第1話

第一章

 運命は勇者に微笑む   著 遠藤修一。

 読み終えたばかりの小説を、ぽっかりと空いていた本棚の隙間に差し込んだ。

 隙間なく並べられている本棚を見て、かつて湧いていた満足感は、今はもう無い。

 ふと、壁に画鋲で留めていたカレンダーが斜めっている事に気が付いて、直すために手を伸ばした。

 いつもと違う動きをしたせいで、目に付かないようにしていた机が、視界の隅に写り込んでしまった。

 机の端には何冊ものノートが積み重ねられている。他にも、真新しい筆ペン。昭和のレトロな雰囲気を醸し出す卓上照明。木製で余計な装飾が一つも無い卓上時計。小説を書くためだけに購入したノートパソコンが、今はもう使われず、机の上でぽつんと寂しそうに閉じられていた。

 この机だけは見たくなかった、と顔を背ける。

「クソ」

 早く、もっと早くに捨ててしまえば良かった。

 部屋は何も、机の上だけじゃない。古びたカーテン、ハンガーに掛けた甚平、主に小説や漫画が並べられた本棚。寝心地が悪いからとベッドだけは新しいものを買い揃えた、中途半端な内装は俺自身を現しているようで、今はとても居心地が悪かった。

 今も尚、俺は「夢」という鎖に雁字搦めにされている。

 叔父の背中をちらつかせるような内装にした自分を呪い、俺は逃げ出すようにして家を出た。

 

 地元の中学校を卒業した俺は、小樽にある私立校に進学した。進学先に小樽を選んだのに、特別な理由は無い。ただ、大して高校に興味が無かったので、担任に言われるがままに面接を受けたのがこの高校だったというだけの話だ。

 小樽私立地獄坂高等学校。通称、地獄高。

 昭和のヤンキー漫画に出て来るような名前だが、実際に小樽特有の酷い傾斜を「地獄坂」と称している。天狗山ロープウェイへと続く、この地獄坂。その麓にあるのがこの地獄高なのだ。

 全校生徒、二百名にも届かない小さな高校。クラスメイトは二十五名程度と、少ない。

「クラス替え無いとかありえなくない?」

「ほんと~。私もそっちのクラスが良かった~っ」

 この高校の特色として言えば、クラス替えが無いという事だろう。担任が三年間変わらずに、生徒の細かな変化に気付けるように配慮しているらしい。

 入学前から決まっていた事柄に対して、ぶうくさと文句を垂れる女子生徒が二人。

 教室内を見渡せば、いくつかの大きなグループがすでに出来上がっていた。

 一つは運動部のようで、体格が大きくて少しガラが悪い。大声で、とは言わないまでも、教室中に響く声で笑い合っていた。

 二つ目が地味めな、陰キャと称されるような生徒達。大人しく、一つの席の周りに集まって会話をしている。

 三つ目が女子のグループだ。この教室で一番の大声で話をして、他のクラスからも女子を集めて巨大なグループを作っていた。さっき、文句を言っていた二人もこのグループに所属している。

 他にもちらほらと、一人でいる生徒や、二人、三人でグループを作っている生徒もいた。

 クラス替えが無いという性質上、このグループは三年間、変わることは無いだろう。

「席に着け―」と教室に入って来た若輩の教師の声によって、喧騒とした雰囲気は一蹴された。

 蜘蛛の子を散らすように、それぞれ出席番号順に席に座る。

「このクラスの担任になった、笹原です。三年間、みんなと一緒に苦楽を共にする事になると思うけど、何か困ったことや、分からないことがあったら相談してください」

 しんと静まり返った教室で担任、笹原は挨拶をした。

 ぱっと見、地味。というよりも、可も無く不可も無いグレーのスーツを着ている。今日は入学式、保護者が集まるので髪型もぴちっとセットしていた。

 第一印象としては、真面目な教師だ。

「まだ入学式が始まるまでに、時間があるから自己紹介でもしようかな。出席番号順で始めよう」

 そう担任に促されて、出席番号一番の相沢が自己紹介を行った。続々と順番は進み、やがて俺の番が回って来た。

「川端悠真です。よろしくお願いします」

 短く、端的に。さっさと名前だけ告げて、腰を下ろす。クラスメイト達から控えめな拍手を浴びせられて、すぐに続く出席番号の生徒が自己紹介に移った。

 自己紹介の場が、目立つことが嫌いだ。昔から黒板の前にわざわざ出て行って、挨拶をさせられたり、作文や自由研究の発表をさせられたりする事が苦手だった。

 人の視線が集まり、まるで嘲られているように感じる。

 気のせいかもしれないが、どうしてもそう錯覚してしまうんだ。

 教室の扉がコンコン、と優しくノックされた。他の教員が「もうすぐ入場です」と連絡に来たのだ。笹原は「分かりました」と頷いて、俺達を立たせた。

「何も持たなくていいから、廊下に男女別で、出席番号順に並べー」

 言われて、皆、廊下に並んだ。

 一気に喧騒と化した廊下。

 他のクラスも廊下に出て、話し声が廊下に響いているのだ。

 段々と喧騒が激しくなって行く中、笹原はただ真っ直ぐに俺達を見渡していた。その、鋭い視線に気付き、クラスメイト達は段々と静けさを取り戻して行った。

「……よし。気付いたな」

 笹原はそれだけ言って、頷いた。


 教育とは何も、叱って教えるだけでは無いと、俺は思っている。まずは自らの間違いに気付き、失敗したならばそれを教訓にする。それでも、分からなかったら教えてやれば良い。教え、育てるんだ。


 かつて、高校サッカー十連覇を成し遂げた、名将榊監督の言葉だ。

 それを笹原は体現して見せた。

「お前ら、うるっさいぞ!」

 だが、まあ、やはり分からない生徒も一定数いる。

 隣のクラスの担任が、今だに喋ってばかりいる自分の生徒に怒鳴っているのが聞こえた。

 少なくともこのクラスは「気付ける」クラスらしい。このクラスで良かった、と隣のクラスの担任の怒鳴り声を聞きながら、しみじみと思うのだった。


『1年C組。入場して下さい』

 司会者の案内に従い、体育館入場。 黄緑色の壁。床は普通に木目調だが、少し視線を上に向ければ天蓋が外れかけていた。歴史がある古い学校だが、私立校で部活動に力を入れていることもあって、体育館は綺麗だ。

 「俯くくらいなら、空を見上げて息を吸え」と「一歩前進」の二枚の横断幕が壁に掛けられている。男女双方のバスケ部の横断幕で、よく見れば隅の方にOB、保護者会よりと書かれていた。

 ステージの手前にある俺達、一年生が座るためのパイプ椅子が並んでいた。ステージの壇上、その左右には校歌と、校訓である「向上心」の書影が額に入って飾られている。

 ほんの三十年前ぐらい前までは、地元でも有名な不良校だったらしい。多少ガラの悪い生徒はいるが、今はその面影も無いくらいに落ち着いた雰囲気の高校だ。

 着席して、すぐに入学式が始まった。

 国歌・校歌の合唱、来賓の挨拶、校長の挨拶、在校生代表、新入生代表。つまらなく、単調に入学式が続いた。欠伸を噛み殺して耐えていると、いつの間にか入学式が終わったようだ。

 来賓、保護者達が退席して行き、残ったのは新入生と在校生だけだ。

「続きまして、新入生歓迎会を行います。進行は生徒会庶務の田中が行います」

 張り詰められていた緊張感が、弛緩する。

 周囲の新入生からもほっと溜息が漏れて、姿勢を崩す者もいた。

 中学では新入生歓迎会は生徒が主導して行われる行事だ。実際に進行を生徒会の生徒が行っているので、それは高校でも変わらないだろう。

「地獄高は――――」

 それから、生徒会による校則の説明。

 年間の行事について聞かされる。地獄高ならではの「地獄坂登り」と名前を変えただけの強歩大会など、聞いているだけで頭の痛い行事まであった。

 新入生からは悲鳴が漏れるが、構わずに進行を進める。

 それが終われば今度は、部活紹介と言う名の勧誘の時間だ。それぞれ、部活動に所属する生徒達が壇上の横に集まって行く。

「最初に男子バスケットボール部の紹介です」

「「「おおおおおおおっ!」」」

 雄叫び。雄々しく、二十数名の男子生徒達が登壇した。

 その中にはクラスメイトの姿が見えた。

 私立校として部活動に力を入れている地獄高は、バスケットボール推薦制度を導入している。ある程度の条件を満たして男子バスケットボール部に所属すれば、入学金・授業料が免除されるというものだ。

 ぱっと見では、クラスメイトの一人が部内で、一番身長が高いような気がする。

「打倒、潮見台高校! 全道進出!」

 バスケ部の紹介でカンペを見ながら読み上げ、最後に、大きな目標を、大きな声で語るバスケ部の主将は、身長が高い割に細身だった。だが、背番号が一桁でユニフォームを貰っている事から、主将として申し分ない実力を持っているのだろう。

 拍手が起こる。続けて、女子バスケ部、バトミントン部と続いて行った。

 部活の数は、休止中のものも含めて十三個を超えた。私立校で融通が効くおかげか、一名でも入部希望者がいれば部活動を続けられるらしい。

 漫画のように突然、廃部と申し付けられることはないようだ。

 それから、最後の部活動の順番がやって来た。

「続いて将棋部です」

 将棋。日本の代表的なボードゲームだ。最近では同世代に、史上最速の記録を打ち立てた中学生棋士が誕生したことで一世を風靡していた。

 その影響でおばちゃん方に「観る将」というものが広まり、ミーハーなファンが増えたのも事実だ。将棋人口も爆発的に増加して、将棋教室に通わせる親も後を絶たない。

 だが、将棋部と聞いた周囲の反応は皆無だった。

 それも当然と言えば、当然だ。戦前や戦後間もない頃は、日本に活気が無く、娯楽を求めていた。

 インターネットが普及した現代では、スマホで簡単に出来るゲームなど無数にある。同じ姿勢で何十分何時間も拘束される将棋など、誰もやりたがらないだろう。

 皆が興味を失い、中には他の生徒とおしゃべりを始める生徒がいる中、俺は不思議と視線を壇上に奪われていた。

 顧問と思われる、壮年の教師。そして上級生であろう、女子生徒。

 アイドルとまでは行かずとも、他の女子生徒と比べても整っていると言える容姿は、美人そのものだった。

 だが、その目はどこか虚ろで、まるで俺達とは別のところに視線を向けているような、そんな不思議な形相だった。

「ええっと、我々は将棋部です」

 机と椅子を一組、壇上に運んだ後、顧問がマイクを握った。

 あの人が喋るんじゃないのか、と思いながら話している内容に耳を傾ける。

「部員はここにいる部長の桜庭のみです。創部から一年しか経っていませんが、桜庭は全道大会優勝を三回、全国大会優勝を二回経験しております。練習会でも負けなしの実力者で、この学校内では一番成績を残しています」

 凄まじい成績だった。

 たった一年という短い期間で、全道、全国で優勝を積み重ねる。

 それだけでどれだけの実力を持っているのか、正しく理解出来た。

 ――――この時は、そう思っていた。

「活動日は週に三回です。主に将棋の練習をして……」

 顧問がそう話している間にも、桜庭先輩は黙々と駒を並べていた。

 しなやかに。美しく。その華奢な指で、小さな駒を運ぶ。

 ただ一度、瞬きするのももったいないくらいに、芸術的だった。

 一言も喋っていない。何も語っていない。

 ただ、その姿勢から。細やかな振る舞いから。将棋指しとしての顔が見えた。

 そして駒を並べ終えたのか、姿勢を正す。

 それから虚空に一礼。

 そこには誰もいない。

 ならば、誰に対して?

 きっと、将棋に対してだ。

 顔を上げてから、ゆったりとした動作で桜庭先輩は将棋盤に腕を伸ばした。

 周囲の動きがスローモーションに見えた。聞こえて来る声も、遅すぎて聞き取れない。宙を舞う塵に、照明の光が反射して、まるで光の粒が堕ちているように見えた。

 そんな世界で、桜庭先輩の動きは「普通に遅い」程度に見える。

 

 パシンっ


 乾いた音が響く。

 瞬間、世界は動き出した。

 周辺生徒の顔。埃っぽい匂い。衣擦れの音。肌を擦る感触。暗幕では抑えきれない陽射し。

 様々な情報が、大量に流れ込んで来た。

 これはなんだ?

 一体、何なんだ?

 疑問。誰も答えない。

 だが、応えるようにして、桜庭先輩は再び駒を持って、盤に打ち付けた。

 幻想的な光景だ。夢のような一幕だ。

 こんなにも美しい存在が、本当にあるのか。と、ほっと溜息を漏らした。

 目を奪われて、離せない。波の様に押し寄せる、この空間から得られる情報の全てを差し置いて、頭の中は桜庭先輩で埋め尽くされていた。

 あの芸術的なまでに美しい、将棋を指す姿。

 桜庭先輩と将棋は、共存するために生まれたんだ、とそう思わせる程だ。

 あの人の事を知りたい。

 桜庭先輩の事を、あの美しい姿の理由を、知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。

 なら、どうする?

 どうすれば、桜庭先輩の事を知れる?

 どうすれば、桜庭先輩に近付ける?

「もし将棋部に入りたい人がいれば、僕か桜庭のところに……」

「入りたいです」

「えっ?」

 あっ。

 やってしまった。そう気が付いた時には全てが遅かった。

新入生歓迎会の部活紹介というステージに上がった上級生が一方的に話す場であり、万が一にも勧誘される側の生徒から声が上がる事は無い。不協和音の様に発せられた俺の声に反応して全校生徒と教師たちからの視線を一点に集め、俺は羞恥に頬を染める。

 俺の奇行としか呼べない言動に桜庭先輩が驚いたように、ほんの少しだけ俺の方に視線を向けた。けれどそれも一瞬。一瞥の後、将棋盤に視線を戻した。

 その仕草が、懐かしい顔を脳裏に過らせた。

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