった。
「少なくとも。これまで入部希望で来た人たちの中で、一番長く盤と向かい合えていたのは貴方よ。適応力も理解力も高いし、多少時間がかかっても、貴方なら初段くらいたどり着けると思うけれど」
桜庭先輩から受けた賞賛を聞き、俺は喜びよりも先に、羞恥心が湧き上がった。
顔が沸騰しているんじゃないか、と思えるぐらいに、熱い。
『え~っ、ごめ~んっ。もしかして真に受けちゃった~? 嘘だよ~』
天才から受ける言葉は、素直に受け取れない。
彼女らは俺達凡人の事を、普通の人間として見れてはいないんだ。
彼女達の価値観は、自分達が見ている世界観によって変わる。
凡人は、普通じゃないと思っている。
だって、そうだろう?
天才が1をやって10進んでいる間、俺達は2や3ぐらいしか進まない。
そんな天才が、生まれた時からそういう世界観にいる人間が、凡人を俺達と同じ領域に立たせられるだろうか。
無理だ。
彼女らは、凡人のことを「その他大勢」か「玩具」のどちらかでしか思っていない。
月見ヶ原は、俺のことを「玩具」としか思っていなかった。
「お、れは……。桜庭先輩とは、生きている世界が、違うっていうか……」
これまで必死に繋ぎ止めていた紐が、緩んでいるのを感じた。
それは何とか表に出さないようにしようとしていた、感情だ。
「何が言いたいの? 出会い目的なら、さっさと言いなさいよ。貴方も結局、あの人達と同じなんでしょう?」
違う。そうじゃない。
……違うんだ。
「俺は……」
桜庭先輩のことを知りたかった。
あんなに綺麗で、美しい。
どんな想いで将棋をしているんだろう。
そう思って、桜庭先輩と話したくて、将棋部に来た。
けれど、桜庭先輩が天才だと分かって。
俺は怖かったんだ。
月見ヶ原の時みたいに、罵声を浴びせられるのが。
分かっているんだ。
桜庭先輩がアイツとは違うってことくらい。
でも、怖い。
恐怖だ。自然と、奥歯が鳴る。
錯覚だ。幻覚だ。
顔を上げれば、桜庭先輩の周囲に雪が降り積もっていた。
教室や、他の物も、全部消えて。
真っ白な世界で、桜庭先輩は一人佇んでいた。
……ほら。別世界の人間だろう?
こんな人に俺の気持ちなんて、分かるわけが無い。
「…………」
でも。桜庭先輩は、その冷淡な瞳で。確かに。真っ直ぐと、俺の目を見ていた。
心臓が大きく、跳ねた。
恐怖か、緊張か。
どちらかは分からないが、ふっと肩の力が抜けた。
それで一気に、締めていた紐が緩んだ。
「……俺は、小説家になりたかったんです」
弛緩した紐。溢れ出す感情、いや。本音。
「ずっと。ずっと、小説家の叔父さんに憧れて。あんな風に、格好良く小説を書きたいって。ずっと、思っていたんです」
思い浮かべるのは、憧れの背中。
机に向かって、丸まった背中。
一見、みっとも無く見えるような、その背中に、俺は憧れた。
「でも。叔父さんでも、駄目だったんだ」
何度も叔父さんとは会った。
下手くそな小説を読んでもらって、褒められて。嬉しくて。
何度も。何度も、書いて。
叔父さんに進められて、新人賞に応募するようになった。
落選が続いたけれど、叔父さんに褒められて。改善点を上げられるだけで、俺はまた書くことが出来た。
だって、頑張った先には、あんなに格好いい背中を見せられるようになるんだ。
なら。いくらだって、頑張れた。
「二年前、叔父さんは筆を折った。本が売れなくて、出版社から「もう君の小説は出せない」って言われたんだよ。直接。俺はその時、叔父さんの横にいた」震える肩を、右手で掴んで、何とか抑える。「あの時の顔は、今でも忘れられない……」
虚無。
叔父さんの顔には、何の色も宿っていなかった。
何も言う事が出来ず、俺はその日、叔父さんの家から帰った。
確信があった。叔父さんは、きっと大丈夫だっていう、確信が。
あれだけ小説が好きで、書いている姿がカッコいい人が、簡単に諦めるはずがないって。
けれど一週間後。叔父さんはあっさり、筆を折った。
部屋にあった本は全て売ってしまって、筆ペンや卓上照明は俺が貰った。
「どうしてやめるの?なんて、聞けなかった。だって、凄いさっぱりした顔をしていたんですよ? 憑き物が、呪いが取れたみたいに。凄く、楽そうに……」
それから叔父は、かつて見ていた夢から逃げるように。
見ないようにして、アルバイトに励む様になった。
叔父とはもう、それから会っていない。
「俺も、夢を追い続けた成れの果てを見て見ぬふりして、書き続けました。何作だって、書きましたよ」
たった二年間、いや二年にすら満たない期間で、俺は五作の小説を書いた。
凄まじい執筆スピードだ。だが、落選が続く。
最終選考に残ることなんて、一度も無かった。
最後に書いた作品は、これまでで一番の手応えを感じた、自信作だった。
だから。これまでで一番、落ち込んでた時に。
『好きだよ』
月見ヶ原に、告白された。
放課後の校舎裏だった。
卒業が近付いた、三年生のバレンタインデーだった。
大きなハート型のチョコレートを渡されて、俺はどこか安心感を覚えた。
頷く。嬉しいって、言った。
けど。
『え~っ、ごめ~んっ。もしかして真に受けちゃった~? 嘘だよ~』
これまで見た中で、一番と言って良いぐらいの、満面の笑み。
口が裂けるんじゃないか、と言う程の。
そして彼女は俺が新人賞に出した、最後の自信作を、俺の胸に押し付けて言う。
『つまんなかったよ~っ。なんか、独りよがりな文章でさ~』
月見ヶ原は二十枚ほどの作文用紙を、俺に向けて投げ付けた。
それは短編小説だった。
凄く、凄く面白い。
ただの、小説。
『ごめんね~。悠真の六年間、私が一週間で踏み越えちゃったね~』
そして。短編小説新人賞の、受賞された証。
『才能、無いんじゃない?』
俺は、全く小説を読まない、月見ヶ原に、負けたんだ。
「笑えますよね? 才能の違いで。たった一週間に、俺の六年間は負けたんだ!」
気が付けば、叫んでいた。
俺の怒りは留まるところを知らず、さらに続ける。
「絶望しましたよ。才能が違うってだけで、こんなに……。こんなに、残酷なことが起こって良いんだ、って」
天才の才能の前では、凡人の努力なんて塵のように軽い。
それまでに費やした年月も、月日も。
全部。無駄に終わった。
「不思議と諦めは付きましたよ。だって、超えられない“才能”っていう壁が、障害として現れてくれた」
天才が相手なら。
努力しても無駄なら。
もう、やらない方が良い。
「俺は才能の前では無力でした。努力なんて、無意味でした」
小説を書くのは好きだった。
今でも、叔父さんに憧れている気持ちは変わっていない。
「もう、あんな劣等感を抱きたくないんです。この将棋部にいても、天才の桜庭先輩がいるなら、きっとまた。俺は傷付く」
傷付くのは嫌だ。怖いから。
「だから。将棋部には入部しません。すみません」
「そう……」
頭を下げて、桜庭先輩を目が合わないようにした。
項垂れて、決して頭を動かさず。
椅子を引く音。
足音と共に甲高く、床が軋む。
ぎしり。ぎしり。ぎぎぃ。
徐々に近づいて来る足音は、桜庭先輩のもので……。
「痛っ」
「図に乗るなよ、凡人」
髪の毛を掴まれて、無理やり顔を上げさせられた先には、桜庭先輩の顔が間近にあった。
目と目が、鼻と鼻が、口と口が触れ合いそうなほどに、近い距離。
その整った容姿と、顔に掛かる吐息に鼓動が加速する。
「図に、って。そんな。乗ってなんか……」
「乗っているんだよ。お前は、無意識に」
「はあ?」
何を言っているのか、分からなかった。
髪を掴んだ手はとっくに離されていて、俺は自分の意志で桜庭先輩と目を合わせている。
その据わっている瞳が、どこまでも真っ直ぐに俺の目を見詰めて来る。
「才能? 天才? 馬鹿みたい」
「っ」お前がそれを言うか、という喉まで出掛かった言葉を必死に呑み込んだ。
「貴方は平凡な自分と向き合えずに、逃げ出した負け犬よ」
カッ、と頭に血が昇った。
思い出すのは月見ヶ原の言葉。姿。声。息使い。
嗚呼、こいつも。この女も、やっぱり。同じなんだ。
「お前に、何が分かるんだよ!」
俺は怒りに身を任せて、髪を掴んだ桜庭先輩の手を振り払い、力の限り机を叩いた。
破裂音に似た音が響いて、盤上に並べられていた駒たちが宙を舞う。
本気で、怒鳴った。
だと言うのに、桜庭千里は慄かない。
「分かるわけが無いでしょう。凡人の、そのつまらない悩みなんて」
理解なんてされない。
天才が、凡人を理解出来るなんてありえない。
「それで貴方は小説が嫌いになったの? 小説を書きたいって気持ちは消えてしまったの?」
「それは……」
消えてなんて、いない。
消えるはずが無い。
ずっと。ずっと、憧れた。
俺もあの背中を見せられるようにって。
六年間。毎日、小説を書き続けたんだ。
「何で書き続けなかったの?」
「だから、俺は、アイツが新人賞を取ったから……」
「その子が新人賞を取ったからって、もう貴方は新人賞を取れないの? 小説家になれないの?」
なれる。
新人賞は、毎年開催される。
それに枠だって一つじゃない。
いくつかの作品が最終審査まで残り、そのほとんどが出版して貰えるんだ。担当編集も付き、新企画の話も直接聞いて貰える機会が多い。
「俺は六年間も、努力したのに……」
「六年間も? 随分と主語が大きいのね」
桜庭先輩は、ふっと微笑んだ。
そして、豪速。腕を振るって、俺のネクタイを掴み上げた。
「たった六年程度で、凡人が天才に勝てると思うなって話をしているんだよ」
「っ」
その据わった瞳。光など反射しない、光沢の無い瞳。
そこに確かに、俺が写り込んでいた。
「お前は食事も、睡眠も惜しんで、小説を書き続けたのか?」
「い、いや……」
「じゃあ。やれ」
簡単に言ってのける。
だが、その言葉の一つ一つに、逃れられない重みが乗せられていた。
「凡人のお前に分かりやすいように説明してあげる」
深い溜息を吐いた桜庭先輩は、掴み上げていた俺のネクタイを離した。
机の端にまとめて置いていた、紙の束を散らばらせた。
そして、また。鋭い視線で、俺を睨み付けるように、言う。
「天才だって努力はするわ」
「…………あっ」
ストン。腑に落ちた。
ずっと、空っぽだった場所に、当て嵌まる。
最後の言葉(ピース)。
当たり前のことだ。そうだ。天才だって、努力する。
月見ヶ原だって、プライベートでは練習をしないだけだ。
しっかりとコーチが付いて、練習している時間だって多い。
プライベートでは努力をしないだけで、練習するべき時間に練習はしていたんだ。
「その子が一週間で書いたっていう小説も、ただの一週間と貴方は受け取るの?」
一週間。改めて、あの頃を振り返る。
よく考えれば月見ヶ原が一週間、学校を休んでいた期間があった。
ピアノのコンクールであれば公欠だが、あの時は風邪かで普通に単位を失っていた。
「一週間……、ずっと書いていた……?」
そう言われれば納得が行く。
一週間。七日間。百六十八時間。
ずっと。ずっと。ずっと……。
「気付かないようにしていたのか、見えていなかっただけなのか。真偽はどちらでも良いわ」
俺は何をしていたんだ?
何を見ていたんだ?
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな!
俺はなんて馬鹿だったんだ。
どこまで、図に乗っていたんだ。
凡人だから、天才には敵わないって。
天才に負けるのなんて当然なんだって。
阿呆で、怠惰で、傲慢だ。俺は。
「それで?」
「え?」
「貴方は小説が好き? 嫌い?」
質問。それは薄皮の隙間を縫うようにして、そっと斬り込んで来た。
考える。思考する間も無く、走馬灯のように、これまでの景色が頭に流れ込んで来た。
返答。そんなもの。決まっている。
「大好きです。書くのも、読むのも」
ずっと憧れた、夢の姿。
それはもう、すでに。
叔父への憧れなんか、通り過ぎて。
「小説家になりたい」という、俺自身の夢に昇華していた。
もう、叔父の背中を思い浮かべることはない。
だってそこには、小説家になった後の俺の姿が、鮮明に浮かんでくるんだから。
「運命は勇者に微笑む」
「あ――――」
奇しくも、桜庭先輩が口にした言葉は、今朝読んだばかりの……。
「貴方は勇者? それとも、愚者に留まるの?」
勇者とは、勇気ある者。勇ましい者。そして、諦めない者。
物語に出て来る勇者は、皆。諦めなかった。
何度、くじけても。転んでも。負けても。失っても。
勇者はきっと、そういう人物だ。
神様も、運命を傾けるなら、そういう人物を……。
「悠真。貴方が、本気で小説家になりたいのなら」
華奢な指で、俺を指す。
まるで心臓を鷲掴みにされたような。
そんな、痛み。鋭い感覚が、胸を貫く。
「勇者であれ」
――――勇気を出しなさい。
そう、言われた。
心臓が、大きく鼓動する。
血管という血管に流れる血液が、躍動を始める。
全身の体温が上がり、頬が熱帯びて思考が鈍るが、不思議と桜庭先輩の言葉だけは耳に入って来た。
嗚呼、そうか。
俺はずっと、この言葉を言って欲しかったんだ。
頑張れ、って。貴方なら出来る、って。
まるで、そう言ってくれたような気がした。
けど。やっぱり。
直接、聞きたいな。
「桜庭先輩。頑張れ、って。言ってくれませんか?」
「? 頑張れ」
「っ、はい!」
久しぶりに腹から声を出して、床を蹴った。走った。駆け出した。
鞄を背負って、振り返ることなく。
部室の扉を強引に開けて。
すれ違った顧問の制止も無視して。
吹奏楽部も、太鼓部も。
音なんて気にならない。
まるで無音の世界で、俺は思う。
「早く書きたい……っ」
掠れた声で絞り出した一言は、紛れもない本心だった。
快速から普通列車に乗り継いで、俺は自分の駅に降りた。
駆け足で帰宅して、自室に入った。
鞄を投げ捨てて、久方ぶりにこの机に座った。
埃の被っていないパソコンを開く。
懐かしくないデスクトップが出迎えてくれた。
「まあ、毎日開閉を繰り返していたからな」
意味も無く。毎日。
今思えば、未練が行動に出ていたのだろう。
その未練と向き合いたくないから、俺は気付かないふりをしていた。
ずっと。ずっと。俺は小説家になりたかったんだ。
「ふー」
いつもの執筆用のアプリを開く。
書式の設定を縦書きに変更する。
大きく深呼吸を繰り返して、俺は液晶画面に映し出された、真っ白なキャンパスを見た。
これから、この白いキャンパスは俺の物だ。
誰にも穢されていない。
誰も足を踏み入れていない。
日本語という世界で屈指の、難解な言語を使用して、俺は物語を綴る。
指をキーボードに置き、頭を回す。
書け。書くんだ。小説家になるんだろう?
自分に言い聞かせるように、打つ。打つ。打つ。
ああ、熱い。
ああ、楽しい。
嗚呼、ありがとう。
熱帯びた頭が、指が、猛る。
そうだ。俺は、小説家になりたいんじゃない。
俺は、小説家になるんだ。
余談だが、川端悠真にはまだ五歳にも満たない小さな妹がいる。
悠真の事を慕っており、悠真もまた誰よりも愛しく思っている妹だ。
人形遊びが大好きで今日も熊の人形を抱き締めてお昼寝をしていた。
御昼寝から起きて、兄の帰宅を知ると大好きな人形を片手に兄の部屋に赴いたのである。
「にいに?」
ひょこりと扉の隙間から部屋を覗き込むと、その瞳に写ったものを正直に呟いた。
「……らいおんさん?」
しかしそれは幻想に終わる。瞬きをして再び目を開けば、らいおんさんは消えていた。
ダンゴムシのようにみっともなく背中を丸めてパソコンに向かう、悠真の姿がそこにあった。
何度もごしごしと目を擦ってみるが悠真の姿は変わらない。
不思議に思いこてんと傾げた幼い幼女は、何故だか今は兄の邪魔をしてはならない気がしてとてとてと階段を降りて行くのであった。
自分でもよく分からない、不思議な高揚感をその胸に抱きながら――――。
鴉と坂 近藤一 @kurokage10
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